星海に消えた約束。

星那の胸がざわつく。

「あの子が、また消えようとするかもしれないって……?」

けれど星里は、すぐには答えなかった。

社務所の明かりが、静かに揺れている。

湯呑みから立つ湯気だけが、ゆっくり空気へ溶けていった。

「……お母さん」

星那は耐えきれずに聞く。

「冬雪くんに、何があったの?」

星里は視線を伏せたまま、小さく息を吐いた。

その横顔は、どこか苦しそうだった。

「全部を話すことは、まだできない」

「どうして?」

思わず強い声になる。

「私には関係あるんでしょ!? 八年前、ゆきくんに会ったの私なんだよ!」

星里は静かに目を閉じた。

まるで、何かを思い出しているみたいに。

「……そうね」

小さな声。

「本当なら、もっと早く話すべきだったのかもしれない」

その言い方に、星那は眉を寄せる。

「じゃあ話してよ」

「話せないの」

「なんで……!」

星里は少しだけ困ったように笑った。

でもその笑顔は、いつもの優しい母の笑顔じゃなかった。

どこか怯えているようにも見えた。

「星那」

静かな声。

「この島にはね、“知らない方が幸せなこと”もあるの」

風が吹く。

社務所の窓が小さく鳴った。

星那は唇を噛む。

「でも私、もう関わってる」

震える声だった。

「今さら知らないふりなんてできないよ……」

冬雪が笑う顔。

寂しそうな横顔。

夢の話をする時の声。

全部が胸に浮かぶ。

星里はそんな星那を見つめて、ほんの少しだけ目を細めた。

「……あの子、あなたには昔と同じ顔するのね」

「え?」

「無意識なのに、ちゃんと惹かれてる」

その言葉に、星那の胸が跳ねる。

「そ、そういうのじゃ……」

言いかけて止まる。

違う、と言い切れなかった。

星里は小さく笑った。

「あの時もそうだった」

懐かしそうな声。

「あなたの隣にいる時だけ、あの子はちゃんと生きてる顔をしてた」

星那は目を伏せる。

胸が苦しい。

嬉しいのに、不安だった。

「……ねぇ、お母さん」

静かな声で聞く。

「ゆきくんは、人間じゃなかったの?」

その瞬間。

星里の表情が止まった。

沈黙。

風鈴が鳴る。

長い間を置いてから、星里はゆっくり口を開く。

「……人間だったわ」

星那は少しだけ息を吐く。

けれど。

星里は続けた。

「でも、“普通”ではなかった」

その言葉に、空気が少し冷えた気がした。

「昔、この神社には“星還り”って呼ばれる言い伝えがあるの」

「星還り……?」

「星の海が一番綺麗な夜、強く願った人間が、“向こう側”へ近づいてしまうことがあるって」

星那は意味が分からず眉を寄せる。

「向こう側?」

星里は答えない。

代わりに、窓の外を見る。

夜の境内。

暗い石段。

木々の揺れる音。

「私はね」

ぽつりと呟く。

「あの子を初めて見た時、“境界が薄い子”だと思った」

「境界……」

「ここにいるのに、どこか別の場所にもいるみたいな子」

その表現は、妙にしっくりきてしまった。

消えてしまいそうな雰囲気。

触れても、風みたいにいなくなりそうな感じ。

星那は何も言えなくなる。

すると星里が、少しだけ厳しい声で言った。

「だからこそ、思い出させすぎちゃ駄目なの」

「え……?」

「記憶が戻れば戻るほど、あの子は昔の“感覚”へ引っ張られる」

星那の背筋が冷える。

「それって……どうなるの」

星里はしばらく黙っていた。

答えを迷うみたいに。

そして、やがて小さく言った。

「……また、消えるかもしれない」

その瞬間。

星那の頭が真っ白になる。

八年前の夜。

風の中で薄くなった姿。

冷たい手。

『……ありがとう』

最後の笑顔。

全部が一気に蘇った。

「やだ……」

気づけば声が漏れていた。

「やっと会えたのに……」

震える声。

「またいなくなるなんて、そんなの……」

そして、星里は星那に言う。

「今は”ゆき”くんじゃなくて冬雪くん自身を見なさい」

静かに、娘を見つめていた。

その目は優しかった。

でも同時に。

何かを諦めているようにも見えた。

「……お母さんは、全部知ってるの?」

星那が聞く。

すると星里は、ゆっくり首を横に振った。

「全部じゃない」

「でも何か知ってる」

「……ええ」

「だったら」

「星那」

星里が静かに遮る。

その声は珍しく強かった。

「今はまだ、知らないで」

星那は息を呑む。

星里は目を伏せ、小さく呟く。

「もしあの子が、本当に戻ってきた理由が私の考えてる通りなら……」

そこまで言って、口を閉ざした。

「……お母さん?」

けれど星里は、それ以上何も言わなかった。

ただ窓の外を見つめる。

夜空には星が浮かんでいる。

海の方から、静かな波音が聞こえた。

そして、星里は、誰にも聞こえないくらい小さな声で呟く。

「……お願いだから、今度こそ幸せになって」