星海に消えた約束。

__放課後。

授業が終わったあとも、星那はしばらく席から立てなかった。

窓の外では、夕方の光が海を淡く照らしている。

クラスメイトたちの話し声が遠い。

指先だけが、ずっと落ち着かなかった。

__話さなきゃ。

昨日、母に言われた。

『冬雪くん自身を見なさい』

そして希美にも言われた。

『“ゆきくん”じゃなくて、“今の志水冬雪”を見てあげなよ』

分かっている。

逃げ続けるわけにはいかない。

このまま曖昧なままだと、きっと冬雪を傷つける。

なのに。

怖かった。

もし話して、
冬雪が困った顔をしたら。

もし、「やっぱり人違いだった」と言われたら。

八年間抱えてきたものが、全部崩れてしまいそうで。

「……島居さん」

不意に声がして、星那は肩を揺らした。

振り返る。

冬雪が立っていた。

「帰らないの?」

「あ……う、うん」

冬雪は少し首を傾げる。

「なんか今日、変じゃない?」

図星だった。

星那は視線を逸らす。

「……ちょっと考え事」

「そっか」

冬雪はそれ以上聞かなかった。

その優しさが、逆に胸に刺さる。

すると冬雪が鞄を持ち直しながら言った。

「今日、神社行ってもいい?」

その瞬間。

星那は小さく息を飲んだ。

逃げるなら、今だった。

「今日は用事ある」と言えばいい。

また今度にすればいい。

でも。

__ちゃんと向き合いたい。

星那はぎゅっと制服の袖を握ったあと、小さく頷いた。

「……うん」

__夕暮れの坂道を、二人で歩く。

海風が少し冷たい。

空は薄い藍色へ変わり始めていた。

冬雪は隣を歩きながら、静かに海を見ている。

その横顔を見ていると、また胸が苦しくなる。

懐かしい。

でも今は、“ゆき”だけじゃない。

この数日で知った。

猫に優しいところ。

静かな場所が好きなところ。

少し不器用なところ。

笑うと、少し幼く見えるところ。

全部、“冬雪”のものだった。

星那は小さく息を吸う。

「……ねぇ、志水くん」

「ん?」

まだ呼び方は完全には変えられない。

でも。

今日はちゃんと言わなきゃいけない。

「話したいこと、ある」

冬雪が少し驚いた顔をする。

「珍しいね。島居さんから」

「……うるさい」

そう返す声が少し震えた。

冬雪は小さく笑った。

「ごめん」

二人はそのまま神社へ向かう。

境内にはまだ誰もいなかった。

風鈴の音だけが静かに鳴っている。

石段へ腰を下ろす。

少し距離を空けて。

けれど以前より、その距離は近かった。

風が吹く。

木々が揺れる。

星那は膝の上で手を握りしめた。

鼓動がうるさい。

「……志水くんってさ」

「うん」

「前に、“初めて来た気がしない”って言ってたよね」

冬雪は少し目を細める。

「ああ」

「夢も見るって」

「……うん」

静かな返事。

星那は喉を鳴らした。

それから、ゆっくり言う。

「私……多分、志水くんと昔会ってる」

空気が止まった気がした。

冬雪が動かない。

風鈴の音だけが響く。

「……昔?」

かすれた声。

星那は小さく頷いた。

「八年前」

その数字を口にした瞬間、胸の奥が強く痛んだ。

「星祭りの日に、神社の裏山で会った」

冬雪は黙って聞いている。

「その時の志水くん……自分のこと、“ゆき”って名乗ってた」

沈黙。

遠くで波の音がする。

冬雪はすぐには何も言わなかった。

ただ静かに俯いていた。

星那は続ける。

「最初は、人違いかもしれないって思ってた」

声が少し震える。

「でも、夢の話とか、神社のこととか……同じで」

__言葉が詰まる。

涙が出そうだった。

「……私、ずっと探してたの」

俯いたまま言う。

「急にいなくなったから」

風が吹いた。

提灯が小さく揺れる。

長い沈黙。

やがて。

冬雪が静かに口を開いた。

「……俺」

その声は、少し震えていた。

「やっぱり、会ってたんだ」

星那が顔を上げる。

冬雪は自分の手を見つめていた。

「最近ずっと変だった」

苦しそうな声。

「島居さん見ると、懐かしくて」

“島居さん”。

まだ名前では呼ばない。

でもその声は、前よりずっと柔らかかった。

「神社来ると、胸が苦しくなって」

冬雪は小さく笑う。

「夢も、どんどんはっきりしてきて」

その目がゆっくり星那を見る。

「……でも、思い出せない」

泣きそうな顔だった。

「大事なはずなのに」

星那の胸が締め付けられる。

すると冬雪が小さく呟く。

「ごめん」

「え?」

「忘れてて」

その言葉に、星那は目を見開いた。

違う。

謝ってほしかったわけじゃない。

そうじゃない。

星那は慌てて首を振った。

「違うの、そうじゃなくて……!」

声が少し裏返る。

冬雪が驚いたように目を瞬かせた。

星那は自分でも何を言いたいのか分からなくなりながら、それでも必死に言葉を探す。

「その……忘れてても、ちゃんと来てくれたから」

涙が滲みそうになる。

「また会えたから」

その瞬間。

冬雪の表情が、少しだけ揺れた。

風が吹く。

木々がざわめく。

そして。

冬雪は小さく目を伏せながら呟いた。

「……俺、また会いたかったんだな」

その声は、
夢を見ているみたいに静かだった。

冬雪の言葉を聞いた瞬間。

星那の胸の奥で、何かが音を立てて崩れた。

「……会いたかった」

その一言が、何度も頭の中で繰り返される。

夜の海が静かに揺れていた。

防波堤へぶつかる波の音。

潮風。

遠くの船の灯り。

全部がぼやけるくらい、星那は胸がいっぱいだった。

冬雪は、自分でも驚いているみたいな顔をしていた。

「……なんでだろ」

小さく呟く。

「ちゃんと思い出せないのに」

困ったように笑う。

「でも、島居さんの話聞いてたら」

その視線が、ゆっくり星那へ向く。

「ずっと探してた気がした」

星那は息を呑む。

苦しかった。

嬉しすぎて。

八年間。

ずっと、自分だけが取り残されている気がしていた。

あの日を覚えているのは、自分だけだと思っていた。

だから。

「また来る」

そう約束して消えた少年を、
何度も夢みたいだったと思おうとした。

でも無理だった。

忘れられなかった。

夏が来るたび思い出して。

祭りの音を聞くたび苦しくなって。

裏山へ行くたび、期待してしまって。

ずっと。

本当にずっと。

待っていた。

その時間が、一気に胸へ押し寄せる。

「……島居さん?」

冬雪が少し心配そうに覗き込む。

そこで初めて、星那は自分が泣きそうになっていることに気づいた。

慌てて顔を逸らす。

「な、なんでもない」

声が震える。

駄目だ。

泣きたくない。

まだ全部戻ったわけじゃない。

まだ“ゆき”だって決まったわけじゃない。

でも。

それでも。

『……会いたかった』

その言葉だけで、
八年間が報われた気がした。

星那はぎゅっと制服の袖を掴む。

胸が熱い。

苦しいくらい。

すると冬雪が、少し焦ったように言った。

「え、俺なんか変なこと言った?」

「……っ」

その言い方がおかしくて。

昔と同じで。

星那は思わず小さく笑ってしまう。

涙が滲む。

「いや……変なのは、志水くんの方」

「ひどくない?」

「急にそんなこと言うから……」

声が上手く出ない。

冬雪は少し困った顔をしたあと、静かに海を見る。

「でもさ」

「……?」

「俺、安心した」

星那の鼓動が跳ねる。

「夢じゃなかったんだなって思った」

風が吹く。

冬雪の黒髪が揺れる。

「昔、ここにいた俺って」

静かな声。

「ちゃんと誰かと会ってたんだな」

その横顔が、少しだけ寂しそうだった。

星那は胸を締め付けられる。

思い出せないことが、
きっと冬雪自身も苦しいんだ。

覚えていないのに。

感情だけ残っている。

懐かしさだけ残っている。

それはきっと、
星那が思っているよりずっと不安なことだった。

だから星那は、小さく息を吸ってから言う。

「……いたよ」

冬雪が振り返る。

星那は少しだけ笑った。

泣きそうなまま。

「ちゃんといた」

夜風が吹く。

波の音が静かに響く。

冬雪は数秒黙ってから、ふっと目を細めた。

その笑い方が。

あの日、裏山で見た笑顔と重なる。

星那の胸がまた熱くなる。

そして気づく。

自分の中で。

“志水くん”という距離が、
もうほとんど残っていないことに。

けれど。

まだ少しだけ怖かった。

その名前を呼んでしまったら。

本当に全部、戻れなくなってしまう気がして。

だから星那は、胸の奥に溢れる想いを隠したまま、静かに海を見る。

星影島の夜は、今日も空と海の境界が曖昧だった。

まるで。

八年間離れていた時間まで、
静かに溶かしていくみたいに。