星海に消えた約束。

__その日の放課後。

星那は授業が終わると、急いで教室を出ようとしていた。

だが。

「島居さん」

後ろから声がする。

振り返ると、冬雪が立っていた。

夕陽が窓から差し込み、白い横顔を淡く照らしている。

「……どうしたの?」

「昨日の神社」

冬雪は少し言いづらそうに続けた。

「もう一回行ってみてもいい?」

星那の胸が小さく跳ねた。

「え?」

「なんか気になるんだよな、あそこ」

冬雪は困ったように笑う。

「変な話だけど」

星那は少しだけ迷った。

でも。

「……うん。案内する」

気づけば、そう答えていた。

二人は学校を出て、海沿いの坂道を歩いた。

夕方の星影島は静かだった。

漁港には船が並び、潮の匂いが風に混ざる。

空は薄い橙色に染まり始めている。

「いい島だね」

冬雪がぽつりと言った。

「何もないけど」

「そういうのがいい」

穏やかな声だった。

観光気分で言っているわけじゃない。

本当に、この島の空気を好きになり始めているみたいだった。

「島居さんはさ」

「ん?」

「ずっとここにいたいって思う?」

突然の質問だった。

星那は少し考える。

「……昔は、島の外に憧れてたよ」

「へぇ」

「でも最近は、この景色が好き」

夕暮れの海を見る。

「ここじゃないと駄目な気がするから」

それはきっと。

八年前の約束を、まだ待っていたからだ。

冬雪は何も言わなかった。

ただ静かに海を見ていた。

やがて二人は、星守神社へ辿り着く。

石段の下で、冬雪の足が止まった。

「……どうしたの?」

「いや」

冬雪は鳥居を見上げる。

夕暮れの中に立つ朱色の鳥居。

風に揺れる鈴の音。

その瞬間。

冬雪の表情がわずかに変わった。

苦しそうに眉を寄せる。

「志水くん?」

「……なんか」

額を押さえる。

「頭、痛い」

星那の心臓が跳ねた。

「だ、大丈夫!?」

「平気……ちょっとだけだから」

そう言いながらも、冬雪は鳥居から目を離せないでいた。

まるで。

そこに何かを見ているみたいに。

「……ここ」

小さく呟く。

「知ってる気がする」

星那は息を呑む。

冬雪はゆっくり石段へ足を乗せた。

一段。

また一段。

迷いなく上っていく。

初めて来た人間とは思えないほど自然に。

星那は後ろからその背中を見る。

__八年前。

__あの日も。

ゆきは同じように石段を上っていた。

境内へ着く頃には、空は群青色へ変わっていた。

提灯に灯りが入る。

社殿の前では、母の星里が片付けをしていた。

「あら、星那」

星里は冬雪を見る。

「お友達?」

「えっと……同級生の志水冬雪くん」

「はじめまして」

冬雪が軽く頭を下げる。

その瞬間だった。

星里の表情が、一瞬だけ固まった。

ほんのわずか。

本当に一瞬だけ。

でも星那は見逃さなかった。

「……どうかしました?」

冬雪が聞くと、星里はすぐ笑顔を作った。

「ううん。ごめんなさいね。少し知り合いに似てたから」

嘘だ。

星那には分かった。

母は何か知っている。

でも星里はそれ以上何も言わなかった。

「ゆっくりしていってね」

そう言って社務所へ戻っていく。

冬雪は境内を見回していた。

そして。

まっすぐ裏山の方を見る。

星那の鼓動が速くなる。

「……あっち」

「え?」

「行ったことある気がする」

星那は言葉を失った。

__裏山。

八年前、ゆきと出会った場所。

冬雪は無意識みたいに歩き始める。

__細い石段。

__木々の隙間。

__暗くなり始めた山道。

その全部を、迷わず進んでいく。

やがて。

小さな開けた場所へ辿り着いた。

海が見える場所。

星が一番綺麗に見える場所。

八年前と同じ景色。

風が吹く。

木々が揺れる。

その瞬間。

冬雪が突然立ち止まった。

「__っ」

苦しそうに息を呑む。

「志水くん!?」

冬雪は頭を押さえ、その場に膝をついた。

「……だれ」

震える声。

「なんで……」

星那は駆け寄る。

すると冬雪は、怯えたような目で周囲を見た。

「ここで……誰かが……笑って……」

その言葉に、星那の胸が強く締め付けられる。

思い出してる。

少しずつ。

あの日を。

すると冬雪はゆっくり顔を上げた。

そして。

泣きそうな目で、星那を見た。

「……俺」

「君に、会ったことある?」

かすれた声だった。

風が止まった気がした。

星那は言葉を失う。

心臓がうるさい。

胸の奥が熱い。

苦しいくらいに。

目の前の少年は、泣きそうな顔をしていた。

まるで、自分でも分からない何かを必死に掴もうとしているみたいに。

星那はすぐに答えられなかった。

「……っ」

喉が詰まる。

“あるよ”

その一言が、どうしても言えなかった。

もし違ったら。

もし全部、自分の思い込みだったら。

期待した分だけ、壊れてしまいそうだった。

だから星那は、震える指を握りしめながら、小さく息を飲む。

冬雪はまだ苦しそうに頭を押さえていた。

けれどその視線だけは、ずっと星那から離れない。

「……ごめん」

冬雪が目を伏せる。

「変なこと聞いた」

「ち、違っ……!」

星那は慌てて首を振った。

でも上手く言葉にならない。

胸の中にあるものが大きすぎて、自分でも整理できなかった。

夕暮れが少しずつ夜に変わっていく。

木々が揺れる。

遠くで波の音が聞こえる。

その全部が、八年前の記憶と重なっていく。

__『約束』

__『また来る?』

__『うん』

あの日の声が、何度も頭の中で響く。

星那はそっと冬雪を見る。

白い横顔。

静かな目。

少し寂しそうな表情。

全部同じだった。

違うのは、名前だけ。

“ゆき”じゃなくて、“志水冬雪”。

それだけなのに。

それだけのはずなのに。

「……島居さん?」

呼ばれて、星那ははっとする。

まただ。

また、“志水くん”を見ながら、“ゆき”を探してしまっている。

星那は小さく俯いた。

まだ呼べない。

“ゆきくん”とは。

その名前を口にした瞬間、本当に認めてしまいそうだった。

この人が、“ゆき”なんだって。

ずっと探していた人なんだって。

だから星那は、自分を落ち着かせるみたいに言う。

「……少し、休む?」

「え?」

「顔、悪いから」

冬雪は少し困ったように笑った。

「大丈夫。ちょっと頭痛しただけ」

そう言って立ち上がろうとする。

けれど少しふらついた。

星那は反射的に、その腕を掴む。

「……っ」

触れた瞬間。

冬雪の身体がわずかに震えた。

星那も息を呑む。

冷たい。

八年前と同じ。

あの日、指切りした時に触れた手と同じ温度だった。

冬雪は一瞬だけ驚いた顔をして、それから静かに星那を見る。

その目があまりにも真っ直ぐで、星那は耐えきれなくなって視線を逸らした。

「……ご、ごめん」

慌てて手を離す。

鼓動が速い。

どうしてこんなに苦しいんだろう。

どうしてこんなに嬉しいんだろう。

すると冬雪が、小さく呟いた。

「……不思議」

「え?」

「島居さんといると、落ち着く」

星那の胸が大きく揺れる。

「初めて会った感じしないんだよな」

その言葉に、泣きそうになる。

でも、まだ駄目だった。

まだ信じきれない。

期待してしまうのが怖い。

だから星那は、ぎゅっと制服の袖を掴んだ。

すると冬雪は、少しだけ笑って言った。

「……島居さんって、優しいよね」

その笑い方が。

昔と重なった。

星那の中で、“志水くん”という呼び方が少しずつ揺らぎ始める。

でもまだ。

あと少しだけ。

あと少しだけ、怖かった。

だから星那は、胸の奥に溢れそうになる想いを隠したまま、小さく笑う。

「……志水くんの方が、変だよ」

「ひどくない?」

「急に頭痛くなるし、初めての場所なのに迷わないし」

「それは……俺もよく分かんない」

冬雪は苦笑する。

その表情を見ていると、星那は少しだけ安心した。

全部を思い出したわけじゃない。

でも。

確かに何かは残っている。

記憶の奥に。

消えていない。

そう思えた。

夜風が吹く。

木々の隙間から、一番星が見え始めていた。

冬雪は空を見上げる。

「……綺麗だな」

その横顔を見ながら、星那は静かに思う。

もしかしたら。

本当に。

この人は、“ゆき”なのかもしれない。

その考えが、今までよりずっと自然に胸へ落ちてきていた。