「試験は八月の終わりにあるの。もし合格したら、私は九月から、東京の予備校と大学の寮に入るために、この街を出ていくことになるんだ。だから……」
葵はそこで一度言葉を切り、自分の胸元をぎゅっと握りしめた。
「だからね、この夏が、私がこの街で過ごす最後の夏になるの。蓮くんと一緒にいられる、最後の時間なの」
最後の夏。
その言葉が、容赦なく僕の胸に突き刺さる。
東京と、この街。
新幹線を使っても、高校生の僕たちにとっては、宇宙の果てほどに遠い距離だ。
彼女がそこへ行ってしまったら、もう放課後の美術室で、あの絵の具の匂いに包まれながら笑い合うことはできなくなる。
(行かないでくれ)
喉元まで出かかったその言葉を、僕は必死で飲み込んだ。
そんなことを言う資格は、僕にはない。
葵は自分の未来のために、あんなに細い体で、必死に戦おうとしているんだ。
誰よりも彼女の絵の価値を知っている僕が、彼女の足を引っ張るような真似をしていいはずがなかった。
「……だったらさ」
僕はカメラのストラップを強く握りしめ、葵を見た。
「最高の夏にしよう。葵が東京に行っても、この街の景色を思い出して寂しくならないくらい、全部の瞬間を、僕がカメラで記録するから」
「蓮くん……」
葵の瞳が一瞬、細く揺れた。
彼女は今にも泣き出しそうな、だけど世界で一番愛おしいものを見るような目で、僕を見つめていた。
「うん! 約束ね! 最高の思い出、作ろうね!」
葵はひまわりが咲くような、満面の笑顔を作って元気よく右手を挙げた。
だけど、その指先が少しだけ震えているのを、僕は見逃さなかった。
見上げるほどの青空に、入道雲がゆっくりと湧き上がっていく。
僕たちの、短くて、あまりにも眩しい『最後の夏休み』が、静かに幕を開けようとしていた。
