千回目のあなたへ 〜十七の夏、迎えにきたのは神様でした〜



 二つの影が庭の奥へ溶けていくのを見送ってから、わたしは通話ボタンを押した。

 ホーム画面には、去年の春に七姫と出かけたテーマパークの写真が残っている。
 制服のまま、ふたりで耳のついたカチューシャをのせて、満面の笑顔でピースしていた。

 左に写っている、明るい金髪のロングヘアに、目尻のホクロが印象的な女の子が七姫だ。
 スピリチュアルとギャルファッションが大好きで、恋愛祈願のお守りを大量にぶら下げているくせに、彼氏ができた試しは一度もない。

 くだらないことでお腹を抱えて笑って、コンビニのアイスを半分こして、放課後の教室で意味もなく長居する。

 東京で過ごしていた何でもない日々が、いまはどうしようもなく恋しかった。

 「もしもし」
 『あかりんー!! 元気してる!? ていうか、ちょっと待って。声の雰囲気変わった?』

 泣いたあとなので、少し声が変なのかもしれない。
 けれど、電話越しに七姫の勢いが飛び込んできただけで、胸の奥に溜まっていたものが少しだけほどけた。

 「変わってないよ」
 『ほんと? なんか大人っぽくなった? まさか彼氏できた?』
 「彼氏は、できてない」
 『彼氏“は”?』

 鋭い。

 思わず、言葉に詰まった。

 「婚約……は、したかもしれない」
 『は!?』

 電話の向こうで、七姫の声が跳ねた。

 『なにそれ!? 情報量が多すぎるんだけど! 相手は? 年上? 同級生? 顔は?』
 「し、質問が多い……」
 『当たり前でしょ! 親友の婚約報告なんて、人生でそう何回も聞けないんだから!』

 七姫の勢いに、思わず少し笑ってしまった。

 『まあ、詳しいことは今度じっくり聞くとして。相手は、あかりんのこと大事にしてくれてる?』
 「……うん」
 『なら、いったんよし』

 七姫はあっさり言った。

 『でも、泣かされたら即連絡して。恋愛祈願のお守りと縁切りのお守り、全部持って殴り込みに行くから』
 「お守りで殴り込みはしないで」
 『するよ。ご利益フル装備で行く。あとさ、もうすぐ夏休みじゃん。始まったら、そっち遊びに行っていい?』
 「うん! でも、こっちには何もないよ?」
 『え、大きい桜祭りあるんでしょ? 久遠桜の……だっけ。ネットで見て、絶っっっっ対行きたいって思って!!』

 普通の女子高生が楽しめるようなところはどこにもないのに、そこまで前向きになれるところが七姫らしくて、また少し笑ってしまった。

 『あ、笑った。よかった。声、疲れてたからさ』

 「……うん」
 『そういえばさ、貸してる「狐嫁綺譚」最新五巻、たぶんまだ読んでないでしょ?』
 「あ……ごめん、まだ」

 七姫は、「やっぱり! あやかし、和風、切ない恋のよくばりセットだから、次までに読んで」なんて言いながら、矢継ぎ早に話題を続けた。

 その勢いに、少しずつ肩の力が抜けていく。

 「でも、ありがとう。ちょっと元気出た」
 『あかりん、抱え込む癖あるから。変なことあったらすぐ電話してよ』

 電話が切れると、部屋は急に静かになった。

 七姫とは、たぶん、お互いに親友だと思っている。
 何でも話せるし、離れていても、きっと縁が切れることはない。

 でも。底抜けに明るくて、誰にでも優しい七姫には、わたしのほかにもたくさんの友達がいる。
 東京にいたころはほんの少しだけ、その輪の広さがまぶしかった。

 通話履歴の下に、母の名前が見えた。
 昨夜の着信に、まだ折り返せていない。

 メッセージに、こっちは大丈夫、と打ちかけて、指が止まる。  
 結局その夜も、わたしはメッセージを送れなかった。

 押し入れの段ボールを開ける。東京から持ってきた本や漫画の中に、七姫から借りた漫画が入っていた。
 『狐嫁綺譚』の五巻は、和風恋愛ファンタジーらしい、華やかな装丁だった。

 「……本当に、七姫が好きそう」

 小さく呟いて、ページを開く。
 私の婚約者が神様だと知ったら、七姫はきっとひっくり返るだろう。

 その瞬間、紙のふちが指先をかすめた。

 「っ」

 小さな痛みが走る。
 人差し指の先に、赤い血が一滴、ぷくりと浮かんだ。

 その赤を見た瞬間、視界がぐらりと揺れた。