二つの影が庭の奥へ溶けていくのを見送ってから、わたしは通話ボタンを押した。
ホーム画面には、去年の春に七姫と出かけたテーマパークの写真が残っている。
制服のまま、ふたりで耳のついたカチューシャをのせて、満面の笑顔でピースしていた。
左に写っている、明るい金髪のロングヘアに、目尻のホクロが印象的な女の子が七姫だ。
スピリチュアルとギャルファッションが大好きで、恋愛祈願のお守りを大量にぶら下げているくせに、彼氏ができた試しは一度もない。
くだらないことでお腹を抱えて笑って、コンビニのアイスを半分こして、放課後の教室で意味もなく長居する。
東京で過ごしていた何でもない日々が、いまはどうしようもなく恋しかった。
「もしもし」
『あかりんー!! 元気してる!? ていうか、ちょっと待って。声の雰囲気変わった?』
泣いたあとなので、少し声が変なのかもしれない。
けれど、電話越しに七姫の勢いが飛び込んできただけで、胸の奥に溜まっていたものが少しだけほどけた。
「変わってないよ」
『ほんと? なんか大人っぽくなった? まさか彼氏できた?』
「彼氏は、できてない」
『彼氏“は”?』
鋭い。
思わず、言葉に詰まった。
「婚約……は、したかもしれない」
『は!?』
電話の向こうで、七姫の声が跳ねた。
『なにそれ!? 情報量が多すぎるんだけど! 相手は? 年上? 同級生? 顔は?』
「し、質問が多い……」
『当たり前でしょ! 親友の婚約報告なんて、人生でそう何回も聞けないんだから!』
七姫の勢いに、思わず少し笑ってしまった。
『まあ、詳しいことは今度じっくり聞くとして。相手は、あかりんのこと大事にしてくれてる?』
「……うん」
『なら、いったんよし』
七姫はあっさり言った。
『でも、泣かされたら即連絡して。恋愛祈願のお守りと縁切りのお守り、全部持って殴り込みに行くから』
「お守りで殴り込みはしないで」
『するよ。ご利益フル装備で行く。あとさ、もうすぐ夏休みじゃん。始まったら、そっち遊びに行っていい?』
「うん! でも、こっちには何もないよ?」
『え、大きい桜祭りあるんでしょ? 久遠桜の……だっけ。ネットで見て、絶っっっっ対行きたいって思って!!』
普通の女子高生が楽しめるようなところはどこにもないのに、そこまで前向きになれるところが七姫らしくて、また少し笑ってしまった。
『あ、笑った。よかった。声、疲れてたからさ』
「……うん」
『そういえばさ、貸してる「狐嫁綺譚」最新五巻、たぶんまだ読んでないでしょ?』
「あ……ごめん、まだ」
七姫は、「やっぱり! あやかし、和風、切ない恋のよくばりセットだから、次までに読んで」なんて言いながら、矢継ぎ早に話題を続けた。
その勢いに、少しずつ肩の力が抜けていく。
「でも、ありがとう。ちょっと元気出た」
『あかりん、抱え込む癖あるから。変なことあったらすぐ電話してよ』
電話が切れると、部屋は急に静かになった。
七姫とは、たぶん、お互いに親友だと思っている。
何でも話せるし、離れていても、きっと縁が切れることはない。
でも。底抜けに明るくて、誰にでも優しい七姫には、わたしのほかにもたくさんの友達がいる。
東京にいたころはほんの少しだけ、その輪の広さがまぶしかった。
通話履歴の下に、母の名前が見えた。
昨夜の着信に、まだ折り返せていない。
メッセージに、こっちは大丈夫、と打ちかけて、指が止まる。
結局その夜も、わたしはメッセージを送れなかった。
押し入れの段ボールを開ける。東京から持ってきた本や漫画の中に、七姫から借りた漫画が入っていた。
『狐嫁綺譚』の五巻は、和風恋愛ファンタジーらしい、華やかな装丁だった。
「……本当に、七姫が好きそう」
小さく呟いて、ページを開く。
私の婚約者が神様だと知ったら、七姫はきっとひっくり返るだろう。
その瞬間、紙のふちが指先をかすめた。
「っ」
小さな痛みが走る。
人差し指の先に、赤い血が一滴、ぷくりと浮かんだ。
その赤を見た瞬間、視界がぐらりと揺れた。


