千回目のあなたへ 〜十七の夏、迎えにきたのは神様でした〜



 ***

 その日の学校は、昨日とは別の意味で居心地が悪かった。
 誰も、わたしに意地悪を言わなかった。

 それどころか--

 「あ、プリント……先に取る?」
 「黒板、見える? 席、ずらそうか?」

 昨日まで聞こえるように噂をしていた人たちが、急に声をやわらげる。
 けれど、昨日のことに触れる人は誰もいない。

 わたしが近づくと会話が一瞬止まり、少し遅れて、何事もなかったように再開される。
 まるで、昨日のことなんて最初から存在しなかったみたいに。
 優しくされているはずなのに、落ち着かなかった。

 雛乃も、今日はわたしに声をかけてこない。
 ときどきこちらを見ては、何か言いたそうに唇を噛んでいる。

 ***

 「わああああっ」

 その夜の夕食には、色とりどりの寿司が並んでいた。

 朱塗りの膳の上に、まぐろ、鯛、海老、いくら。
 小さな手まり寿司まで、宝石みたいに並んでいる。

 夕方、緋桜さんに「朱里は何が好き?」と聞かれて、最初は遠慮して「何でも大丈夫です」と答えた。
 すると緋桜さんは、少し困ったように笑って「じゃあ、片っ端から用意しようか」と、ネットであれこれカートに入れ始めたのだ。

 それはさすがに困るし申し訳ない。そう思って、少し迷ったあと、ようやく「お寿司」と答えたのだ。

 「どうぞ」

 夕食の席には、わたしが想像していたよりずっと立派な寿司が用意されていた。

 「……いただきます」

 おそるおそる箸を伸ばして、手まり寿司をひとつ口に運ぶ。
 酢飯のやさしい酸味と、魚の甘みが舌の上でほどけた。

 「お、おいしい……!!」

 思わずこぼすと、緋桜さんの目元が少しだけやわらぐ。

 「好きなものを、好きなだけ食べるといい」

 好きなものを、好きなだけ。
 そんなふうに言われたのは、いつ以来だろう。

 緋桜さんの優しさを噛みしめながら、少しずつ寿司を食べた。

 ***

 夕食のあと、縁側へ移ると、庭の池に映った月が風に揺れていた。

 「今日は、ありがとうございました」
 「このくらい、何でもないよ」
 「お寿司のこともですけど……学校のことも」

 そう付け足すと、緋桜さんが少しだけこちらを見た。

 「急にごめん。驚かせたよね」
 「はい。でも……うれしかったです」

 膝の上で、指先を握りしめる。

 「家のことも、学校のことも。何を言われても、平気なふりをするしかなくて。でも今日、緋桜さんが私のことで怒ってくれて……すごく、心強かったんです」

 そこまで言って、急に恥ずかしくなった。

 「自分のために誰かが本気で怒ってくれることなんて、もうずっとなかったから」

 緋桜さんは、少しの間黙っていた。

 「大事な人が傷つけられて、黙っていられるほど、俺はできた神様じゃないよ」

 大事な人。その言葉に、胸の奥にじんわり沁みた。

 「それに、今日はちゃんと言ってくれたじゃない?」
 「え?」
 「寿司。朱里が食べたいものを、俺に教えてくれたでしょ」
 「そんな、大したことじゃ……」
 「大したことだよ」

 言い終えるより早く、緋桜さんの腕がそっと背中に回った。
 驚くほど静かな抱擁だった。

 「自分の気持ちに嘘をつかず。欲しいものを口にするのは、簡単なことじゃない」

 閉じ込めるような強さではなく、崩れそうなわたしを支えるみたいに、ただあたたかく包んでくれる。

 「今まで、よくひとりで頑張ったね」

 その一言でぽろぽろと涙がこぼれて、止まらなくなる。

 「私、ずっと……大丈夫って言わなきゃいけないと思ってました」

 お母さんにも、おばあちゃんにも、誰にも迷惑をかけちゃいけないと思ってきたから。
 だから、欲しいものも、嫌なことも、なるべく言わないようにしてきた。

 頬をつーっと涙が流れる。一度こぼれたそれは、なかなか止まらなかった。

 「でも、本当は……全然、大丈夫じゃなかった」

 緋桜さんは、何も急かさなかった。
 背中に回された手が、ただ静かにそこにある。

 「うん」

 たったそれだけだった。
 でも、その一言で、胸の奥に張りついていたものがふっと緩んだ。

 「これからは、少しずつでいい。俺に教えて」

 緋桜さんの声が、すぐそばで落ちる。

 「朱里が何を好きで、何を欲しいと思って、何を嫌だと感じるのか」

 また涙がこぼれた。
 でも今度は、苦しいだけの涙ではなかった。

 「いろんなものを、ゆっくり取り戻していこう」
 「はい……っ」

 袖で涙を拭って、どうにか息を整えた、そのとき。
 そばに置いていたスマホがブーッと震えた。

 「……っ」

 画面には、七姫(ななみ)の名前。

 「友達?」
 「はい、東京の」

 七姫は、東京にいたころからの親友だ。
 友達の多い子でいつもにぎやかな輪の中心にいた彼女は、転校したわたしにまで、こうしてまめに連絡をくれる。

 緋桜さんは、それ以上何も聞かずに立ち上がった。

 「じゃあ、俺は柏と少し庭を歩いてくるよ」
 「え、でも……」
 「ゆっくり話しておいで」

 そう言って、緋桜さんは柏を呼ぶ。
 足元に現れた柏が、こちらをちらりと見上げてから、緋桜さんのあとについていった。