当たり前だった君へ。

1.手紙
__六月の朝は、少し湿っていた。

昨夜降った雨の名残が、庭の紫陽花の葉先に小さく残っている。

空は白く、曇っているのに明るい。

梅雨に入ったばかりの町は、
どこか眠たそうな静けさに包まれていた。

月瀬美空(つきせ みく)は、
まだ少し重たい瞼をこすりながら玄関の扉を開けた。

制服の袖口を整え、
ローファーに足を入れる。

__いつもと変わらない朝。

家を出て、
隣の家の玄関が開く音を待って、
千代野空(ちよの そら)と一緒に学校へ行く。

それが昔から当たり前になっていた。

扉を閉めようとして、
美空はふと足を止める。

ポストの口から、
白いものが少しだけのぞいていた。

「……?」

手を伸ばして引き抜く。

__小さな白い封筒。

郵便受けに入っていたそれには、
切手も消印もなかった。

誰かが直接入れたらしい。

表には丁寧な文字で、

『月瀬美空さんへ』

とだけ書かれていた。

見覚えのない字だった。

丸みのある、やさしい筆跡。

美空は封筒をひっくり返してみる。

差出人の名前はない。

「誰だろ……」

小さくつぶやきながら、
指先で封を開ける。

中に入っていたのは、
折りたたまれた便せん一枚だけだった。

慎重に開く。

そこに書かれていたのは__

『君に伝えたいことがあります。』

『六月八日 放課後 旧校舎裏へ』

それだけだった。

__名前もない。

__理由もない。

__たった二行。

けれど、
その文字を見た瞬間、
胸の奥が妙にざわついた。

__六月八日。

それは、
美空の誕生日だった。

そして__

「……美空?」

突然、
すぐ後ろから声がした。

「っ……!」

美空は驚いて肩を揺らした。

振り返ると、
制服姿の空が立っていた。

片手で鞄を持って、
もう片方の手で寝ぐせのついた髪を軽く押さえている。

__眠そうな目。

__少しだけ低い声。

__見慣れた顔。

__毎朝見る顔。

家が隣で、
物心ついたころからずっと一緒の幼なじみ。

朝起きて、
玄関を開けたらそこにいるのが当たり前の人。

「……何見てる?」

空が視線を落とし、
美空の手元を見る。

__便せん。

その瞬間、
美空は反射的に手紙を背中に隠していた。

「な、なんでもない」

「……そう?」

空が首をかしげる。

たぶん、
ほんの少し不思議に思っただけ。

なのに、
美空の心臓はなぜか速くなっていた。

なんで隠したんだろう。

別に隠す必要なんてないのに。

自分でもわからない。

ただ、
なぜか見せたくなかった。

「……行くぞ。遅れる」

「う、うん」

美空は封筒を制服の鞄の内ポケットへ滑り込ませる。

空はそれ以上何も聞かなかった。

昔からそうだった。

踏み込みすぎない。

聞きたいことがあっても、
無理に聞いてこない。

優しいのか、
不器用なのか、
美空には昔からよくわからない。

玄関の鍵を閉めて、
二人は並んで歩き出した。

__見慣れた通学路。

__濡れたアスファルト。

__電柱の影。

__朝の静かな住宅街。

隣を歩く空との距離は、
肩ひとつ分。

近すぎず、遠すぎず。

その距離もずっと変わらない。

「眠そう」

美空が言う。

「……眠い」

「昨日また夜更かしした?」

「課題」

「絶対ゲームでしょ」

「半分」

「ほら」

少し笑う。

空もわずかに口元をゆるめた。

いつもの会話。

毎日しているような、
意味のないやりとり。

だけど今日は、
美空の意識の半分は鞄の中の手紙に向いていた。

__六月八日。

__放課後。

__旧校舎裏。

誰が書いたんだろう。

どうして私に。

頭の中で何度も文字が浮かぶ。

「美空」

「え?」

「信号」

「あっ」

赤信号をそのまま渡りかけて、
美空は慌てて足を止めた。

空が制服の袖を軽く引く。

「あぶな」

「……ごめん」

「ぼーっとしてる」

「してない」

「してる」

少しだけ呆れたような顔。

美空はむっと頬をふくらませる。

「空こそ寝ぼけてるじゃん」

「それとこれとは別」

「なにそれ」

また笑い合う。

そんな時間が、
昔からずっと続いてきた。

保育園も、
小学校も、
そして中学も。

家が隣で、
ずっと同じクラス。

気づけばいつも隣にいた。

近すぎて、
わざわざ意識することもない存在。

なのに今日は__

なぜだろう。

隣を歩く空の横顔が、
いつもより少し遠く感じた。

学校の門が見えてくる。

生徒たちの声が増えていく。

そのざわめきの中で、
美空はそっと鞄の上から封筒に触れた。

紙の感触が指先に伝わる。

六月八日まで、
あと三日。

その日、
何かが起こる。

そんな気がした。

理由はわからない。

けれど、
確かに胸の奥が落ち着かなかった。

空はその隣を歩いている。

何も知らない顔で。

あるいは__

知っているのかもしれない。

そんな考えがよぎって、
美空は小さく首を振った。

まさか。

そんなわけない。

でも__

もしも、この手紙が。

空からのものだったら。

そう思った瞬間、
胸が大きく跳ねた。

美空は慌てて前を向く。

空は何も言わず、
ただいつものように隣を歩いていた。

まだ、
この時の二人は知らない。

その一通の手紙が、

ずっと当たり前だった毎日を、

少しずつ、
静かに変えていくことを。