星海に消えた約束。

__九月。

夏の熱気が少しずつ遠ざかり、
星影島にも静かな風が戻り始めていた。

祭りの日に並んでいた提灯は外され、神社の石段にも、いつもの静けさが戻っている。

あれほど賑やかだった夜が、
まるで幻だったみたいに。

昼間に鳴いていた蝉の声も、もうまばらになった。

代わりに夕暮れが近づく頃、草むらの奥から鈴虫の音が聞こえてくる。

空は高く、雲はゆっくり流れていた。

季節は確かに、夏から秋へと移り変わっていた。

__あの星祭りの夜から、数日が経っていた。

__冬雪は消えなかった。

あの時、身体が透け始めた瞬間、星那は本当に終わりだと思った。

また失うのだと。

八年前のように。

今度こそ、二度と届かない場所へ行ってしまうのだと。

けれど。

冬雪は、ここにいた。

__朝になれば学校へ行って。

__眠そうな顔で授業を受けて。

__購買のパンを買って。

__友達と笑って。

__海沿いの道を歩いて。

何事もなかったように、島で日々を過ごしていた。

ただ一つ。

星那との記憶だけを、失ったままで。

最初の数日は、苦しかった。

隣にいるのに遠い。

名前を呼ばれても、あの夜とは違う響きで。

目が合っても、その瞳の奥に、八年前の“ゆき”はいない。

__自分だけが覚えていて。

__自分だけが知っていて。

それなのに、相手は何も知らない。

それが、想像していたよりずっと苦しかった。

夜になると、何度もあの時の言葉を思い出した。

『また忘れても、きっとまたお前を見つける』

__あの約束。

__あの涙。

__あの声。

全部、星那の中にはまだ鮮明に残っていた。

でも。

不思議だった。

完全に離れてしまった気は、しなかった。

冬雪は、今でも自然に星那の隣へ来る。

廊下ですれ違えば声をかけて。

昼休みになれば、何となく近くの席にいて。

放課後になれば、気づけば同じ帰り道を歩いている。

理由なんて、
たぶん本人にもない。

ただ。

気づけば、
そうなっていた。

まるで身体が、
心より先に覚えているみたいに。

__放課後。

空は薄い茜色だった。

西へ沈みかけた夕陽が、
海の表面を金色に照らしている。

港の防波堤に座りながら、
星那は静かな海を見つめていた。

波は穏やかで。

寄せては返し、
また寄せる。

その繰り返しだけが、
静かに続いている。

潮風が髪を揺らした。

制服の袖がふわりと揺れる。

すると。

背後から、
コンクリートを踏む足音が聞こえた。

振り返らなくても、
誰か分かった。

「またここいた」

その声に、星那は少し笑った。

「冬雪くんこそ」

「探した」

「なんで?」

「なんとなく」

冬雪は肩をすくめながら、
星那の隣へ腰を下ろした。

少しだけ距離を空けて。

でも、
離れすぎない距離。

初めて再会した頃に似ていた。

隣にいるのに、
少しだけ遠い距離。

けれど今は、
その距離が心地よかった。

二人の間に沈黙が落ちる。

波の音だけが聞こえる。

遠くでは、
漁船のエンジン音が小さく響いていた。

しばらくして、
冬雪がぽつりと言った。

「俺さ」

「ん?」

「最近、同じ夢見るんだよ」

星那の胸が、
わずかに揺れた。

「……どんな夢?」

冬雪は少し考えたあと、
困ったように笑う。

「うまく説明できない」

「でも、夜の海なんだ」

星那は静かに耳を傾けた。

「真っ暗で、星だけめちゃくちゃ綺麗で」

冬雪の視線が、海の向こうへ向く。

「そこで、誰かが手を引いてくれる」

その言葉に、星那の指先がそっと震えた。

冬雪は続ける。

「顔は見えない」

「でも、その人といると安心する」

「帰る場所みたいな感じがして」

風が吹いた。

潮の香りが、
二人の間を通り抜けていく。

忘れてしまっても。

消えてしまったわけじゃない。

記憶にはなくても。

きっと。

心の奥の、もっと深い場所に残っている。

星那は、夕暮れの空を見上げた。

もう流星群はない。

あの夜のような奇跡もない。

ただ、静かな秋の空が広がっている。

それでも。

あの夜が消えたわけじゃない。

ちゃんと、ここにある。

自分の中に。

そしてきっと、冬雪の中にも。

冬雪は海を見たまま、ふと尋ねた。

「なあ」

「ん?」

「俺たちってさ」

少し照れたように笑って、
言う。

「前にも会ったことある?」

星那の呼吸が止まりそうになる。

胸が、
ぎゅっと締めつけられた。

冬雪は笑う。

「なんか変なんだよ」

「初めて会った時から、ずっと知ってる気がして」

「……変だろ」

星那は少し目を伏せた。

潮風が前髪を揺らす。

言おうと思えば、言えた。

全部。

__八年前のこと。

__“ゆき”だったこと。

__星祭りの夜のこと。

__思い出して、そしてまた忘れたこと。

全部。

けれど。

星那は、言わなかった。

代わりに、小さく笑う。

「……あるかもね」

冬雪が眉を上げる。

「何それ」

「秘密」

「ずるい」

「ふふ」

そのやり取りが、嬉しかった。

何も覚えていなくても。

またこうして、笑い合える。

失ったものはある。

戻らない時間もある。

忘れてしまった記憶もある。

けれど。

終わりじゃない。

きっと、ここからまた始められる。

空がゆっくり暗くなっていく。

群青色の空に、ひとつ、またひとつと星が灯り始める。

冬雪が、その星を見上げながら呟いた。

「……星、綺麗だな」

その言葉に、
星那は八年前を思い出した。

『星って、海へ落ちるんだね』

あの日。

幼い“ゆき”が笑いながら言った言葉。

忘れたことなんて、一度もなかった。

でも今。

隣にいるのは、思い出の中の“ゆき”だけじゃない。

記憶をなくしても。

また自分の隣へ来てくれた人。

今を生きている、冬雪だった。

星那はそっと笑う。

「……うん。本当に綺麗」

夜風が吹く。

海が揺れる。

遠くで波が砕ける。

「冬雪くん」

「ん?」

「そろそろ帰ろっか」

冬雪は立ち上がって、少し伸びをした。

「だな」

星那も立ち上がる。

防波堤から港へ戻る細い道。

二人で並んで歩き出す。

すると。

少し前を歩いていた冬雪が、不意に振り返った。

そして。

ごく自然に、呼んだ。

「……星那」

星那の足が止まる。

冬雪は少し不思議そうに振り返る。

「どうした?」

「……ううん」

胸が熱くなった。

あの夜みたいに。

やっと呼べたと、涙を流したあの声みたいに。

違うのに。

同じだった。

星那は泣きそうになるのをこらえて、笑う。

「なんでもない」

「変なの」

冬雪は笑った。

その笑顔に、星那も笑った。

星影島の空には、無数の星が静かに瞬いていた。

まるで。

遠い昔に交わした約束を、
今もずっと見守っているみたいに。

__忘れても。

__何度離れても。

__きっとまた、
出会える。

それが、
二人に起きた奇跡だった。

そしてその奇跡は、
終わりではなく。

ここから始まる、
新しい物語だった。

〜完〜