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校門から少し離れた角で車を降りる。
いつも通りの通学路。いつも通りの校舎。
けれど、靴箱に近づいた瞬間、その「いつも通り」が、ふっと歪んだ。
「うわ、ほんとに来たんだ」
「神経太すぎない?」
「どの面下げて、って感じ」
ひそひそとした声が、廊下のざわめきに混じって耳に刺さる。
……何か、あった?
足が止まりかけた。
けれど、立ち止まったら、その視線に呑み込まれてしまいそうで、わたしはそのまま前へ進んだ。
背中に、いくつもの目が貼りついてくる。
胸の奥がざわついたまま、自分の席へ向かった。
そのときだった。
「おはよう、朱里ちゃん」
雛乃が近づいてきた。
いつもより少し眉を下げ、痛ましいものを見るような顔をしている。
背後には、クラスの女子たちが数人、雛乃を守るように固まっていた。
「体、もう大丈夫? 無理して登校なんてしなくてよかったのに」
「……うん。大丈夫」
笑おうとしたけれど、頬がうまく動かなかった。
雛乃は胸の前で手を握り、そっと目を伏せる。
その仕草に合わせるように、取り巻きのひとりがわたしの机の前に立った。
「ねえ。ひなに、ちゃんと謝ったら?」
「……え?」
一瞬、意味が分からなかった。
「だって、あんなことになっちゃったでしょう? 京介くんだって、まだ一部の記憶が曖昧なんだし」
「あんなこと、って——」
「もういいよ、みんな」
雛乃が、背後の女子たちを止めるように振り返る。
「朱里ちゃんも、わざとじゃないんだから」
わざとじゃない。
その一言で、胸の奥がすうっと冷えた。
「ひな、優しすぎるよ」
「橋から押すなんて、普通に最低」
「京介くん、ひなを庇って落ちたんでしょ?」
言葉が、次々に降ってくる。雛乃は困ったように首を振った。
「あ、朱里ちゃん。ごめんね。ひな、誰にも言ってないよ?」
「何を……」
「朱里ちゃんが、ひなを橋から落とそうとしたこと」
教室が、しんと静まり返る。
「……ちがっ」
喉から押し出した声は、あまりにも小さかった。
「京介くんのこと、ずっと狙ってたんでしょ」
「雛乃がうらやましかったんじゃないの」
そんな取り巻きの声に、雛乃は泣きそうな顔で首を振る。
「もう、いいの。ひなも京介くんも、無事だったから」
「……ひ、雛乃が連れて行った場所の橋が古くて、欄干が折れたんじゃん。それで京介くんが落ちて、私は助けようとして——」
「じゃあ、これは何?」
取り巻きの一人が、机の上に、古ぼけた革の財布が置いた。
金具のすみに、八雲神社の家紋が刻まれている。
それは、あの日拾った京介の財布だった。
「あんたのカバンから出てきたんだって。写真もあるよ」
女子のひとりが、スマホの画面をこちらへ向けた。
そこには、見覚えのあるカバンが映っていた。あの日川べりに置いて行った、わたしのカバン。
開いた口から、京介の財布が覗いている。
背筋に、冷たいものが走った。
「ひなね、朱里ちゃんのカバン、あのあと持って帰ったんだよ。雨に濡れちゃってたから、このままだとダメになっちゃうって思って」
雛乃は、泣きそうな顔でわたしを見る。
「中身も乾かそうと思ったら、出てきたの。京介くんのお財布が」
「あ、あれは拾ったの! 京介に届けようと思って」
ヒソヒソと声が続く。
「財布を拾ったから、京介くんを追いかけて橋まで行ったってこと?」
「都合よすぎ」
「財布まで盗って追いかけるとか、怖……」
「違う、私は——」
そのとき、教室の後ろの扉が開いた。
ざわめきが、ぴたりと止まる。
京介が立っていた。
少し顔色が悪い。額には小さな絆創膏。制服の袖口からは、包帯が覗いている。
「京介くん……!」
雛乃が泣きそうな顔で駆け寄る。
京介は一瞬だけ雛乃を見て、それから教室の中を見渡した。
最後に、机の上の財布へ視線が落ちる。
「京介」
雛乃の背後にいた女子が、勝ち誇ったように言った。
「犯人、分かったよ」
京介の視線が、わたしに向く。
いつも少しぶっきらぼうで、でもどこか面倒見のよかった優しい目。
その目が今、まるで知らない人を見るみたいに冷えていた。
「……お前だったのか」
息が止まる。
「違う、京介。私は——」
「何が違うんだよ」
京介は、こちらへ一歩近づいた。
「俺、落ちた前後のこと、ところどころ記憶が曖昧なんだ。でも、俺が目を覚ましたとき、そばにいたのは雛乃だった」
胸の奥が、きしっと鳴った。
「俺たち、付き合うことになったんだ。ずぶ濡れになって、必死で俺を岸に引き上げてくれたのは間違いなく雛乃だ」
「それは……」
わたしが京介を岸へ押したあと、雛乃が引き上げた。
だから、京介が見たのはその場面だったのだろう。
でも、私の知っている真実はもう、彼の心には届かない気がした。
「俺さ。お前のこと、昔から知ってると思ってた」
けれど次に向けられた目は、幼なじみを見るものではなかった。
「でも、こんな奴だとは思わなかった」
「……京介」
「雛乃に謝れよ」
教室のどこかで、「謝罪、謝罪」と声が上がる。
それに合わせるように、ぱん、ぱん、と手を叩く音が広がっていった。
ひとつ、またひとつ。
音はすぐに増えて、教室の四方から押し寄せてくる。
机の列も、立ち上がった生徒たちの影も、少しずつこちらへ迫ってくるようだった。
「みんな、もうやめて!!」
雛乃が小さく首を振った。
「ひな、朱里ちゃんを責めたくないの。きっと朱里ちゃん、怖くなって逃げちゃっただけだと思うから」
雛乃は困ったように眉を下げ、いつもの柔らかな笑顔を作る。
「ねえ、朱里ちゃん。ひな、喉乾いちゃった。まだ時間あるし、飲み物買いに行こ?」
「……え」
「ふたりで、少し話そ?」
教室の空気が、少しだけ緩む。
「犯人庇うとか優しすぎ」
「ほんと、無理しなくていいのに」
みんなが、雛乃を優しい子として見ている。
わたしを責めたあとでも、雛乃だけはわたしを許そうとしている。そういう物語が、教室中に広がっていく。
断れば、またわたしが悪者になる。
わたしは小さく頷くしかなかった。
「……うん」
雛乃はほっとしたように笑うと、わたしの手首を軽く引いた。
「行こ、朱里ちゃん」


