***
「これなんだけど」
緋桜さんは、藤棚の下に置かれた石の台へ、古い桐の箱をそっと置いた。
頭上には紫の藤が幾重にも垂れ、風が吹くたび、淡い花房がさらさらと揺れている。
境内の奥にあるせいか、参道のにぎわいは遠く、ここだけ少し空気が澄んでいるように感じられた。
箱は、見た目よりずっと重そうだった。
表面には薄く桜の紋が彫られている。
長い年月を経ているはずなのに、木目はしっとりと艶を帯びていた。
緋桜さんが蓋を開けると、中には、細長い白い和紙がぎっしりと詰まっていた。
ひとつひとつに、町の人たちの文字が綴られている。
お父さんへ。
会えなくなったあなたへ。
天国のおばあちゃんへ。
「これは……」
「久遠桜に捧げる手紙だよ」
箱の中には、白い和紙が何枚も重なっていた。
「この町では、亡くなった人や、もう会えなくなった人への言葉を、こうして紙に書くんだ」
そこには、さまざまな筆跡の文字が並んでいた。
子どもが一生懸命書いたのだろう、少し丸みを帯びた字も混じっている。
どれも誰かが誰かに届けたくて、けれど自分ではもう届けられなくなった言葉だった。
「書かれた手紙は、祭りの日まで藤棚に結んでおく。風に揺られて、雨を受けて、少しずつ久遠桜の気に馴染ませるために」
見上げた藤棚には、まだ何も結ばれていない。
紫の花房だけが、風に揺れていた。
「そして奉納祭の日、巫女が久遠桜の根元に酒を捧げ、祝詞を上げる。そうすれば、もう会えない相手にも思いが届くと、この町では信じられているんだ。当日には結構な数になるはずだよ」
緋桜さんが、境内のさらに奥を示す。
「あんなふうに」
その先に、もうひとつ藤棚があった。
咲いているのは、紫ではなく白い藤だった。
幾重にも垂れた白い花房が、久遠桜の淡い光を受けて、ほのかに桃色を帯びている。
その下には、細長い和紙がびっしりと結ばれていた。
柱のそばにも、花房のあいだにも。棚の端から端まで、無数の白い手紙が風に重なり合うように揺れている。
まるで、誰かの言葉が花になって咲いているみたいだった。
「こんなに、たくさん……あれは緋桜さんが結んだんですか?」
「いや。町の人たちだと思う」
緋桜さんは、白い藤棚を見つめたまま答えた。
聞き間違いかもしれない。
けれど「思う」という言い方が、なぜか少しだけ引っかかる。
神様なのに、自分の境内のことを、思う?
その横顔は、ほんの一瞬だけ、遠くを見た気がした。
「年に一度の奉納祭で、こうして集まった手紙を久遠桜の枝に結んでいく。昔は千歳本家の巫女が、祭りまでの二週間をかけて、ひとつずつ手紙を結んでいたんだ」
緋桜さんの視線が、箱の中の手紙へ落ちる。
「ここしばらくは、桜小路の関係者や千歳の分家の人たちに手伝ってもらっていたんだけど……今年は、朱里がこの町に戻ってきたわけだし」
久遠桜の祭りには、小さいころ、おばあちゃんに連れられて何度か行ったことがある。
けれど、わたしが知っているのは、屋台の並ぶ表のにぎわいだけだった。
父が東京へ出てから、千歳本家はもう名ばかりの存在になっていたのだと思う。
大きくなってからは、この町へ来ること自体もほとんどなくなった。
祭りの裏に、こんな神事があることも、町の人たちが何を久遠桜に託していたのかも。
わたしは何も知らなかった。
「無理にとは言わない。けれど、せっかくなら少しだけでも手伝ってもらえたらと思って」
「……」
夢の中の初音さんを思い出した。
里の人たちの思いを預かり、久遠桜の前に立っていた彼女の姿を。
わたしに、そんなことができるのだろうか。
そう思う一方で、箱の中に詰まった手紙から目を逸らすこともできなかった。
誰かに届いてほしい言葉がある。
もう会えない人へ向けた思いがある。
それを預かるのが千歳本家の巫女の役目なら。
「やりたいです」
気づけば、そう口にしていた。
「私に、やらせてください」
緋桜さんの紅い瞳が、やわらかく細められる。
「そう言ってくれるんじゃないかと思っていた」
白い紐が、わたしの手元へそっと差し出された。
「じゃあ、さっそくやってみようか」
「これなんだけど」
緋桜さんは、藤棚の下に置かれた石の台へ、古い桐の箱をそっと置いた。
頭上には紫の藤が幾重にも垂れ、風が吹くたび、淡い花房がさらさらと揺れている。
境内の奥にあるせいか、参道のにぎわいは遠く、ここだけ少し空気が澄んでいるように感じられた。
箱は、見た目よりずっと重そうだった。
表面には薄く桜の紋が彫られている。
長い年月を経ているはずなのに、木目はしっとりと艶を帯びていた。
緋桜さんが蓋を開けると、中には、細長い白い和紙がぎっしりと詰まっていた。
ひとつひとつに、町の人たちの文字が綴られている。
お父さんへ。
会えなくなったあなたへ。
天国のおばあちゃんへ。
「これは……」
「久遠桜に捧げる手紙だよ」
箱の中には、白い和紙が何枚も重なっていた。
「この町では、亡くなった人や、もう会えなくなった人への言葉を、こうして紙に書くんだ」
そこには、さまざまな筆跡の文字が並んでいた。
子どもが一生懸命書いたのだろう、少し丸みを帯びた字も混じっている。
どれも誰かが誰かに届けたくて、けれど自分ではもう届けられなくなった言葉だった。
「書かれた手紙は、祭りの日まで藤棚に結んでおく。風に揺られて、雨を受けて、少しずつ久遠桜の気に馴染ませるために」
見上げた藤棚には、まだ何も結ばれていない。
紫の花房だけが、風に揺れていた。
「そして奉納祭の日、巫女が久遠桜の根元に酒を捧げ、祝詞を上げる。そうすれば、もう会えない相手にも思いが届くと、この町では信じられているんだ。当日には結構な数になるはずだよ」
緋桜さんが、境内のさらに奥を示す。
「あんなふうに」
その先に、もうひとつ藤棚があった。
咲いているのは、紫ではなく白い藤だった。
幾重にも垂れた白い花房が、久遠桜の淡い光を受けて、ほのかに桃色を帯びている。
その下には、細長い和紙がびっしりと結ばれていた。
柱のそばにも、花房のあいだにも。棚の端から端まで、無数の白い手紙が風に重なり合うように揺れている。
まるで、誰かの言葉が花になって咲いているみたいだった。
「こんなに、たくさん……あれは緋桜さんが結んだんですか?」
「いや。町の人たちだと思う」
緋桜さんは、白い藤棚を見つめたまま答えた。
聞き間違いかもしれない。
けれど「思う」という言い方が、なぜか少しだけ引っかかる。
神様なのに、自分の境内のことを、思う?
その横顔は、ほんの一瞬だけ、遠くを見た気がした。
「年に一度の奉納祭で、こうして集まった手紙を久遠桜の枝に結んでいく。昔は千歳本家の巫女が、祭りまでの二週間をかけて、ひとつずつ手紙を結んでいたんだ」
緋桜さんの視線が、箱の中の手紙へ落ちる。
「ここしばらくは、桜小路の関係者や千歳の分家の人たちに手伝ってもらっていたんだけど……今年は、朱里がこの町に戻ってきたわけだし」
久遠桜の祭りには、小さいころ、おばあちゃんに連れられて何度か行ったことがある。
けれど、わたしが知っているのは、屋台の並ぶ表のにぎわいだけだった。
父が東京へ出てから、千歳本家はもう名ばかりの存在になっていたのだと思う。
大きくなってからは、この町へ来ること自体もほとんどなくなった。
祭りの裏に、こんな神事があることも、町の人たちが何を久遠桜に託していたのかも。
わたしは何も知らなかった。
「無理にとは言わない。けれど、せっかくなら少しだけでも手伝ってもらえたらと思って」
「……」
夢の中の初音さんを思い出した。
里の人たちの思いを預かり、久遠桜の前に立っていた彼女の姿を。
わたしに、そんなことができるのだろうか。
そう思う一方で、箱の中に詰まった手紙から目を逸らすこともできなかった。
誰かに届いてほしい言葉がある。
もう会えない人へ向けた思いがある。
それを預かるのが千歳本家の巫女の役目なら。
「やりたいです」
気づけば、そう口にしていた。
「私に、やらせてください」
緋桜さんの紅い瞳が、やわらかく細められる。
「そう言ってくれるんじゃないかと思っていた」
白い紐が、わたしの手元へそっと差し出された。
「じゃあ、さっそくやってみようか」


