星海に消えた約束。

__翌日の放課後。

「……で、どこ行くの?」

学校を出たところで、冬雪がそう聞いた。

海風が制服の裾を揺らす。

空はまだ明るく、夏の終わり特有の柔らかな青色をしていた。

星那は少し考えてから言う。

「……島、案内しようかと思って」

「案内?」

「志水くん、この島のこと全然知らないでしょ」

そう言うと、冬雪は少し笑った。

「確かに」

その笑顔を見て、星那の胸が小さく揺れる。

最近、少しずつ分かってきた。

冬雪は最初より、よく笑うようになった。

まだ静かで、どこか儚い雰囲気は変わらない。

でも。

神社へ来るたび。

一緒に帰るたび。

その表情に、人間らしい温度が増えている気がした。

「じゃあ、よろしく案内人さん」

「……なにそれ」

星那が呆れたように言うと、冬雪は少し楽しそうに目を細めた。

二人は海沿いの道を歩き始めた。

__最初に向かったのは港だった。

小さな漁港。

防波堤には釣り人が並び、船が波に揺れている。

潮の匂いが濃い。

カモメの鳴き声が空を横切る。

「……なんか落ち着くな」

冬雪が海を見ながら言った。

「東京だと、こういう音しなかった」

「波の音?」

「うん」

防波堤へ座る。

夕方の海は静かだった。

星那は隣の横顔をちらりと見る。

風に揺れる黒髪。

ぼんやり海を見る目。

やっぱり時々、
“ゆき”と重なる。

すると冬雪がぽつりと言った。

「ここ、来たことある気がする」

星那の肩が小さく揺れる。

「……また?」

「うん」

冬雪は困ったように笑った。

「最近ほんと多いな、この感じ」

そのまま海を見つめる。

「この辺の匂いとか、風とか」

静かな声。

「懐かしい」

星那は何も言えなかった。

代わりに、防波堤へ置いた手をそっと握る。

すると冬雪が突然言った。

「ラムネ飲みたくなる」

「え?」

「なんでだろ」

その瞬間。

星那の心臓が跳ねた。

__ラムネ。

八年前の祭り。

一緒に飲んだ、あの日の。

冬雪は首を傾げていた。

「炭酸苦手なのに、不思議なんだよな」

覚えてない。

でも残ってる。

記憶じゃなく。

感覚として。

星那は胸の奥が熱くなるのを感じた。

「……飲む?」

「売ってる?」

「この先の駄菓子屋」

「じゃあ飲みたい」

その返事が少し子どもっぽくて、星那は思わず笑ってしまう。

「なに?」

「いや、なんか」

“ゆき”みたいだ。

そう言いかけて、飲み込む。

まだ言えない。

まだ怖い。

二人は防波堤を離れ、古い商店街へ向かった。

夕方の商店街は、人が少なかった。

魚屋のおじさんが片付けをしている。

八百屋のラジオから古い歌が流れていた。

「うわ、懐かしい感じ」

冬雪が周囲を見回す。

「昭和って感じする」

「失礼」

「褒めてる」

そう言って笑う。

その笑顔を見ていると、星那の緊張が少しずつ薄れていく。

駄菓子屋へ入る。

小さな店だった。

色褪せたアイスケース。

並んだ駄菓子。

風鈴。

昔から何も変わっていない場所。

「うわ……」

冬雪が小さく目を見開く。

「すげぇ」

その反応が新鮮で、星那は少し楽しくなる。

「子どもの頃よく来てた」

「島居さんが?」

「うん」

そこで一瞬、言葉が止まる。

__“ゆき”とも来たかったな。

そんな考えが頭をよぎった。

すると冬雪が、棚の奥を見て立ち止まった。

「……これ」

手に取ったのは、青いラムネ瓶だった。

星那は息を呑む。

冬雪は瓶を見つめながら、小さく笑う。

「なんかこれ、好きな気がする」

「……気がするって」

「記憶ないのに懐かしいんだよ」

その言葉が切なかった。

店の外へ出る。

星那がラムネを開けようとすると、冬雪が言った。

「貸して」

「え?」

ぽんっ。

綺麗にビー玉が落ちる。

星那は目を見開いた。

「あれ」

冬雪も少し驚いていた。

「なんか普通にできた」

__八年前。

『……開けられない』

そう言っていたのに。

星那は思わず吹き出した。

「なに?」

「……成長したね」

「なんだそれ」

冬雪も笑う。

その瞬間。

星那の中で、何かが少し変わった。

“志水くん”。

そう呼ぶたびに感じていた距離が、
前より少しだけ近くなっている。

ラムネを飲みながら、二人は夜の海へ向かった。

空はゆっくり藍色へ変わり始めている。

防波堤の先。

波が静かに揺れていた。

「……綺麗」

冬雪が呟く。

海には、少しずつ星が映り始めていた。

まるで空が落ちていくみたいに。

「これが、“星の海”?」

星那は頷く。

「まだ星少ないけどね」

冬雪はしばらく黙って海を見ていた。

風が吹く。

静かな時間だった。

すると。

「……なぁ」

「ん?」

「島居さんってさ」

冬雪は海を見たまま言う。

「昔の俺、知ってる?」

星那の呼吸が止まる。

「え……」

「なんか最近、そう思う時ある」

静かな声。

「夢だけじゃなくて」

波の音。

遠くの灯台の光。

冬雪はゆっくり続ける。

「島居さん見てると、懐かしくなる」

胸が苦しい。

嬉しい。

怖い。

全部が混ざる。

星那は俯き、ぎゅっとラムネ瓶を握った。

まだ言えない。

“あなたがゆきなの?”

その問いを。

でも。

その代わりみたいに。

小さく口を開く。

「……冬雪くん」

言った瞬間。

自分で驚いた。

冬雪も少し目を見開く。

風が止まった気がした。

星那は慌てて視線を逸らす。

「……あ」

顔が熱い。

言ってしまった。

初めて。

“志水くん”じゃなく。

“冬雪くん”と。

冬雪は数秒黙ってから、小さく笑った。

「うん?」

その返事が優しくて。

星那の胸は、少しだけ痛かった。