千回目のあなたへ 〜十七の夏、迎えにきたのは神様でした〜

 その名前を口にした瞬間、部屋の空気がほんの少し変わった気がした。
 緋桜さんはすぐには答えなかった。ただ静かに息を吐き、膝の上に置いた手をかすかに握る。

 「その名前を、どこで」
 「夢の中、です」

 さっき見たばかりの光景が、まだ体の奥に残っていた。

 久遠桜の根元に立つ、白い衣の少女。頭巾をかぶった男。月明かりの下で光る刃。

 思い出すだけで、胸の奥が冷えていく。

 「この町に来てから、緋桜さんと……初音さんの夢を見るようになって」
 「そうだったのか」

 緋桜さんの声は落ち着いていた。けれど、その落ち着きがかえって痛々しく思えた。

 「初音は、久遠桜に仕えていた巫女だ。そして、君と同じ魂を持つ者でもある」
 「同じ、魂……」

 夢の中で見た白い衣の少女が、頭の奥に浮かぶ。

 「……それは、いつの話なんですか」

 「今から、およそ千年前だ」

 千年前。
 そんなに遠い昔のことだったのか。

 「君は、初音の生まれ変わりだ。同じ魂を持つ者は、ときに記憶を共有することがある。前の命で強く刻まれた出来事ほど、夢や感覚として、次の命に残るんだ。朱里が見ていた夢も、おそらく初音の記憶だろう」

 胸を貫かれた瞬間の冷たさも、久遠桜の下で緋桜さんを待つ心細さも。
 ついさっき自分の身に起きたことみたいに残っている。

 これらは全部、ただの夢ではなかったわけだ。

 「夢では、どこまで見た?」

 その問いに、指先がこわばる。

 「顔に痣のある男が、初音さんを……」

 胸の奥に、冷たい刃の感触がよみがえる。
 緋桜さんは何も言わず、そっとわたしの手を取った。

 「無理に言わなくていい」

 「でも……知りたいんです」

 自分でも意外なほど、声ははっきりしていた。

 「私が見ている夢が何なのか。初音さんが誰なのか。あの男が、何なのか」

 緋桜さんは、少しだけ目を伏せた。

 「顔に痣があると言ったね。なら、君が見たその男こそ堕神だ」

 「……この前言っていた、私を狙っている相手……?」
 「ああ。元は神だった。けれど禁忌を犯し、神としての力を失ったものだ。それでもなお力を求め、人や神の魂を喰らって長らえている」
 「初音さんも、その堕神に……?」
 「魂をほとんど喰われかけた」

 緋桜さんの紅い瞳が、痛みをこらえるように細められる。

 「魂は形を変えて、次の命へつながっていく。けれど、完全に喰われてしまえば、それもできない。俺が駆けつけた時には、初音の魂に、もう次の命へ渡る力もほとんど残っていなかった」

 つながれた手に、ほんの少し力がこもった。

 「だから俺は、彼女の魂を久遠桜に託した。どんなに遠い未来でもいい。いつかもう一度、命として芽吹けるように」

 夢では見えなかった、その先の出来事。

 千年前の夜、緋桜さんは初音さんをただ失っただけではなかった。
 消えかけた魂を抱えて、それでも次の命へつなごうとしたのだ。

 「それが……私?」
 「ああ。久遠桜は、初音の魂を守り続けてくれた。そして俺は、その魂がもう一度芽吹く日を探してきたんだ」

 夜の庭の向こうで、久遠桜の淡い光が揺れている。
 その光を見ていると、急に胸が苦しくなった。

 この人は、どれだけ長い時間をあの桜とともに過ごしてきたのだろう。

 「前にも少し見せたけれど、俺の力は植物にまつわるものだ。花を咲かせ、木々を操る。そしてもうひとつ――」

 緋桜さんは、障子の向こうに揺れる久遠桜へ視線を向けた。

 「久遠桜を介して、時を越えることができる」

 時を越える。

 そんなことが本当にあるのだろうかと思った。
 けれど、目の前にいるのは、花を一面に咲かせ、猫の姿をした眷属を従える神様だ。

 信じられないことばかりなのに、もう何ひとつ、簡単には否定できなかった。

 「ただし、どの時代にも行けるわけじゃない。久遠桜が根を張り、花を咲かせている時代に限られる。それに、思い通りに過去を変えられる力でもない」

 淡い桜の光が、夜の庭で静かに揺れている。

 「それでも俺は、久遠桜がつないでくれる時代をたどってここにきた。そして千年の時を超えて……」

 千年。
 わたしには想像もできない時間だった。

 「ようやく君を見つけたんだ」

 そのあいだ、緋桜さんは久遠桜を頼りにいくつもの時代を越え、会えるかどうかも分からない魂を探し続けていたんだろう。

 たったひとりで。

 初音さんの記憶。堕神のこと。千年という時間。緋桜さんがわたしを見つけるまでに抱えてきたもの。

 そのすべてが一度に押し寄せてきて、頭の中がいっぱいになる。

 緋桜さんは、そんなわたしの顔を見て、少しだけ声をやわらげた。

 「今日はもう休もう。続きは、また今度でいい」
 「……はい」

 頷くと、緋桜さんはそっと立ち上がった。

 「何かあれば、すぐ呼んで」