***
「ッ――!」
千歳朱里は、布団を握りしめて跳ね起きた。
心臓が、痛いくらいに大きな音で鳴っている。
手のひらには、まだ刃の冷たさが残っている気さえした。
胸元を確かめても、傷なんてどこにもないのに。
……また、あの夢だ。
この町に来てから、毎晩同じ夢を見る。
桜の下で、少女が誰かと約束を交わし、そのすぐあとに謎の男に殺される夢。
名前も顔も知らない少女なのに、その痛みだけが、毎朝きまって自分のことみたいに胸に残った。
ひおう、さま。
夢の中で少女が呼んだ名前が、起きてもまだ、耳の奥に残っている。
ピンポーン、と玄関のチャイムが鳴った。
「朱里、遅刻すんぞー!」
「ごめん、すぐいく!」
窓を開けて返事をして、台所へ下りる。
しんとした家に、朝の物音はわたしのぶんしかない。
誰かが用意してくれた朝ごはんも、「いってらっしゃい」の声も。
朱里は、長い黒髪をひとつに結びながら、冷蔵庫を開けた。
ゆうべ作っておいた煮物を、小さなタッパーに移す。
おばあちゃんの好物の、かぼちゃの煮物だ。
手術を控えているから、お見舞いに持っていけるのはほんの少しだけ。
それでも病院のごはんばかりじゃ味気ないだろうと思って、看護師さんに確かめながら、ときどき届けていた。
べつに、誰かに頼まれたわけじゃない。
ただ、おばあちゃんが少しでも喜んでくれるなら、と思っただけだ。
父は、わたしが小学生のころに亡くなった。
町の旧家・千歳本家の長男だった父は、若いころに東京へ出て、母と結婚してこの町を離れた。
それきり本家とも分家とも縁は薄くなり、おばあちゃんはひとりでこの家を守ってきたそうだ。
ひと月前、そのおばあちゃんが倒れたと連絡が来た。
父を亡くしてから、母は朝から晩までずっと仕事を頑張ってくれていた。
けれど無理が重なったのか、最近の母は心の状態が不安定で、遠方の病院や親戚とのやり取りを担える状態ではなかった。
おばあちゃんの病院での身の回りのことは、看護師さんたちが見てくれている。
それでも、古い家の管理や手術の説明、役所への連絡まで、東京で働く母ひとりでは抱えきれない。
町に残った分家の伯母や伯父も「うちには関係ない」と、祖母の家に関わる気はない。
だから、わたしはこの町に来るしかなかった。
スマホがブーッと鳴った。東京の母からだ。
『朱里、おばあちゃんのことお願いね。ごめんね、ぜんぶ任せちゃって』
続けて、もう一通。
『でも、きっと大丈夫。朱里は強い子だから』
『うん、大丈夫だよ』と打って、送る。
ほんとうは不安でたまらない日も、そう打つのが癖になっていた。
お母さんに大切にされていないわけじゃない。
ただ、お母さんはいつも、自分のことで精いっぱいだった。
だからわたしは、できるだけ手のかからない子でいようと決めていた。
でも、ときどき思う。
もしも……誰かにとって、自分のことより先に思い浮かぶ存在になれたら。
その人にとっての“特別”になれたら。
もう、大丈夫なふりをしなくてもいいのかな。
そんなことを考えても、答えは出ない。
玄関の向こうでは、京介が待っている。
長い黒髪をポニーテールにまとめ、急いで引き戸を開けた。
「ッ――!」
千歳朱里は、布団を握りしめて跳ね起きた。
心臓が、痛いくらいに大きな音で鳴っている。
手のひらには、まだ刃の冷たさが残っている気さえした。
胸元を確かめても、傷なんてどこにもないのに。
……また、あの夢だ。
この町に来てから、毎晩同じ夢を見る。
桜の下で、少女が誰かと約束を交わし、そのすぐあとに謎の男に殺される夢。
名前も顔も知らない少女なのに、その痛みだけが、毎朝きまって自分のことみたいに胸に残った。
ひおう、さま。
夢の中で少女が呼んだ名前が、起きてもまだ、耳の奥に残っている。
ピンポーン、と玄関のチャイムが鳴った。
「朱里、遅刻すんぞー!」
「ごめん、すぐいく!」
窓を開けて返事をして、台所へ下りる。
しんとした家に、朝の物音はわたしのぶんしかない。
誰かが用意してくれた朝ごはんも、「いってらっしゃい」の声も。
朱里は、長い黒髪をひとつに結びながら、冷蔵庫を開けた。
ゆうべ作っておいた煮物を、小さなタッパーに移す。
おばあちゃんの好物の、かぼちゃの煮物だ。
手術を控えているから、お見舞いに持っていけるのはほんの少しだけ。
それでも病院のごはんばかりじゃ味気ないだろうと思って、看護師さんに確かめながら、ときどき届けていた。
べつに、誰かに頼まれたわけじゃない。
ただ、おばあちゃんが少しでも喜んでくれるなら、と思っただけだ。
父は、わたしが小学生のころに亡くなった。
町の旧家・千歳本家の長男だった父は、若いころに東京へ出て、母と結婚してこの町を離れた。
それきり本家とも分家とも縁は薄くなり、おばあちゃんはひとりでこの家を守ってきたそうだ。
ひと月前、そのおばあちゃんが倒れたと連絡が来た。
父を亡くしてから、母は朝から晩までずっと仕事を頑張ってくれていた。
けれど無理が重なったのか、最近の母は心の状態が不安定で、遠方の病院や親戚とのやり取りを担える状態ではなかった。
おばあちゃんの病院での身の回りのことは、看護師さんたちが見てくれている。
それでも、古い家の管理や手術の説明、役所への連絡まで、東京で働く母ひとりでは抱えきれない。
町に残った分家の伯母や伯父も「うちには関係ない」と、祖母の家に関わる気はない。
だから、わたしはこの町に来るしかなかった。
スマホがブーッと鳴った。東京の母からだ。
『朱里、おばあちゃんのことお願いね。ごめんね、ぜんぶ任せちゃって』
続けて、もう一通。
『でも、きっと大丈夫。朱里は強い子だから』
『うん、大丈夫だよ』と打って、送る。
ほんとうは不安でたまらない日も、そう打つのが癖になっていた。
お母さんに大切にされていないわけじゃない。
ただ、お母さんはいつも、自分のことで精いっぱいだった。
だからわたしは、できるだけ手のかからない子でいようと決めていた。
でも、ときどき思う。
もしも……誰かにとって、自分のことより先に思い浮かぶ存在になれたら。
その人にとっての“特別”になれたら。
もう、大丈夫なふりをしなくてもいいのかな。
そんなことを考えても、答えは出ない。
玄関の向こうでは、京介が待っている。
長い黒髪をポニーテールにまとめ、急いで引き戸を開けた。


