星海に消えた約束。

__その夜。

冬雪と別れたあと、星那は一人で星守神社へ戻っていた。

境内にはもう人がいない。

提灯の灯りも消え、夜風だけが静かに吹いている。

石段を上がる足音が、やけに大きく聞こえた。

「……ただいま」

社務所の引き戸を開ける。

中では、星里がお札の整理をしていた。

「あら、おかえり」

優しい声。

けれど星那は、すぐ返事ができなかった。

胸の奥がずっと落ち着かない。

__『島居さん見てると、懐かしくなる』

__『昔の俺、知ってる?』

そして。

今日、自分が初めて口にした名前。

__“冬雪くん”。

星那はそっと視線を落とした。

星里はそんな娘の様子を見て、小さく首を傾げる。

「どうしたの?」

「……お母さん」

少し迷ってから、星那は口を開いた。

「聞きたいことある」

社務所の奥で風鈴が鳴る。

星里は静かに手を止めた。

「志水くんのこと?」

その言葉に、星那は目を見開く。

「……やっぱり、お母さん何か知ってるの?」

星里はすぐには答えなかった。

代わりに、ゆっくり湯呑みへお茶を注ぐ。

湯気が立つ。

静かな沈黙だった。

「星那」

やがて星里が、静かな声で言う。

「あなた、あの子に会ったのよね」

胸が強く跳ねる。

「あの子って……」

星里はゆっくり星那を見る。

その目は、どこか覚悟を決めたみたいだった。

「八年前に」

空気が止まった気がした。

星那の喉が震える。

「……知ってたの?」

「気づいてた」

「どうして言ってくれなかったの!?」

思わず声が強くなる。

ずっと。

ずっと一人で抱えてきた。

夢じゃないって信じたかった。

でも誰も覚えていなかった。

誰にも信じてもらえなかった。

なのに。

「お母さん、知ってたんだ……」

震える声。

星里は少しだけ目を伏せる。

「ごめんね」

「なんで……!」

星那の目に涙が滲む。

「私、ずっと探してたんだよ……!」

夏祭りのたび。

裏山へ行った。

海を見た。

“また来る”って約束を、ずっと待っていた。

でも。

誰も知らないみたいな顔をした。

だから星那は、いつからか自分でも怖くなっていた。

本当にいたのか。

夢だったんじゃないかって。

星里は静かに言う。

「夢じゃないわ」

その一言で。

張っていたものが切れそうになった。

星那は唇を噛む。

「……じゃあ、やっぱり冬雪くんは」

その名前を口にした瞬間、胸が少し熱くなる。

星里はわずかに目を細めた。

娘の呼び方が変わったことに気づいたみたいに。

「……あの子と、同じなの?」

問いかける声は小さかった。

怖かった。

答えを聞くのが。

すると星里は、すぐには頷かなかった。

「同じ、とは少し違うのかもしれない」

「え……?」

夜風が吹く。

社務所の窓が小さく鳴る。

星里は遠くを見るような目をした。

「昔から、この島には不思議な言い伝えがあるの」

静かな声。

「“星が最も近づく夜、魂は海を越える”っていう言い伝えが」

星那は息を呑む。

「……なに、それ」

「昔話みたいなものよ」

そう言いながらも、星里の表情は真剣だった。

「でも、あの子を初めて見た時」

星里はゆっくり続ける。

「普通の子じゃないって、すぐ分かった」

星那の指先が震える。

八年前。

あの風。

薄くなった姿。

冷たい手。

全部が頭をよぎる。

「じゃあ……ゆきくんは」

言葉が詰まる。

消えてしまいそうだった、あの少年。

星里は静かに首を横へ振った。

「でもね」

優しい声。

「あの子は確かに、星那と出会ったことで変わった」

星那は顔を上げる。

「最初は本当に、空っぽみたいな子だったの」

星里は懐かしそうに目を細める。

「でも、あなたと一緒に笑ってる時だけ、ちゃんと“ここ”にいる顔をしてた」

胸が締め付けられる。

「だから私は、あえて止めなかった」

「……」

「きっと、あの子に必要だったから」

静かな沈黙が落ちる。

風鈴が鳴る。

遠くで波の音が聞こえる。

星那は小さく俯いた。

頭の中がぐちゃぐちゃだった。

でも。

一つだけ、はっきりしたことがある。

冬雪は。

“ゆき”は。

本当にいた。

夢なんかじゃなかった。

すると星里が静かに言った。

「ただ、気をつけなさい」

「え……?」

星里の表情が少し曇る。

「あの子、まだ不安定なの」

「不安定……?」

「この島に来てから、記憶だけじゃなく、“あの頃”のものまで戻りかけてる」

星那の胸がざわつく。

「あの頃って……」

星里は答えなかった。

代わりに、星那をまっすぐ見る。

「もし全部を思い出した時」

静かな声。

「あの子が、また消えようとするかもしれない」