星海に消えた約束。

__ついに。

__その日はやってきた。
 
__八月二十五日。

__星祭りの日。

朝の星影島は、
いつもより少しだけ浮き足立っていた。

港には屋台の材料を運ぶ軽トラックが行き交い、
商店街には色とりどりの提灯が吊るされている。

神社へ続く石段には、
朝早くから人の姿があった。

__子どもたちの笑い声。

__準備をする大人たち。

__遠くから聞こえる祭囃子の練習。

島全体が、
今夜へ向かって動いている。

けれど。

そんな賑やかな空気の中で、
星那だけはどこか落ち着かなかった。

朝から何度も空を見上げてしまう。

青い夏空。

まだ星なんて見えない。

それなのに。

今夜、
全部が変わってしまう気がしていた。

__忘れてしまうかもしれない。

__消えてしまうかもしれない。

その不安が、
朝からずっと胸の奥に沈んでいる。

「……大丈夫?」

不意に声がした。

星那が振り向く。

そこには、
紙袋を片手に立つ冬雪がいた。

白いシャツ。

少しだけ癖のある黒髪。

夏の日差しに照らされたその姿は、
驚くほどいつも通りだった。

星那は少しだけ息を詰まらせる。

「……びっくりした」

「そんな驚く?」

冬雪が苦笑する。

その笑い方も、
全部いつも通りだった。

だから余計に苦しくなる。

今日の夜。

この人は、
全部思い出すかもしれない。

そして。

全部失うかもしれない。

冬雪は星那の顔を見て、
少し困ったように笑った。

「また怖い顔してる」

「してないし」

「してる」

軽く言い返される。

そのやり取りが、
あまりにも普通で。

星那は少しだけ泣きそうになった。

冬雪は紙袋を持ち上げる。

「これ、神社に運ぶの手伝ってって頼まれた」

「……あ、私も」

「じゃあ一緒だ」

そう言って歩き出す。

星那も隣へ並んだ。

__石畳の道。

__潮風。

__蝉の声。

二人の歩幅は、
もう自然に揃っていた。

前は、隣を歩くだけで緊張していたのに。

今は、黙っていても落ち着く。

それが嬉しくて。

でも。

失うかもしれないと思うと、胸が痛かった。

__神社へ向かう途中。

商店街の駄菓子屋の前で、小さな子どもたちがはしゃいでいた。

「あ、ラムネ!」

「祭りのやつだー!」

色とりどりの瓶が並んでいる。

その光景を見た瞬間。

冬雪が足を止めた。

「……あ」

小さな声。

星那が振り向く。

冬雪はラムネ瓶を見つめていた。

その目が、どこか遠くを見るように揺れる。

「どうしたの」

冬雪は少し黙る。

そして。

「……なんか」

掠れた声で言った。

「昔も、こうやって一緒に見た気がする」

星那の胸が強く鳴る。

__八年前。

__夏祭り。

__小さな“ゆき”。

ラムネを飲みながら笑っていた男の子。

記憶が、一瞬で蘇る。

けれど。

冬雪はすぐに苦笑した。

「……まただ」

頭を軽く押さえる。

「最近ほんと変」

星那は何も言えなかった。

怖い。

思い出してほしい。

でも、思い出してほしくない。

その気持ちが、胸の中でぐちゃぐちゃになる。

すると。

冬雪がふっと笑った。

「でも」

「?」

「今は、ちゃんと隣にいるから」

その言葉に、星那は目を見開く。

冬雪はラムネ瓶から視線を外して、静かに言った。

「夢の中じゃなくて」

「ちゃんと今、一緒に祭り迎えられてる」

風が吹く。

提灯が揺れる。

星那は唇を噛んだ。

泣きそうになる。

冬雪はそんな星那を見て、少し眉を下げた。

「だから」

「今日くらい、笑っててよ」

その声が優しすぎて、胸が痛かった。

__昼。

神社の境内は、祭りの準備で慌ただしかった。

__屋台。

__灯籠。

__鈴。

赤い布。

階段を上がってくる人たちの声。

島中の人間が、
今夜を待っているみたいだった。

冬雪も手伝いをしていた。

重い荷物を運んだり、
提灯を吊るしたり。

時々頭を押さえることはあったけれど、
ここ数日の中では比較的落ち着いていた。

だからこそ。

星那は逆に不安だった。

嵐の前の静けさみたいで。

「星那ー!」

石段の下から、
希美が手を振る。

星那はそちらへ駆け寄った。

「準備終わった?」

「うん……」

希美は星那の顔を見る。

すぐに表情が少し曇った。

「……無理してない?」

「してない」

「嘘」

即答される。

星那は苦笑した。

希美は少し黙ってから、
小さく言う。

「今日なんだよね」

その言葉に、
星那の胸が重くなる。

「……うん」

__今日。

__全部が決まる。

そんな気がしていた。

希美は空を見上げる。

「流星群、夜遅くらしいよ」

「……」

「ニュースでもすごい騒いでる」

星那は何も答えられない。

希美は小さく息を吐いた。

「でもさ」

「?」

「もし忘れても」

静かな声。

「また好きになればいいじゃん」

星那が目を見開く。

希美は少し笑う。

「だってあの人、ちゃんとまたあんた見てたし」

その言葉が、
胸へ静かに落ちる。

記憶じゃなく。

“今”を見てくれていた。

それがどれほど救いだったか、
星那はもう知っている。

希美は軽く星那の肩を叩いた。

「だから今日は」

「ちゃんと隣いてあげな」

風が吹く。

祭囃子が遠く響く。

星那は小さく頷いた。

__夕方。

空が茜色へ染まり始める。

島には、
少しずつ人が集まり始めていた。

浴衣姿の子どもたち。

屋台の明かり。

賑やかな笑い声。

夏の終わりの匂い。

そして。

境内の階段下で、
冬雪が待っていた。

紺色の浴衣。

少しだけ照れたみたいな顔。

星那は一瞬、
言葉を失う。

冬雪は苦笑した。

「……そんな見る?」

「え、いや」

「変?」

「変じゃない」

むしろ。

胸が苦しくなるくらい似合っていた。

冬雪は少し笑う。

「そっちも」

星那が顔を上げる。

冬雪は少し目を細めた。

「似合ってる」

その瞬間。

星那の鼓動が大きく跳ねた。

__夏の夕暮れ。

__提灯の灯り。

__祭囃子。

その全部が、
二人を包み込んでいた。

けれど。

空の向こうでは。

もう、
最初の流星が落ち始めていた。