星海に消えた約束。

__その日から。

冬雪は放課後になると、よく星守神社へ来るようになった。

理由は自分でも分からないらしい。

「なんか落ち着くから」

そう言って、境内の石段に座って空を見る。

星那は授与所の手伝いをしながら、時々そんな冬雪を眺めていた。

__夕暮れ。

蝉の声も少しずつ減り始めた時間。

「はい、お茶」

星那が紙コップを差し出すと、冬雪は少し驚いた顔をした。

「……ありがとう」

隣へ座る。

境内には誰もいなかった。

風鈴の音だけが静かに響いている。

「今日も夢見た?」

星那が聞くと、冬雪は少しだけ眉を寄せた。

「ああ」

最近、冬雪は時々夢の話をするようになっていた。

星の夢。

昔から何度も見る、不思議な夢。

「どんな夢なの?」

冬雪は少し考える。

「……暗い海がある」

静かな声。

「でも怖くないんだ。海の上に星が映ってて、空と繋がってるみたいで」

星那は黙って聞いていた。

それはまるで。

星影島の“星の海”そのものだった。

「あと、鈴の音が聞こえる」

冬雪は続ける。

「風の音と混ざって、ずっと鳴ってる」

神社の鈴だ。

星那は確信する。

夢の中にある景色は、この島だ。

「誰かいるの?」

そう聞くと、冬雪は少しだけ目を伏せた。

「……いる」

星那の鼓動が速くなる。

「女の子?」

「多分」

冬雪は困ったように笑った。

「顔、ぼやけて見えないんだけど」

その声が少し寂しそうだった。

「でも」

「?」

「その子、いつも笑ってる」

風が吹く。

境内の木々が揺れる。

「俺、その夢好きなんだよな」

冬雪は空を見る。

「起きると、すげぇ寂しくなるけど」

星那は胸が締め付けられた。

その夢の中にいるのは、
きっと昔の自分だ。

__八年前。

__裏山で一緒に星を見ていた時間。

冬雪は覚えていない。

でも夢には残っている。

消えていない。

すると冬雪がぽつりと言った。

「変なんだよ」

「え?」

「その夢、昔から見てる」

星那は目を瞬かせる。

「昔から?」

「小さい頃からずっと」

冬雪は紙コップを見つめる。

「気づいたら見てた。何回も」

その言葉に、星那の心臓が強く跳ねた。

「……何回も?」

「うん」

冬雪は苦笑する。

「親にも心配されてた。寝言で“星の海”って言ってたらしくて」

星那は息を呑む。

やっぱり。

やっぱり冬雪は、
ずっとこの島を覚えていたんだ。

記憶じゃなくても。

夢として。

心のどこかで。

「でもさ」

冬雪が静かに言う。

「この島来てから、その夢が前よりはっきり見えるようになった」

「……」

「昨日なんか、声まで聞こえた」

星那の指先が小さく震える。

「どんな声?」

冬雪は少し黙った。

まるで、その声を思い出しているみたいに。

「……優しい声だった」

夕陽が冬雪の横顔を染める。

その表情は、どこか遠くを見ていた。

「俺、多分」

小さな声。

「その子に、会いたかったんだと思う」

星那は何も言えなかった。

胸の奥が熱い。

苦しいほど。

嬉しいほど。

八年間。

自分だけが覚えていると思っていた。

でも違った。

冬雪も、忘れたまま探していたんだ。

夢の中で。

ずっと。

するとその時。

社務所の奥から、星里が出てきた。

「あら、まだいたのね」

「こんばんは」

冬雪が軽く頭を下げる。

星里は微笑みながら二人を見る。

けれど次の瞬間。

冬雪の言葉に、表情がわずかに止まった。

「俺、昔からこの島の夢を見るんです」

静寂。

風鈴が鳴る。

星里は数秒黙ったあと、静かに聞いた。

「……どんな夢?」

冬雪は少し考えてから答える。

「星が海に落ちる夢です」

その瞬間。

一瞬だけ。

ほんの一瞬だけ。

星里の顔から笑みが消えた。

星那はそれを見逃さなかった。

__その日の帰り道。

神社の片付けが終わる頃には、空はもう藍色へ変わっていた。

境内の提灯だけが、ぽつぽつと柔らかく光っている。

「じゃあ俺、帰る」

石段へ向かいながら冬雪が言う。

「あ……」

星那は無意識に声を漏らした。

冬雪が振り返る。

「ん?」

「……途中まで、一緒に帰る?」

言った瞬間、自分で驚いた。

今までなら、こんなこと自分から言わなかった。

けれど冬雪は自然に笑った。

「いいよ」

二人は並んで石段を下り始めた。

夜の星影島は静かだった。

昼間より風が冷たい。

潮の匂いが濃くなる。

遠くで波の音が聞こえていた。

会話は、最初ほとんどなかった。

足音だけが続く。

でも不思議と気まずくはない。

それが逆に、星那を落ち着かなくさせた。

__どうしてこんなに自然なんだろう。

まだ出会って数日なのに。

隣を歩く冬雪の横顔を、星那はちらりと見る。

白い肌。

夜風に揺れる黒髪。

どこか眠たそうな目。

やっぱり似ている。

八年前の“ゆき”に。

いや。

似ている、なんて言葉じゃ片付けられない。

時々、本当に同じ人にしか見えなくなる。

でも。

「……志水くん」

「ん?」

名前を呼ぶだけで少し緊張する。

まだ、“冬雪くん”とは呼べなかった。

呼んでしまったら。

本当に“ゆき”だと認めてしまう気がして。

「夢って、毎日見るの?」

冬雪は少し考える。

「最近はよく見るかも」

「怖くない?」

「全然」

そう言って空を見る。

「むしろ落ち着く」

静かな声だった。

「海の音がするんだよ。あと風」

星那は胸が熱くなる。

その夢の景色を、自分は知っている。

__八年前。

確かにそこにいた。

すると冬雪が小さく笑った。

「変だよな。会ったことない場所の夢ばっか見るの」

星那は答えられなかった。

代わりに、ぎゅっと制服の袖を握る。

__本当に覚えてないんだ。

でも。

少しずつ戻ってきている。

そんな気がした。

商店街へ入る。

閉まりかけの魚屋。

駄菓子屋の明かり。

自転車を押して帰る学生たち。

島の夜はゆっくり流れていた。

すると冬雪が、ふと立ち止まった。

「……あ」

「え?」

視線の先。

小さな猫が、段ボールの陰で丸くなっていた。

白と灰色の子猫だった。

「怪我してる」

冬雪はしゃがみ込む。

見ると、前足を少し引きずっている。

星那が近づく前に、冬雪は静かに子猫へ手を伸ばしていた。

「大丈夫」

優しい声。

驚くほど自然だった。

さっきまでぼんやりしていた人とは思えないくらい。

子猫は警戒しながらも逃げなかった。

冬雪は鞄からハンカチを取り出し、そっと足を包む。

「……志水くん、慣れてるの?」

「父親が昔よく拾ってたから」

冬雪は小さく笑う。

「放っておけないんだよな」

その横顔を見て、星那は少しだけ目を見開いた。

初めて見る表情だった。

穏やかで。

柔らかくて。

どこか寂しい。

__こういう顔するんだ。

星那は不思議な気持ちになる。

今まで見えていた“志水冬雪”は、どこか遠かった。

掴めそうで掴めない。

消えてしまいそうな人。

でも今は違う。

ちゃんと人間らしい温度があった。

「……優しいんだね」

思わずそう言うと、冬雪は少し困った顔をした。

「普通じゃない?」

「普通でも、できない人多いよ」

すると冬雪は少し黙ったあと、小さく言った。

「昔の俺も、多分そうだった」

「え?」

「なんか最近思うんだよ」

夜風が吹く。

「俺、昔はもっと冷たかった気がする」

星那は息を呑む。

「でも、この島来てから変なんだ」

冬雪は子猫の頭を撫でながら笑う。

「懐かしい感じする場所とか、人とか見ると」

その言葉に、星那の胸が強く鳴った。

「……人?」

冬雪は少しだけ星那を見る。

「うん」

その視線に、星那は慌てて目を逸らした。

鼓動が速い。

顔が熱い。

__なんで。

__そんな見方するの。

もしかして。

本当に少しずつ思い出してるの?

すると冬雪が立ち上がった。

「近くに動物病院ある?」

「あ、うん。この先に」

「じゃあ連れてく」

まっすぐな声だった。

星那は思わず笑ってしまう。

「なに?」

「……なんでもない」

でも少しだけ分かった気がした。

八年前、自分がどうして“ゆき”を放っておけなかったのか。

きっと。

こういう優しい顔をする人だったからだ。