星海に消えた約束。

__風が吹いた。

夜の境内を、冷たい風がすり抜けていく。

軒先に吊るされた提灯が大きく揺れ、淡い橙色の灯りが石畳に揺らめいた。かすかなきしむ音が響き、そのたびに光と影が形を変える。

見上げた空には、無数の流星。

ひとつ、またひとつ。

絶え間なく尾を引いて夜空を流れていく。

まるで夜そのものが壊れて、星の欠片を零し続けているみたいだった。

あまりにも綺麗で。

あまりにも儚かった。

その星空の下で。

冬雪は苦しそうに呼吸を繰り返しながら、ただ真っ直ぐ星那を見つめていた。

浅く震える息。

青白い頬。

額に滲む汗。

けれど、その瞳だけは驚くほど澄んでいた。

涙で滲んだその奥に。

確かにいた。

八年前、あの夏の日に出会った少年。

“ゆき”が。

星那の喉が震える。

声が出ない。

言葉にしようとするほど、胸の奥が詰まってしまう。

冬雪の唇が、小さく震えた。

「……また会えたら__」

掠れた声。

風に攫われそうなほど弱い声なのに、不思議とその一言だけは、星那の胸の奥へ真っ直ぐ届いた。

星那は息を呑む。

冬雪は苦しそうに息をしながら、それでも何かを伝えようとするように唇を動かした。

言葉を探しているみたいだった。

長い年月の中に沈んでいた想いを、一つひとつ掬い上げるみたいに。

そして。

「……今度はちゃんと」

その瞬間。

冬雪の目から涙が零れ落ちた。

透明な雫が頬を伝い、夜の光を映しながら落ちていく。

「名前を呼ぶって」

その言葉に。

星那の中で、何かが崩れた。

胸の奥で、長いあいだ凍っていたものが音を立てて割れていく。

__八年前。

__あの日。

別れ際。

“ゆき”は、何かを言いかけていた。

けれど最後まで聞けなかった。

呼び止めた声も、伸ばした手も届かなくて。

あのまま夏が終わった。

それ以来ずっと。

星那はあの続きを知りたかった。

聞けなかった言葉の続きを。

ずっと。

ずっと。

忘れたことなんて一度もなかった。

それが今。

ようやく届いた。

星那の視界が滲んでいく。

頬を涙が伝っていた。

「……っ」

言葉にならない。

泣きたいのか。

笑いたいのか。

分からなかった。

ただ苦しいほど胸がいっぱいだった。

冬雪は震える指を伸ばし、そっと星那の手に触れた。

ひどく冷たかった。

氷みたいに。

それなのに確かに温もりがあった。

ここにいる。

本当に。

目の前に。

冬雪は泣きそうに笑った。

「ずっと……」

途切れ途切れの声。

「言えなかった」

星がまた流れる。

長い尾を引きながら、夜を裂いていく。

その光が、二人の姿を照らした。

冬雪は震える唇で言った。

「会いたかった」

たったそれだけの言葉。

けれど。

八年分の時間が、全部そこに詰まっていた。

その一言で、星那の涙が溢れた。

止まらなかった。

八年間。

ずっと会いたかった。

忘れられなかった。

夢みたいな時間だったとしても。

ほんの数日の思い出だったとしても。

それでも。

星那にとって“ゆき”は、ずっと特別だった。

誰にも代えられない、大切な夏の記憶だった。

そして今。

その人が目の前にいる。

星那は冬雪の手を強く握った。

離したくなかった。

もう二度と。

けれど。

冬雪の呼吸が急に乱れた。

「……っ」

身体がふらりと揺れる。

「冬雪くん!?」

星那は慌てて支える。

冬雪は苦しそうに頭を押さえた。

呼吸が荒い。

肩が上下する。

額から汗が落ちた。

「ぁ……」

喉の奥から苦しげな声が漏れる。

その瞳が揺れていた。

記憶が、溢れて、崩れて、零れていくように。

星那の顔から血の気が引いた。

嫌な予感が胸を貫く。

脳裏に蘇る古文書の一節。

__全てを思い出した時、
魂は再び海へ還る。

「……やだ」

震える声が漏れる。

冬雪の身体が。

淡く、透けていた。

提灯の灯りが、その向こう側に見えてしまっている。

信じられなかった。

指先が震える。

また失う。

やっと会えたのに。

やっと。

冬雪は苦しそうに笑った。

「……やっぱり」

「喋らないで……お願い……!」

星那は必死にその手を握る。

力を込める。

消えないように。

ここに繋ぎ止めるように。

冬雪はゆっくり首を振った。

「でも……怖くない」

その声は、不思議なくらい穏やかだった。

静かな海みたいに。

星那は涙を零しながら首を振る。

「なんで……」

冬雪はまっすぐ星那を見る。

優しい目だった。

「ちゃんと会えたから」

その言葉が胸に刺さる。

痛いほどに。

星那は泣きながら首を振った。

「嫌……」

涙が次々零れる。

「消えないで……お願い……」

冬雪は小さく息を吐いた。

「ごめん」

「やだ……!」

風が吹き荒れる。

境内の鈴が高く鳴る。

提灯が揺れる。

星が降る。

世界中の光が夜空から落ちてくる。

まるで。

世界の終わりみたいな夜だった。

冬雪は震える手を持ち上げた。

そっと。

星那の頬に触れる。

冷たい指先。

でも優しかった。

昔と同じだった。

八年前、あの日と。

何も変わらない。

「……泣かないで」

星那は涙を拭えないまま冬雪を見る。

冬雪は小さく笑った。

「また忘れても」

涙を流しながら。

それでも笑っていた。

「きっとまた、お前を見つける」

星那の涙が頬を伝う。

冬雪はゆっくり空を見上げた。

満天の流星群。

星の海。

そして。

静かに。

最後の言葉を紡ぐ。

「だから__」

その瞬間。

風が止んだ。

提灯の揺れも止まり。

鈴の音も消えた。

世界が息を止めたみたいな静寂。

その静けさの中で。

冬雪は涙を流しながら。

初めて。

その名前を呼んだ。

「……星那」

星那の瞳が大きく揺れる。

八年間。

止まったままだった時間が。

その一言で、ようやく動き出した。

涙が溢れる。

止められない。

胸が痛い。

苦しい。

なのに。

どうしようもなく満たされていた。

冬雪は泣きそうに笑った。

「やっと呼べた」

星那は涙で濡れた顔のまま、震える声で言う。

「……遅い」

冬雪が少し笑う。

「うん」

その笑顔が滲む。

輪郭が揺れて見える。

今にも夜へ溶けてしまいそうだった。

星那はその手を強く握りしめた。

離さないように。

忘れないように。

もう二度と。

その時。

大きな流星が夜空を横切った。

誰よりも明るく。

誰よりも長く。

まるで二人の願いを乗せるように。

星の降る夜の中で。

二人は確かに、再会していた。