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連れていかれたのは、屋敷の縁側の先に広がる日本庭園だった。
磨かれた廊下の先に、夏の入り口の青々とした芝生が広がっている。
古い灯籠。澄んだ池。水面には、陽射しがきらきらと揺れていた。
「君の好きな花を教えて」
「えっ、ええっと」
「桜以外で。俺の力を証明するなら、できれば、いまの季節には咲かない花がいい」
いまは咲かない花。
ぱっと頭に浮かんだのは、母がまだ元気だったころ、誕生日にくれたひと束の花だった。
「スイートピー、とか……?」
「いいね」
緋桜が、ふっと笑う。
「花言葉は、確か——」
「優しい思い出」
わたしがそう言った瞬間。
ひとつ、ふたつ、十、百。
薄紫、白、桃色の花が追いかけるように芽吹き、庭の端まで広がっていく。
やがて目の前一面に、スイートピーの海が咲き誇った。
淡く甘い香りが、夏の空気にふわりと混ざる。
風が吹くと、無数のフリルのような花がいっせいにこちらへ揺れた。
——まるで、歓迎されているみたいに。
「……これ、ほんとうに……」
「俺は桜の神だから、ある程度、花や植物のことなら操れる。といっても、これはおまけみたいなものでね」
緋桜は、咲き誇る花の海を見つめる。
「久遠桜の神としての本当の力は、別にある。それはまた、いつか」
そう言って、一本のスイートピーを摘み、わたしへ差し出した。
「これで、少しは信じてもらえた?」
「は、はい」
「ものわかりが良い子は、好きよ」
足元から、柏の満足そうな声がした。
完全には呑み込めていない。
けれど、目の前の花も、喋る猫も、夢ではない。
この人は、ふつうの人ではないのだ。
「それで、ここからが本題だ」
緋桜は姿勢を正し、わたしの正面に立った。
「君には、しばらくこの屋敷で、俺の婚約者として暮らしてほしい」
「……っ!?」
思わず、手の中のスイートピーを握りしめる。
屋敷で暮らす。
婚約者として。
どちらかひとつでも十分おかしいのに、同時に言われて、頭が真っ白になった。
「ま、待ってください。どうしてそうなるんですか!?」
「君を狙っている奴がいるんだ」
緋桜の表情から、ふっと甘さが消えた。
「そいつは、かつて神だったものだ。けれど今は巫女や力の弱くなった神の命を奪い、自分の力に変えている。俺たちはそういう存在を、堕神と呼んでいる」
「堕神……」
「君が持つ千歳家本家の血は、堕神にとって格好の餌だ。堕神が君の力を喰らえば、奴はさらに力を増す。俺としても、見過ごすわけにはいかないんだ」
紅い瞳が、まっすぐこちらを見る。
「この屋敷なら俺の目も届くし、柏もいる。君を守るには、ここがいちばん確かだ」
「でも、婚約者って……」
「俺が婚約者として迎えた相手なら、町の人間も簡単には口を出せないだろう。たとえ本家に仇なすものや、分家がなんと言おうともね」
分家の叔母さんが、ピシャリとドアを閉めた音がよみがえる。
「昨日……あの状況で堕神に襲われなかったのは、運がよかっただけだ」
その言葉に、背筋がひやりとした。
「君のことは概ね調べさせてもらった。気を悪くしたら申し訳ない。でも必要なら、おばあさまの病院や手術のことも全て支援しよう」
「……!」
おばあちゃんの手術費をどうするのか。
母にこれ以上負担をかけられないこと。分家が助けてくれないこと。
考えないようにしていた問題が、一気に現実味を帯びた。
我ながら現金だと思う。けれど、背に腹は代えられない。
「願いはなんでも叶えよう。だから協力してほしい。君を守るためにも、この町を守るためにも」
緋桜は、すっと頭を下げた。
「朱里にしか頼めないんだ」
わたしにしか、頼めない。
そんなふうに誰かに必要とされたのは、ずいぶん久しぶりな気がした。
父が亡くなってから、母に心配をかけないようにしてきた。
おばあちゃんのことも、お金のことも。できるだけ自分でどうにかしようとしてきた。
けれど本当は、誰かに頼られることも、信じてもらえることも。
こんなにうれしかったのだと、今さら気づいてしまう。
「……私にできることなら。お受けさせてください」
「ありがとう」
ゆっくり顔を上げたあとの表情は、驚くほどやわらかかった。
「突然で驚かせたのは分かってる。でも、一つだけ信じてほしい」
緋桜はそのまま静かに膝をつき、わたしの手の甲に唇を落とした。
「俺はずっと、君に会いたかった」
ほんの一瞬の、羽が触れるような口づけ。
どうしてだろう。初めて触れられたはずなのに、胸の奥だけが、ひどく懐かしく疼いた。


