千回目のあなたへ 〜十七の夏、迎えにきたのは神様でした〜


 ***

 「いつか、外の世界を見てみたい」

 それが、鳥籠の中で生きるわたしの、たったひとつの夢だった。

 戦乱の世、初音(はつね)は京の外れの小さな里で生まれた。
 巫女の血筋を持つ者として、人々に蝶よ花よと崇められ、真綿に包まれるように育てられた。

 「巫女さま。どうかうちの子の熱が下がりますように」
 「夫が戦から無事に帰ってきますように」
 「今年こそ稲が実りますように」

 奥座敷の前には、願いを抱えた里の人々が並ぶ。
 わたしはひとつずつ祈りを受け取り、静かに頭を下げた。

 「久遠桜さまにお伝えいたします」

 里の中央には、決して花を散らさない桜が咲いている。人はそれを、久遠桜(くおんざくら)と呼んだ。

 戦乱の世にあって、この里は戦の手が届かぬ数少ない場所だった。わたしは代々続く巫女として、その桜に人々の祈りを届けるためだけに生きていた。誰もが「巫女さま」と頭を下げるけれど、わたしの名前を呼ぶ人はいない。

 ある満月の夜。

 祝詞を上げ終えたわたしの足元で、小さな気配が動いた。

 「どこから来たの?」

 しゃがみこみ、小さな白猫(しろねこ)を撫でる。白い毛並みの先だけがほのかに桜色で、額には薄紅の桜紋が浮かんでいた。

 眷属の証だ。つまり近くにはーー

 「その子は、滅多に人になつかないんだけど」
 
 神様が、いる。

 声に顔を上げると、桜の枝に紅い瞳の男が座っていた。淡い髪と鮮やかな瞳を見た瞬間、この方は人ではないのだと分かった。

 「緋桜(ひおう)さま……ですか」
 「よく分かったね」

 「気配が、他の方々とはまるで違いますから」

 緋桜さまは楽しそうに目を細め、枝から音もなく降り立つ。

 「新しい巫女か。名は何と」
 「……初音と申します」
 「ここまで俺をはっきり見える巫女は珍しい。大概は声か気配くらいのものなのに」

 緋桜さまは、確かめるようにわたしの名を呼んだ。

 「よろしく頼む、初音」

 わたしは慌てて桜の根元に正座し、里から預かった願いを唱える。

 「熱を出した子にどうか平癒を。戦の夫にどうか無事を。今年の稲にどうか実りを」

 緋桜さまは静かに頷いた。

 「わかった。しかと聞き届けたよ」

 そのとき、丸まっていた白猫の背に、桜の葉がふわりと落ちた。

 「大きな柏餅、みたい」

 思わずこぼれた言葉に、緋桜さまがぴたりと止まる。

 「あ、いえ! この子が、葉で包んだお餅のように見えてしまって」

 次の瞬間、緋桜さまがぷっと吹き出した。

 「想像力が豊かなんだね、初音は」
 「……わたくしはいつも奥座敷の中にしかおりませんから。窓の外の雲を龍に見立てたり、池に落ちた椿を金魚に見立てたり。そうやって、頭の中だけで世界を見る癖がついてしまったんです」

 言い終えると、緋桜さまがじっとこちらを見ていた。

 「外の世界を、見てみたいと思う?」
 「……はい」

 それは、口にしてはいけないはずの願いだった。

 「目を閉じて」

 言われるまま目を閉じる。次の瞬間、体がふわりと浮いた。

 「ひ、緋桜さま!?」
 「しっかり捕まって!」

 気づけば、わたしは緋桜さまの腕の中にいた。社はもう、遥か眼下にある。

 「下を見て」

 おそるおそる目を開けると、夜の里に家々の灯りが点々と灯っていた。川沿いには提灯の列。その向こう、山あいの闇に見知らぬ町の灯火がまたたいている。

 「あれは……」
 「町だ。甘い菓子を売る店があって、客の笑い声でにぎわう芝居小屋がある。夜になっても通りには灯りが残るんだ」

 わたしの世界はずっと、格子戸ひとつぶんしかなかった。

 「世界は、こんなにも広い」

 涙がひと粒、頬を伝った。

 「初音が見たいと願うものを、ひとつずつ一緒に見に行こう」

 神様の慈悲というより、もっと個人的な約束のように聞こえた。

 「どうして泣く」
 「……名前を呼んでもらえたから、でしょうか」

 口にした瞬間、また涙がこぼれる。

 「わたしを、ただの巫女ではなく。初音として見てもらえたから」

 緋桜さまの指が、頬に触れたまま止まった。

 「初音」

 その声は、さっきよりずっとやわらかかった。

 「君がどこに閉じ込められていても、自分が誰なのか分からなくなっても。俺が何度でも迎えに行って——」

 風が吹き、桜の花が一斉に舞い上がる。

 「君の名前を呼ぶよ」

 月光と桜吹雪の中の笑顔があまりに美しくて、わたしは声を失った。

 この約束が、長い時を越えて、もう一度わたしを彼のもとへ導くことを。

 このときのわたしは、まだ知らなかった。