千回目のあなたへ 〜十七の夏、迎えにきたのは神様でした〜


 ***

 校門から少し離れた角で車を降りる。

 いつも通りの通学路。いつも通りの校舎。
 けれど、靴箱に近づいた瞬間、その「いつも通り」が、ふっと歪んだ。

 「うわ、ほんとに来たんだ」
 「神経太すぎない?」
 「どの面下げて、って感じ」

 ひそひそとした声が、廊下のざわめきに混じって耳に刺さる。

 ……何か、あった?

 背中に、いくつもの視線が貼りついてくる。
 胸の奥がざわついたまま、自分の席へ向かった。

 そのときだった。

 「おはよう、朱里ちゃん」

 雛乃が近づいてきた。
 いつもより少し眉を下げ、痛ましいものを見るような顔で。
 背後には、クラスの女子が数人、雛乃を守るように固まっている。

 「体、もう大丈夫? 無理して登校なんて、しなくてよかったのに」
 「……うん。大丈夫」

 笑おうとしたけれど、頬がうまく動かなかった。
 雛乃が胸の前で手を握り、そっと目を伏せる。
 その仕草に合わせるように、取り巻きのひとりが、わたしの机の前に立った。

 「ねえ。ひなに、ちゃんと謝ったら?」
 「……え?」

 一瞬、意味が分からなかった。

 「あんなことになっちゃったでしょう? 京介くんだって、まだ記憶が曖昧なんだし」
 「あんなこと、って――」
 「もういいよ、みんな」

 雛乃が、背後の女子たちを止めるように振り返る。

 「朱里ちゃんも、わざとじゃないんだから」

 わざとじゃない。
 その一言で、胸の奥がすうっと冷えた。

 「ひな、優しすぎるよ」
 「橋から押すなんて、普通に最低」
 「京介くん、ひなを庇って落ちたんでしょ?」

 言葉が、次々に降ってくる。

 「あ、朱里ちゃん。ごめんね。ひな、誰にも言ってないからね?」
 「何を……」
 「朱里ちゃんが、ひなを橋から落とそうとしたこと」

 教室が、しんと静まり返る。

 「……ちがっ」

 喉から押し出した声は、あまりにも小さかった。

 「じゃあ、これは何?」

 取り巻きのひとりが、机の上に古ぼけた革の財布を置いた。
 金具のすみに、八雲神社の家紋。
 あの日、拾った京介の財布だった。

 「あんたのカバンから出てきたんだって」

 別の子が、スマホの画面をこちらへ向ける。
 そこには、川べりに置いていったわたしのカバンが映っていた。
 開いた口から、京介の財布が覗いている。

 「ひなね、朱里ちゃんのカバン、雨に濡れちゃうと思って持って帰ったの。中身を乾かそうとしたら、これが……」

 雛乃が、泣きそうな顔でわたしを見る。
 背筋に、冷たいものが走った。

 「あ、あれは拾ったの。京介に届けようと思って――」
 「財布まで盗って追いかけるとか、こわ……」
 「ストーカーじゃん」
 「違う、わたしは――」

 そのとき、教室の後ろの扉が開いた。
 ざわめきが、ぴたりと止まる。
 京介が立っていた。

 額には小さな絆創膏を貼っており、袖口から包帯が覗いている。

 「京介くん……!」

 雛乃が泣きそうな顔で駆け寄る。
 京介は一瞬だけ雛乃を見て、それから教室を見渡し、最後に机の上の財布へ視線を落とした。

 「犯人、分かったよ」

 雛乃の背後の女子が、勝ち誇ったように言う。
 京介の視線が、わたしに向いた。

 いつも少しぶっきらぼうで、でも面倒見のよかった京介。
 その目が今、まるで知らない人を見るみたいに冷えていた。

 「違う、京介。わたしは――」
 「何が違うんだよ」

 京介が、一歩近づく。

 「俺、落ちた前後の記憶が曖昧なんだ。でも、目を覚ましたとき、そばにいたのは雛乃だった。ずぶ濡れで、必死に俺を岸に引き上げてくれたのは、雛乃だ」

 わたしが京介を岸へ押したあと、雛乃が引き上げた。
 だから、京介が見たのは、その場面だけ。
 でも、わたしの知っている真実は、もう彼の心には届かない気がした。

 「雛乃に謝れよ」

 教室のどこかから、「謝罪、謝罪」と声が上がる。
 それに合わせて、ぱん、ぱん、と手を叩く音が広がっていく。

 ひとつ、またひとつ。
 音はすぐに増えて、四方から押し寄せてくる。

 「みんな、もうやめて!」

 雛乃が、小さく首を振った。

 「ひな、朱里ちゃんを責めたくないの。きっと怖くなって、逃げちゃっただけだと思うから」

 雛乃は困ったように眉を下げ、いつもの柔らかな笑顔を作る。

 「ねえ、朱里ちゃん。喉乾いちゃった。ふたりで、少し話そ?」

 教室の空気が、少しだけ緩む。

 「犯人庇うとか優しすぎ」
 「ほんと、無理しなくていいのに」

 みんなが、雛乃を優しい子として見ている。
 わたしを責めたあとでも、雛乃だけはわたしを許そうとしている。
 そういう物語が、教室中に広がっていく。

 断れば、またわたしが悪者になる。
 わたしは、小さく頷くしかなかった。

 「……うん」

 雛乃はほっとしたように笑うと、わたしの手首を軽く引いた。