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その日の学校は、昨日とは別の意味で居心地が悪かった。
誰も、わたしに意地悪を言わなかった。
それどころか--
「あ、プリント……先に取る?」
「黒板、見える? 席、ずらそうか?」
昨日まで聞こえるように噂をしていた人たちが、急に声をやわらげる。
けれど、昨日のことに触れる人は誰もいない。
わたしが近づくと会話が一瞬止まり、少し遅れて、何事もなかったように再開される。
まるで、昨日のことなんて最初から存在しなかったみたいに。
優しくされているはずなのに、落ち着かなかった。
雛乃も、今日はわたしに声をかけてこない。
ときどきこちらを見ては、何か言いたそうに唇を噛んでいる。
***
「わああああっ」
その夜の夕食には、色とりどりの寿司が並んでいた。
朱塗りの膳の上に、まぐろ、鯛、海老、いくら。
小さな手まり寿司まで、宝石みたいに並んでいる。
夕方、緋桜さんに「朱里は何が好き?」と聞かれて、最初は遠慮して「何でも大丈夫です」と答えた。
すると緋桜さんは、少し困ったように笑って「じゃあ、片っ端から用意しようか」と、ネットであれこれカートに入れ始めたのだ。
それはさすがに困るし申し訳ない。そう思って、少し迷ったあと、ようやく「お寿司」と答えたのだ。
「どうぞ」
夕食の席には、わたしが想像していたよりずっと立派な寿司が用意されていた。
「……いただきます」
おそるおそる箸を伸ばして、手まり寿司をひとつ口に運ぶ。
酢飯のやさしい酸味と、魚の甘みが舌の上でほどけた。
「お、おいしい……!!」
思わずこぼすと、緋桜さんの目元が少しだけやわらぐ。
「好きなものを、好きなだけ食べるといい」
好きなものを、好きなだけ。
そんなふうに言われたのは、いつ以来だろう。
緋桜さんの優しさを噛みしめながら、少しずつ寿司を食べた。
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夕食のあと、縁側へ移ると、庭の池に映った月が風に揺れていた。
「今日は、ありがとうございました」
「このくらい、何でもないよ」
「お寿司のこともですけど……学校のことも」
そう付け足すと、緋桜さんが少しだけこちらを見た。
「急にごめん。驚かせたよね」
「はい。でも……うれしかったです」
膝の上で、指先を握りしめる。
「家のことも、学校のことも。何を言われても、平気なふりをするしかなくて。でも今日、緋桜さんが私のことで怒ってくれて……すごく、心強かったんです」
そこまで言って、急に恥ずかしくなった。
「自分のために誰かが本気で怒ってくれることなんて、もうずっとなかったから」
緋桜さんは、少しの間黙っていた。
「大事な人が傷つけられて、黙っていられるほど、俺はできた神様じゃないよ」
大事な人。その言葉に、胸の奥にじんわり沁みた。
「それに、今日はちゃんと言ってくれたじゃない?」
「え?」
「寿司。朱里が食べたいものを、俺に教えてくれたでしょ」
「そんな、大したことじゃ……」
「大したことだよ」
言い終えるより早く、緋桜さんの腕がそっと背中に回った。
驚くほど静かな抱擁だった。
「自分の気持ちに嘘をつかず。欲しいものを口にするのは、簡単なことじゃない」
閉じ込めるような強さではなく、崩れそうなわたしを支えるみたいに、ただあたたかく包んでくれる。
「今まで、よくひとりで頑張ったね」
その一言でぽろぽろと涙がこぼれて、止まらなくなる。
「私、ずっと……大丈夫って言わなきゃいけないと思ってました」
お母さんにも、おばあちゃんにも、誰にも迷惑をかけちゃいけないと思ってきたから。
だから、欲しいものも、嫌なことも、なるべく言わないようにしてきた。
頬をつーっと涙が流れる。一度こぼれたそれは、なかなか止まらなかった。
「でも、本当は……全然、大丈夫じゃなかった」
緋桜さんは、何も急かさなかった。
背中に回された手が、ただ静かにそこにある。
「うん」
たったそれだけだった。
でも、その一言で、胸の奥に張りついていたものがふっと緩んだ。
「これからは、少しずつでいい。俺に教えて」
緋桜さんの声が、すぐそばで落ちる。
「朱里が何を好きで、何を欲しいと思って、何を嫌だと感じるのか」
また涙がこぼれた。
でも今度は、苦しいだけの涙ではなかった。
「いろんなものを、ゆっくり取り戻していこう」
「はい……っ」
袖で涙を拭って、どうにか息を整えた、そのとき。
そばに置いていたスマホがブーッと震えた。
「……っ」
画面には、七姫の名前。
「友達?」
「はい、東京の」
七姫は、東京にいたころからの親友だ。
友達の多い子でいつもにぎやかな輪の中心にいた彼女は、転校したわたしにまで、こうしてまめに連絡をくれる。
緋桜さんは、それ以上何も聞かずに立ち上がった。
「じゃあ、俺は柏と少し庭を歩いてくるよ」
「え、でも……」
「ゆっくり話しておいで」
そう言って、緋桜さんは柏を呼ぶ。
足元に現れた柏が、こちらをちらりと見上げてから、緋桜さんのあとについていった。


