***
朱里が自室へ戻ったあと、部屋には静けさだけが残った。
障子の向こうでは、庭木の影が夜風に揺れている。
緋桜は座卓の前に座ったまま、湯呑みに指を添えていた。
朱里が去っていった障子の先を、しばらく見つめている。
その足元に、柏が音もなく現れた。
「今日は最悪な一日だったわよ」
堕神が朱里を狙っている以上、護衛もなく学校へ行かせるわけにはいかない。
朱里には内緒で、柏に“普通の猫”として学校の様子を見てもらっていた。
もちろん、柏ひとりにできることには限りがある。それでも、彼女の魂を狙う堕神が学校へ入り込むようなことがあれば、白豹の姿になって朱里を守ることはできる。
「あの雛乃って分家の女、絶対に許せない!」
柏は尻尾で床を一度叩き、その日の出来事を話し始めた。
教室で財布を盗んだと疑われたこと。
京介が雛乃の言葉を信じ、朱里へ軽蔑の目を向けたこと。
校舎裏で、雛乃が朱里にミルクティーを浴びせたこと。
「あの京介ってのも、ほんっとイライラする! のうのうと騙されてるんじゃないわよ、ボケ!」
「なるほどね」
がちゃん、と乾いた音がした。
緋桜の手の中で、湯呑みに細い亀裂が走っている。
「緋桜、目が笑ってないわよ」
柏が呆れたように目を細める。
「にしても、良かったの? あの子、かなり凹んでるわよ。こういう時は、無理にでも話を聞いたほうが――」
「無理に話させるつもりはないよ」
緋桜は、割れた湯呑みを見下ろしたまま動かなかった。
「あの子は、ずっといろんなものを背負ってきた。本当なら大人が背負うべきだったものまで、ひとりで抱えてきたんだと思う」
指先から、陶器のかけらがひとつ落ちる。
「助けたいからといって、こちらから傷口に触れるのは違う。朱里が自分で話してくれなくてもいい。ただ、あの子が助けてほしいと手を伸ばした時には、全力でその手を取る」
そこでようやく、緋桜は顔を上げた。
「そのために、俺はここにいる」
紅い瞳に、冷たい光が宿る。
「ただ――何事もなかったことにはさせないよ」
柏が、ゆらりと尻尾を揺らした。
「どうするつもり?」
緋桜はゆっくり立ち上がる。
口元には、穏やかな笑みが浮かんでいた。
「少し、挨拶に行こうか」


