あのレモンマドレーヌの日以来、僕の放課後のルートには、図書室の代わりに美術室が加わるようになった。
目的があるわけじゃない。
ただ、進路希望調査票を前にして息が詰まる教室にいるより、絵の具の匂いが満ちたあの空間のほうが、不思議と呼吸が楽だったからだ。
「あ、蓮くん! 見て見て、これ!」
美術室のドアを開けると、葵がキャンバスの横からひょっこりと顔を出した。
いつの間にか、彼女は僕を「蓮くん」と呼ぶようになっていた。僕の側は、急に距離を詰めるのが気恥ずかしくて、まだ「春野さん」と呼ぶことの方が多かったけれど。
葵が自慢げに指差したキャンバスには、激しいタッチで描かれた、夕暮れの街並みがあった。
赤と青、そして鮮烈な黄色。現実の景色よりもずっと歪んでいて、だけど、心臓の鼓動が聞こえてきそうなほどエネルギーに満ちている。
「すごいな……。春野さんの絵って、なんていうか、生きてるみたいだ」
本心だった。
僕には、こんな風に世界を自分の色で塗り替える才能も、情熱もない。
「へへ、ありがと。でもね、これでもまだ全然足りないの」
葵は絵の具のついたパレットナイフを弄びながら、少しだけ眉をひそめた。
「私の目はね、もっとたくさんの光を見たいの。世界中にある、まだ誰も見つけてないような綺麗な色を、全部この手で捕まえたいんだ」
彼女の瞳は、いつも真っ直ぐに遠くの未来を見つめている。
眩しくて、少しだけ寂しい。彼女の視線の先に、僕のいる場所はあるのだろうか。
「……蓮くんは、何か好きなことないの?」
不意の質問に、僕は肩をびくつかせた。
