「僕? 僕は何もないよ。勉強も運動も中途半端だし、将来の夢も白紙だし」
「嘘だ」
葵が僕の目をじっと覗き込んできた。彼女の澄んだ瞳に、たじろぐ僕の顔が映る。
「だって蓮くん、いつもリュックの端っこから、すっごく年季の入ったストラップが見えてるもん。それ、カメラの、でしょ?」
心臓が跳ねた。見られていたなんて気付かなかった。
「……ただの、古い一眼レフだよ。父親の形見。今はもう、ほとんど撮ってないし」
「どうして? 撮ってよ。私、蓮くんの撮る写真、見てみたいな」
「無理だよ。僕の写真なんて、ただ目の前にあるものをそのまま四角く切り取るだけだ。春野さんみたいに、世界を新しく創り出すことなんてできない」
少し自嘲気味に言った僕の言葉に、葵は「うーん」としばらく考え込んだ。
そして、おもむろに僕の腕を掴み、美術室の窓際へと引っ張っていった。
「見て、蓮くん」
葵が指差したのは、窓の外、校庭の隅に置かれた一本の錆びついた鉄棒だった。夕日が当たり、長い影を砂の上に落としている。
「私にはね、あの鉄棒をどうドラマチックに描くかしか分からない。でも、写真って違うでしょ? 蓮くんがあの鉄棒にカメラを向けた瞬間、世界の中で『その一枚』だけが、特別な意味を持つじゃない。切り取るっていうのは、それを『愛してる』ってことだよ」
切り取ることは、愛すること。
葵の言葉が、僕の胸の奥の一番柔らかい場所に、静かに、だけど深く突き刺さった。
「ほら、出してみて。そのカメラ」
悪戯っぽく笑う葵に急かされ、僕は渋々、リュックの奥から重たい一眼レフを取り出した。レンズキャップを外すと、ガラスの奥に夕暮れの美術室が映り込む。
「じゃあ、初シャッターは私ね!」
葵がイーゼルの横に立ち、悪戯にピースサインを作った。
僕はファインダーを覗く。
レンズを通して見る世界は、肉眼で見るよりもずっと狭い。だけど、その狭い四角の中に収まった春野葵という存在は、信じられないほど鮮明で、呼吸を忘れるほどに美しかった。
ファインダーの奥で、葵がふっと悪戯な笑みを引っ込め、少しだけ切なそうな、優しい目で僕を見つめた。
——カシャ。
静かなアトリエに、シャッター音が響く。
それが、僕たちの不器用な恋の、本当の始まりの音だった。
