その名前を口にした瞬間、部屋の空気がほんの少し変わった気がした。
緋桜さんはすぐには答えなかった。ただ静かに息を吐き、膝の上に置いた手をかすかに握る。
「その名前を、どこで」
「夢の中、です」
さっき見たばかりの光景が、まだ体の奥に残っていた。
久遠桜の根元に立つ、白い衣の少女。頭巾をかぶった男。月明かりの下で光る刃。
思い出すだけで、胸の奥が冷えていく。
「この町に来てから、緋桜さんと……初音さんの夢を見るようになって」
「そうだったのか」
緋桜さんの声は落ち着いていた。けれど、その落ち着きがかえって痛々しく思えた。
「初音は、久遠桜に仕えていた巫女だ。そして、君と同じ魂を持つ者でもある」
「同じ、魂……」
夢の中で見た白い衣の少女が、頭の奥に浮かぶ。
「……それは、いつの話なんですか」
「今から、およそ千年前だ」
千年前。
そんなに遠い昔のことだったのか。
「君は、初音の生まれ変わりだ。同じ魂を持つ者は、ときに記憶を共有することがある。前の命で強く刻まれた出来事ほど、夢や感覚として、次の命に残るんだ。朱里が見ていた夢も、おそらく初音の記憶だろう」
胸を貫かれた瞬間の冷たさも、久遠桜の下で緋桜さんを待つ心細さも。
ついさっき自分の身に起きたことみたいに残っている。
これらは全部、ただの夢ではなかったわけだ。
「夢では、どこまで見た?」
その問いに、指先がこわばる。
「顔に痣のある男が、初音さんを……」
胸の奥に、冷たい刃の感触がよみがえる。
緋桜さんは何も言わず、そっとわたしの手を取った。
「無理に言わなくていい」
「でも……知りたいんです」
自分でも意外なほど、声ははっきりしていた。
「私が見ている夢が何なのか。初音さんが誰なのか。あの男が、何なのか」
緋桜さんは、少しだけ目を伏せた。
「顔に痣があると言ったね。なら、君が見たその男こそ堕神だ」
「……この前言っていた、私を狙っている相手……?」
「ああ。元は神だった。けれど禁忌を犯し、神としての力を失ったものだ。それでもなお力を求め、人や神の魂を喰らって長らえている」
「初音さんも、その堕神に……?」
「魂をほとんど喰われかけた」
緋桜さんの紅い瞳が、痛みをこらえるように細められる。
「魂は形を変えて、次の命へつながっていく。けれど、完全に喰われてしまえば、それもできない。俺が駆けつけた時には、初音の魂に、もう次の命へ渡る力もほとんど残っていなかった」
つながれた手に、ほんの少し力がこもった。
「だから俺は、彼女の魂を久遠桜に託した。どんなに遠い未来でもいい。いつかもう一度、命として芽吹けるように」
夢では見えなかった、その先の出来事。
千年前の夜、緋桜さんは初音さんをただ失っただけではなかった。
消えかけた魂を抱えて、それでも次の命へつなごうとしたのだ。
「それが……私?」
「ああ。久遠桜は、初音の魂を守り続けてくれた。そして俺は、その魂がもう一度芽吹く日を探してきたんだ」
夜の庭の向こうで、久遠桜の淡い光が揺れている。
その光を見ていると、急に胸が苦しくなった。
この人は、どれだけ長い時間をあの桜とともに過ごしてきたのだろう。
「前にも少し見せたけれど、俺の力は植物にまつわるものだ。花を咲かせ、木々を操る。そしてもうひとつ――」
緋桜さんは、障子の向こうに揺れる久遠桜へ視線を向けた。
「久遠桜を介して、時を越えることができる」
時を越える。
そんなことが本当にあるのだろうかと思った。
けれど、目の前にいるのは、花を一面に咲かせ、猫の姿をした眷属を従える神様だ。
信じられないことばかりなのに、もう何ひとつ、簡単には否定できなかった。
「ただし、どの時代にも行けるわけじゃない。久遠桜が根を張り、花を咲かせている時代に限られる。それに、思い通りに過去を変えられる力でもない」
淡い桜の光が、夜の庭で静かに揺れている。
「それでも俺は、久遠桜がつないでくれる時代をたどってここにきた。そして千年の時を超えて……」
千年。
わたしには想像もできない時間だった。
「ようやく君を見つけたんだ」
そのあいだ、緋桜さんは久遠桜を頼りにいくつもの時代を越え、会えるかどうかも分からない魂を探し続けていたんだろう。
たったひとりで。
初音さんの記憶。堕神のこと。千年という時間。緋桜さんがわたしを見つけるまでに抱えてきたもの。
そのすべてが一度に押し寄せてきて、頭の中がいっぱいになる。
緋桜さんは、そんなわたしの顔を見て、少しだけ声をやわらげた。
「今日はもう休もう。続きは、また今度でいい」
「……はい」
頷くと、緋桜さんはそっと立ち上がった。
「何かあれば、すぐ呼んで」
緋桜さんはすぐには答えなかった。ただ静かに息を吐き、膝の上に置いた手をかすかに握る。
「その名前を、どこで」
「夢の中、です」
さっき見たばかりの光景が、まだ体の奥に残っていた。
久遠桜の根元に立つ、白い衣の少女。頭巾をかぶった男。月明かりの下で光る刃。
思い出すだけで、胸の奥が冷えていく。
「この町に来てから、緋桜さんと……初音さんの夢を見るようになって」
「そうだったのか」
緋桜さんの声は落ち着いていた。けれど、その落ち着きがかえって痛々しく思えた。
「初音は、久遠桜に仕えていた巫女だ。そして、君と同じ魂を持つ者でもある」
「同じ、魂……」
夢の中で見た白い衣の少女が、頭の奥に浮かぶ。
「……それは、いつの話なんですか」
「今から、およそ千年前だ」
千年前。
そんなに遠い昔のことだったのか。
「君は、初音の生まれ変わりだ。同じ魂を持つ者は、ときに記憶を共有することがある。前の命で強く刻まれた出来事ほど、夢や感覚として、次の命に残るんだ。朱里が見ていた夢も、おそらく初音の記憶だろう」
胸を貫かれた瞬間の冷たさも、久遠桜の下で緋桜さんを待つ心細さも。
ついさっき自分の身に起きたことみたいに残っている。
これらは全部、ただの夢ではなかったわけだ。
「夢では、どこまで見た?」
その問いに、指先がこわばる。
「顔に痣のある男が、初音さんを……」
胸の奥に、冷たい刃の感触がよみがえる。
緋桜さんは何も言わず、そっとわたしの手を取った。
「無理に言わなくていい」
「でも……知りたいんです」
自分でも意外なほど、声ははっきりしていた。
「私が見ている夢が何なのか。初音さんが誰なのか。あの男が、何なのか」
緋桜さんは、少しだけ目を伏せた。
「顔に痣があると言ったね。なら、君が見たその男こそ堕神だ」
「……この前言っていた、私を狙っている相手……?」
「ああ。元は神だった。けれど禁忌を犯し、神としての力を失ったものだ。それでもなお力を求め、人や神の魂を喰らって長らえている」
「初音さんも、その堕神に……?」
「魂をほとんど喰われかけた」
緋桜さんの紅い瞳が、痛みをこらえるように細められる。
「魂は形を変えて、次の命へつながっていく。けれど、完全に喰われてしまえば、それもできない。俺が駆けつけた時には、初音の魂に、もう次の命へ渡る力もほとんど残っていなかった」
つながれた手に、ほんの少し力がこもった。
「だから俺は、彼女の魂を久遠桜に託した。どんなに遠い未来でもいい。いつかもう一度、命として芽吹けるように」
夢では見えなかった、その先の出来事。
千年前の夜、緋桜さんは初音さんをただ失っただけではなかった。
消えかけた魂を抱えて、それでも次の命へつなごうとしたのだ。
「それが……私?」
「ああ。久遠桜は、初音の魂を守り続けてくれた。そして俺は、その魂がもう一度芽吹く日を探してきたんだ」
夜の庭の向こうで、久遠桜の淡い光が揺れている。
その光を見ていると、急に胸が苦しくなった。
この人は、どれだけ長い時間をあの桜とともに過ごしてきたのだろう。
「前にも少し見せたけれど、俺の力は植物にまつわるものだ。花を咲かせ、木々を操る。そしてもうひとつ――」
緋桜さんは、障子の向こうに揺れる久遠桜へ視線を向けた。
「久遠桜を介して、時を越えることができる」
時を越える。
そんなことが本当にあるのだろうかと思った。
けれど、目の前にいるのは、花を一面に咲かせ、猫の姿をした眷属を従える神様だ。
信じられないことばかりなのに、もう何ひとつ、簡単には否定できなかった。
「ただし、どの時代にも行けるわけじゃない。久遠桜が根を張り、花を咲かせている時代に限られる。それに、思い通りに過去を変えられる力でもない」
淡い桜の光が、夜の庭で静かに揺れている。
「それでも俺は、久遠桜がつないでくれる時代をたどってここにきた。そして千年の時を超えて……」
千年。
わたしには想像もできない時間だった。
「ようやく君を見つけたんだ」
そのあいだ、緋桜さんは久遠桜を頼りにいくつもの時代を越え、会えるかどうかも分からない魂を探し続けていたんだろう。
たったひとりで。
初音さんの記憶。堕神のこと。千年という時間。緋桜さんがわたしを見つけるまでに抱えてきたもの。
そのすべてが一度に押し寄せてきて、頭の中がいっぱいになる。
緋桜さんは、そんなわたしの顔を見て、少しだけ声をやわらげた。
「今日はもう休もう。続きは、また今度でいい」
「……はい」
頷くと、緋桜さんはそっと立ち上がった。
「何かあれば、すぐ呼んで」


