当たり前だった君へ。

3.六月八日
__六月八日。

朝から空気が少しだけ違って感じた。

窓の外では、
昨夜の雨が嘘みたいに晴れていた。

雲の切れ間から差し込む光が、
庭の濡れた石畳をきらきらと照らしている。

玄関の鏡の前で、
美空は制服の襟を整えながら小さく息を吐いた。

__六月八日。

__自分の誕生日。

そして__

空の誕生日でもある。

小さいころから、
この日は二人にとって特別だった。

__生まれた年も同じ。

__生まれた日も同じ。

__家も隣。

だから毎年、
六月八日は一緒に祝ってきた。

ケーキのろうそくを並べて、
プレゼントを交換して、
「おめでとう」を言い合う。

それが当たり前だった。

今年もきっと、
そうなるはずだった。

……なのに。

鞄の内ポケットに入れた白い封筒の存在が、
その“当たり前”を落ち着かなく揺らしていた。

『君に伝えたいことがあります。』

『六月八日 放課後 旧校舎裏へ』

あの日から、
何度も読み返した手紙。

差出人の名前はないまま。

誰が書いたのかもわからないまま。

でも、
今日はその約束の日だった。

「美空ー」

玄関の外から声がする。

空だ。

美空は慌てて鞄を持ち、
玄関を開けた。

朝の光の中、
門の前に空が立っていた。

__制服姿。

__少し跳ねた髪。

__片手に鞄。

__いつも通りの顔。

なのに今日は、
目が合った瞬間、
少しだけ胸がざわつく。

「……おはよ」

「おはよう」

空が言う。

そして少し間を空けて、
制服のポケットから小さな包みを取り出した。

「これ」

「……え?」

「誕生日」

薄い水色のラッピング。

見た瞬間、
美空の頬がゆるむ。

「……ありがとう」

「開けるの帰ってからな」

「うん」

美空も鞄から包みを取り出して、
空に差し出した。

「空も。誕生日おめでとう」

「……ありがと」

ほんの少しだけ、
空の口元がやわらぐ。

その顔を見るのが、
美空は昔から好きだった。

滅多に表情に出さないからこそ、
少し笑った時がすぐわかる。

「今年も同じだね」

美空が言う。

「ん?」

「誕生日プレゼント交換」

「毎年してるし」

「そうだけど」

当たり前みたいに返されて、
美空は少し笑う。

その“当たり前”が、
なんだか今日は妙に愛しかった。

学校でも、
「誕生日おめでとう」が何度も飛んだ。

教室に入った瞬間、

「美空、おめでとー!」

「空もおめでとう!」

と芽衣が大きな声を上げ、

琉生が
「また今年も同時開催だな」
と笑った。

クラスメイトにも祝われる。

二人まとめて祝われるのも、
昔から変わらない。

「ほんと便利だよね」

芽衣が言う。

「プレゼント一回で済むし」

「それ本人たちの前で言う?」

「冗談冗談」

笑い声が広がる。

__いつもの教室。

__いつもの空気。

でも。

昼が過ぎても、
五時間目が終わっても、
美空の心は落ち着かなかった。

放課後が近づいている。

旧校舎裏。

手紙の約束の時間が、
少しずつ近づいていた。

ホームルームが終わる。

「じゃあな」

「部活行く」

「またあとでー」

教室が一気に騒がしくなる。

__椅子の音。

__笑い声。

__廊下へ出ていく足音。

空も弓道場へ向かう支度をしていた。

「美空」

「……え?」

「今日、先行く」

「うん」

「部活終わったら帰る」

「……わかった」

空は少しだけ不思議そうにした。

「どうした?」

「え?」

「いや、なんかそわそわしてる」

また言われた。

美空は慌てて笑う。

「してないって」

「……ならいいけど」

そう言って、
空は教室を出ていった。

姿が見えなくなる。

美空は静かに息を吐いた。

鞄から封筒を取り出す。

何度も読んだ文字。

時間は、放課後。

もう過ぎている。

行かなきゃ。

旧校舎は、
今ではほとんど使われていない。

新校舎の裏にひっそり残る、
少し古びた校舎。

窓枠の塗装は剥げ、
壁には雨染みが残っている。

人気はない。

美空は階段脇の細い道を抜け、
裏手へ回った。

__風が吹く。

木が揺れる音だけが聞こえる。

誰かいるんだろうか。

胸が高鳴る。

もし、
これを書いたのが空だったら__

そんな考えがまた頭をよぎる。

その時。

旧校舎の壁際に、
人影が見えた。

「……っ」

美空の足が止まる。

そこに立っていたのは、
空ではなかった。

__見覚えのある制服。

__少し長めの黒髪。

胸の前で手を握りしめ、
緊張したようにこちらを見ている。

一つ上の学年の女子生徒だった。

美空は目を見開く。

「……え」

その先輩は、
美空の姿を見つけると、
小さく頭を下げた。

「来てくれて……ありがとう」

やわらかい声。

知らない人ではない。

校内で何度か見かけたことがある。

弓道部の、
三年生の先輩だった。

「手紙……」

美空が小さくつぶやく。

先輩は緊張した顔でうなずいた。

「私が入れた」

胸が強く鳴る。

空ではなかった。

少しだけ、
ほっとしたような。

それなのに、
なぜか胸の奥に小さな寂しさも残った。

先輩は美空をまっすぐ見つめて、
震える声で言った。

「……千代野くんのことで、話したいの」

その言葉に__

美空の時間が、
ぴたりと止まった。