***
それからしばらくして、夏休みが始まった。
初音のこと。堕神のこと。
考えないようにしても、胸の奥には小さな棘のように残っている。
奉納祭までは、あと二週間。そんな夏休み初日の昼下がり。
「七姫でーす! お兄さんが、あかりんの婚約者の……」
「桜小路緋桜です」
駅から少し歩いた先にある、最近できたばかりの古民家カフェ。
黒い梁と白い漆喰の壁。
窓際には小さな庭が見え、低いテーブルの上には、季節の果物を使ったケーキと湯気の立つ紅茶が並んでいた。
そこに座っている緋桜さんは、いつもの和服姿ではない。
白いシャツに、薄いグレーのカーディガン。
髪もゆるく後ろでまとめていて、ぱっと見は、少し浮世離れした綺麗な男の人、くらいに見える。
七姫に神様だとばれないように、今日はできるだけ現代の服を着てほしいと頼んだのだ。
七姫は椅子に座るなり、明るい金髪を揺らしながら店内をきょろきょろ見回した。
「え、待って。ほかのお客さんいなくない?」
「今日は貸し切りにしてもらった」
緋桜さんが、何でもないことのように言う。
「ええっ!?」
「朱里の大切な友人だからね。落ち着いて話せる場所のほうがいいと思って」
また、そういうことを当たり前みたいに言う。
七姫はぱちぱちと瞬きをしたあと、わたしのほうへ身を乗り出した。
「え、わたしまでこんな好待遇? 神なんだけど」
「……朱里の友人は、勘がいいね」
緋桜さんが、少しだけ目を細めた。
その一言に、胸がどきっと跳ねる。
「あ、いや、そういう意味じゃなくて!」
きょとんとしている七姫をよそに、わたしは慌てて緋桜さんへ身を寄せた。
ギャルと神様の対面は、何が起こるか分からない。
「えっと……改めて見ると、なんか不思議な光景だね」
東京で一緒に放課後を過ごしていた親友と、久遠桜の神様であり、今はわたしの婚約者でもある人。
そのふたりが同じテーブルについている。
そう思うと、目の前の光景が少しだけ現実離れして見えた。
「こっちの台詞なんだけど? 久しぶりに会ったら、イケメン大富豪とカフェ貸し切って待ってるんだもん。びっくりだよ」
「遠いところ、よく来てくれたね」
「勢いで来ちゃいました! 宿もこれから探すつもりで」
「それなら、うちに泊まればいい。部屋ならいくつもあるし」
「えっ、いいんですか? じゃあ、お言葉に甘えて——」
そこまで言いかけて、七姫がふと目を瞬かせた。
「……あ、でも猫っています?」
「いるけど、どうして?」
「わたし、猫アレルギーで。猫ちゃんは好きなんですけど、体質だけはどうにもならなくて!」
柏の顔が頭に浮かぶ。
猫じゃないわよ、と尻尾を揺らす姿まで、簡単に想像できてしまった。
桜小路家に泊まってもらうのは、難しそうだ。
「あの……それなら、私が使っていた部屋はどうかな」
「え?」
「今はおばあちゃんが入院していて、家空いてるから。私としても、家に誰かいてくれると安心っていうか」
「いいの!?」
七姫が身を乗り出した。
「正直、めちゃくちゃありがたい。ホテルより落ち着きそうだし、あかりんの家なら安心だし」
緋桜さんも小さく頷く。
「朱里がそうしたいなら、俺は構わない。必要なら、式神の見回りも手配しよう」
「式神?」
「ぼ、防犯係みたいなものだよ! それよりこっちにはどのくらいいるの?」
式神について掘られるのはまずい。
話を逸らしつつ質問すると、七姫はぱっと顔を輝かせた。
「二週間はいる予定。久遠桜の奉納祭は今回の旅行のメインだし!なんかこの町、パワースポットも神社も多いから、全然飽きなさそう!」
「あはは……七姫は本当にそういうの好きだね」
「やばっ!」
時計を見た七姫の声が跳ねる。この騒がしさが懐かしい。
「今度は何!?」
「十五時から駅前で、お祭り前の御朱印めぐり案内があるんだよね。そこ行きたいし、商店街も見たいし、荷物もあかりんのおばあちゃんちに置きたいし……」
七姫はスマホのメモを見ながら、早口で予定を並べていく。
「荷物なら、こちらで届けさせよう。朱里のおばあさまの家でいいんだろう?」
「えっ、いいんですか?」
「もちろん」
緋桜さんが軽く目配せをすると、カフェの奥から、黒いベスト姿の若い男性が静かに近づいてきた。
ぱっと見は店員さんにしか見えない。
けれど、その動きがあまりにも音もなく滑らかで、わたしにはすぐに分かった。
たぶん、式神だ。
「神対応……! じゃあ、ちょっと行ってきます! 迷ったら電話する!」
七姫は何も気づかないまま、キャリーケースをその人に預けると、元気よくカフェを飛び出していった。
七姫の足音が、店の外へ弾むように遠ざかっていく。
さっきまで笑い声でいっぱいだったカフェの奥席に、ふっと静けさが戻った。
テーブルの上では、紅茶の湯気だけがゆらゆらと揺れている。
緋桜さんと二人きりになると、七姫の勢いに紛れていた緊張が、少し遅れて胸の奥に戻ってきた。
「朱里の友人は、元気な子だね」
「そうなんです」
騒がしくて、思いついたらすぐ行動。ひとの話を最後まで聞いていないようで、大事なところは誰よりも見ている。
あの明るさに、わたしは何度も救われてきた。
「そういえば、さっき彼女が話していた奉納祭についてだけど」
「久遠桜の……でしたっけ?」
「ああ」
緋桜さんの目が、静かにわたしを見る。
「朱里に、手伝ってほしいことがあるんだ」
それからしばらくして、夏休みが始まった。
初音のこと。堕神のこと。
考えないようにしても、胸の奥には小さな棘のように残っている。
奉納祭までは、あと二週間。そんな夏休み初日の昼下がり。
「七姫でーす! お兄さんが、あかりんの婚約者の……」
「桜小路緋桜です」
駅から少し歩いた先にある、最近できたばかりの古民家カフェ。
黒い梁と白い漆喰の壁。
窓際には小さな庭が見え、低いテーブルの上には、季節の果物を使ったケーキと湯気の立つ紅茶が並んでいた。
そこに座っている緋桜さんは、いつもの和服姿ではない。
白いシャツに、薄いグレーのカーディガン。
髪もゆるく後ろでまとめていて、ぱっと見は、少し浮世離れした綺麗な男の人、くらいに見える。
七姫に神様だとばれないように、今日はできるだけ現代の服を着てほしいと頼んだのだ。
七姫は椅子に座るなり、明るい金髪を揺らしながら店内をきょろきょろ見回した。
「え、待って。ほかのお客さんいなくない?」
「今日は貸し切りにしてもらった」
緋桜さんが、何でもないことのように言う。
「ええっ!?」
「朱里の大切な友人だからね。落ち着いて話せる場所のほうがいいと思って」
また、そういうことを当たり前みたいに言う。
七姫はぱちぱちと瞬きをしたあと、わたしのほうへ身を乗り出した。
「え、わたしまでこんな好待遇? 神なんだけど」
「……朱里の友人は、勘がいいね」
緋桜さんが、少しだけ目を細めた。
その一言に、胸がどきっと跳ねる。
「あ、いや、そういう意味じゃなくて!」
きょとんとしている七姫をよそに、わたしは慌てて緋桜さんへ身を寄せた。
ギャルと神様の対面は、何が起こるか分からない。
「えっと……改めて見ると、なんか不思議な光景だね」
東京で一緒に放課後を過ごしていた親友と、久遠桜の神様であり、今はわたしの婚約者でもある人。
そのふたりが同じテーブルについている。
そう思うと、目の前の光景が少しだけ現実離れして見えた。
「こっちの台詞なんだけど? 久しぶりに会ったら、イケメン大富豪とカフェ貸し切って待ってるんだもん。びっくりだよ」
「遠いところ、よく来てくれたね」
「勢いで来ちゃいました! 宿もこれから探すつもりで」
「それなら、うちに泊まればいい。部屋ならいくつもあるし」
「えっ、いいんですか? じゃあ、お言葉に甘えて——」
そこまで言いかけて、七姫がふと目を瞬かせた。
「……あ、でも猫っています?」
「いるけど、どうして?」
「わたし、猫アレルギーで。猫ちゃんは好きなんですけど、体質だけはどうにもならなくて!」
柏の顔が頭に浮かぶ。
猫じゃないわよ、と尻尾を揺らす姿まで、簡単に想像できてしまった。
桜小路家に泊まってもらうのは、難しそうだ。
「あの……それなら、私が使っていた部屋はどうかな」
「え?」
「今はおばあちゃんが入院していて、家空いてるから。私としても、家に誰かいてくれると安心っていうか」
「いいの!?」
七姫が身を乗り出した。
「正直、めちゃくちゃありがたい。ホテルより落ち着きそうだし、あかりんの家なら安心だし」
緋桜さんも小さく頷く。
「朱里がそうしたいなら、俺は構わない。必要なら、式神の見回りも手配しよう」
「式神?」
「ぼ、防犯係みたいなものだよ! それよりこっちにはどのくらいいるの?」
式神について掘られるのはまずい。
話を逸らしつつ質問すると、七姫はぱっと顔を輝かせた。
「二週間はいる予定。久遠桜の奉納祭は今回の旅行のメインだし!なんかこの町、パワースポットも神社も多いから、全然飽きなさそう!」
「あはは……七姫は本当にそういうの好きだね」
「やばっ!」
時計を見た七姫の声が跳ねる。この騒がしさが懐かしい。
「今度は何!?」
「十五時から駅前で、お祭り前の御朱印めぐり案内があるんだよね。そこ行きたいし、商店街も見たいし、荷物もあかりんのおばあちゃんちに置きたいし……」
七姫はスマホのメモを見ながら、早口で予定を並べていく。
「荷物なら、こちらで届けさせよう。朱里のおばあさまの家でいいんだろう?」
「えっ、いいんですか?」
「もちろん」
緋桜さんが軽く目配せをすると、カフェの奥から、黒いベスト姿の若い男性が静かに近づいてきた。
ぱっと見は店員さんにしか見えない。
けれど、その動きがあまりにも音もなく滑らかで、わたしにはすぐに分かった。
たぶん、式神だ。
「神対応……! じゃあ、ちょっと行ってきます! 迷ったら電話する!」
七姫は何も気づかないまま、キャリーケースをその人に預けると、元気よくカフェを飛び出していった。
七姫の足音が、店の外へ弾むように遠ざかっていく。
さっきまで笑い声でいっぱいだったカフェの奥席に、ふっと静けさが戻った。
テーブルの上では、紅茶の湯気だけがゆらゆらと揺れている。
緋桜さんと二人きりになると、七姫の勢いに紛れていた緊張が、少し遅れて胸の奥に戻ってきた。
「朱里の友人は、元気な子だね」
「そうなんです」
騒がしくて、思いついたらすぐ行動。ひとの話を最後まで聞いていないようで、大事なところは誰よりも見ている。
あの明るさに、わたしは何度も救われてきた。
「そういえば、さっき彼女が話していた奉納祭についてだけど」
「久遠桜の……でしたっけ?」
「ああ」
緋桜さんの目が、静かにわたしを見る。
「朱里に、手伝ってほしいことがあるんだ」


