千回目のあなたへ 〜十七の夏、迎えにきたのは神様でした〜



 ***

 連れていかれたのは、屋敷の縁側の先に広がる日本庭園だった。
 磨かれた廊下の先に、夏の入り口の青々とした芝生が広がっている。

 古い灯籠。澄んだ池。水面には、陽射しがきらきらと揺れていた。

 「君の好きな花を教えて」
 「えっ、ええっと」
 「桜以外で。俺の力を証明するなら、できれば、いまの季節には咲かない花がいい」

 いまは咲かない花。
 ぱっと頭に浮かんだのは、母がまだ元気だったころ、誕生日にくれたひと束の花だった。

 「スイートピー、とか……?」
 「いいね」

 緋桜が、ふっと笑う。

 「花言葉は、確か——」
 「優しい思い出」

 わたしがそう言った瞬間。

 ひとつ、ふたつ、十、百。
 薄紫、白、桃色の花が追いかけるように芽吹き、庭の端まで広がっていく。

 やがて目の前一面に、スイートピーの海が咲き誇った。
 淡く甘い香りが、夏の空気にふわりと混ざる。
 風が吹くと、無数のフリルのような花がいっせいにこちらへ揺れた。

 ——まるで、歓迎されているみたいに。

 「……これ、ほんとうに……」
 「俺は桜の神だから、ある程度、花や植物のことなら操れる。といっても、これはおまけみたいなものでね」

 緋桜は、咲き誇る花の海を見つめる。

 「久遠桜の神としての本当の力は、別にある。それはまた、いつか」

 そう言って、一本のスイートピーを摘み、わたしへ差し出した。

 「これで、少しは信じてもらえた?」
 「は、はい」
 「ものわかりが良い子は、好きよ」

 足元から、柏の満足そうな声がした。
 完全には呑み込めていない。

 けれど、目の前の花も、喋る猫も、夢ではない。
 この人は、ふつうの人ではないのだ。

 「それで、ここからが本題だ」

 緋桜は姿勢を正し、わたしの正面に立った。

 「君には、しばらくこの屋敷で、俺の婚約者として暮らしてほしい」
 「……っ!?」

 思わず、手の中のスイートピーを握りしめる。

 屋敷で暮らす。
 婚約者として。

 どちらかひとつでも十分おかしいのに、同時に言われて、頭が真っ白になった。

 「ま、待ってください。どうしてそうなるんですか!?」
 「君を狙っている奴がいるんだ」

 緋桜の表情から、ふっと甘さが消えた。

 「そいつは、かつて神だったものだ。けれど今は巫女や力の弱くなった神の命を奪い、自分の力に変えている。俺たちはそういう存在を、堕神(だしん)と呼んでいる」
 「堕神……」
 「君が持つ千歳家本家の血は、堕神にとって格好の餌だ。堕神が君の力を喰らえば、奴はさらに力を増す。俺としても、見過ごすわけにはいかないんだ」

 紅い瞳が、まっすぐこちらを見る。

 「この屋敷なら俺の目も届くし、柏もいる。君を守るには、ここがいちばん確かだ」
 「でも、婚約者って……」
 「俺が婚約者として迎えた相手なら、町の人間も簡単には口を出せないだろう。たとえ本家に仇なすものや、分家がなんと言おうともね」

 分家の叔母さんが、ピシャリとドアを閉めた音がよみがえる。

「昨日……あの状況で堕神に襲われなかったのは、運がよかっただけだ」

 その言葉に、背筋がひやりとした。

 「君のことは概ね調べさせてもらった。気を悪くしたら申し訳ない。でも必要なら、おばあさまの病院や手術のことも全て支援しよう」
 「……!」

 おばあちゃんの手術費をどうするのか。
 母にこれ以上負担をかけられないこと。分家が助けてくれないこと。
 考えないようにしていた問題が、一気に現実味を帯びた。

 我ながら現金だと思う。けれど、背に腹は代えられない。

 「願いはなんでも叶えよう。だから協力してほしい。君を守るためにも、この町を守るためにも」

 緋桜は、すっと頭を下げた。

 「朱里にしか頼めないんだ」

 わたしにしか、頼めない。
 そんなふうに誰かに必要とされたのは、ずいぶん久しぶりな気がした。

 父が亡くなってから、母に心配をかけないようにしてきた。
 おばあちゃんのことも、お金のことも。できるだけ自分でどうにかしようとしてきた。

 けれど本当は、誰かに頼られることも、信じてもらえることも。
 こんなにうれしかったのだと、今さら気づいてしまう。

 「……私にできることなら。お受けさせてください」
 「ありがとう」

 ゆっくり顔を上げたあとの表情は、驚くほどやわらかかった。

 「突然で驚かせたのは分かってる。でも、一つだけ信じてほしい」

 緋桜はそのまま静かに膝をつき、わたしの手の甲に唇を落とした。

 「俺はずっと、君に会いたかった」

 ほんの一瞬の、羽が触れるような口づけ。
 どうしてだろう。初めて触れられたはずなのに、胸の奥だけが、ひどく懐かしく疼いた。