星海に消えた約束。

__八月中旬。

夜の空には、以前よりもはっきり星が見えるようになっていた。

流星群が近づいている。

島の人たちは、それをどこか浮かれた空気で話していた。

「今年はすごいらしい」

「星祭りの日が楽しみだね」

そんな声が、商店街でも学校でも聞こえる。

けれど。

星那と冬雪にとって、その話題はもう“綺麗なもの”じゃなかった。

__祭りの日。

__全部思い出したら消える。

その言葉が、
ずっと胸の奥へ残っている。

__その日の夕方。

二人は星守神社へ来ていた。

境内には、
祭りの準備用の木箱が並んでいる。

__提灯。

__祭具。

__古い鈴。

夏の風が吹くたび、
カラン、と小さな音が鳴った。

石段を上がった先。

社務所の縁側に、星里が座っていた。

__白い巫女服姿。

夕陽を浴びた横顔は、どこか静かだった。

星那は少し緊張したまま立ち止まる。

冬雪も隣で黙っている。

二人の様子を見た星里は、すぐに何かを察したようだった。

「……来ると思ってた」

穏やかな声。

星那は唇を噛む。

そして。

「お母さん」

静かに言った。

「聞きたいことがあるの」

風が吹く。

風鈴が鳴る。

星里は少しだけ目を細めた。

「……中、入りなさい」

__社務所。

__古い畳の匂い。

開け放たれた窓から、夏の夕暮れの光が差し込んでいる。

三人は向かい合って座った。

しばらく誰も話さない。

静寂の中で、遠くの蝉の声だけが聞こえていた。

やがて。

星那が口を開く。

「……忘れない方法って、ないの」

その瞬間。

星里の目が、わずかに揺れた。

冬雪も静かに俯く。

星那は続けた。

「消えない方法でもいい」

「記憶を失わない方法でもいい」

「何かあるんでしょ?」

声が少し震えていた。

「お母さん、何か知ってるよね」

星里はすぐには答えなかった。

ただ静かに、二人を見ている。

その沈黙が、逆に答えみたいだった。

冬雪が小さく言う。

「俺、最近思い出すんです」

星里が視線を向ける。

「八年前のこと」

「海の中の感覚とか」

「祭りの音とか」

「……あと」

冬雪は少しだけ苦しそうに目を伏せた。

「この島にいた気がする」

空気が静かに張り詰める。

星里は何も言わない。

冬雪は続けた。

「でも同時に、消えそうな感覚もあるんです」

「夢の中で、向こう側に引っ張られるみたいな」

掠れた声。

「だから」

そこで一度止まる。

そして。

「忘れたくないんです」

真っ直ぐな言葉だった。

「せっかく、また会えたから」

星那の胸が痛くなる。

冬雪は少しだけ笑う。

「思い出もそうですけど」

「今の時間を」

「ちゃんと覚えていたい」

その声を聞いた瞬間。

星里の表情が、ほんの少しだけ崩れた。

悲しそうに。

懐かしそうに。

何かを諦めているみたいに。

星那は気づく。

__知ってる。

お母さんは、全部じゃなくても。

きっと大事なことを知っている。

「……お願い」

星那は言った。

「教えて」

風が吹く。

障子が揺れる。

長い沈黙のあと。

星里は静かに口を開いた。

「星守神社にはね」

低い声。

「昔から、“還る者”の話が残ってるの」

冬雪の肩が小さく揺れる。

「星祭りの日」

「境界が薄くなる夜に、一度だけ戻ってくる人たち」

「でも」

星里は目を伏せた。

「長く留まることはできない」

星那は唇を噛む。

聞きたくない。

でも、耳を塞げない。

星里は続ける。

「本来そこにいない存在は、少しずつ世界とズレていく」

「記憶が曖昧になるのも」

「身体が不安定になるのも」

「そのせい」

冬雪は黙って聞いていた。

「じゃあ」

星那の声が震える。

「本当に、消えるの……?」

その問いに。

星里はすぐ答えなかった。

代わりに、静かに冬雪を見る。

「……まだ分からない」

曖昧な返答。

でも。

それが逆に、否定できない事実みたいだった。

星那は拳を握る。

「じゃあ方法は?」

涙を堪えるような声。

「記憶を残す方法」

「忘れない方法」

「あるんでしょ……!?」

すると。

星里は少しだけ目を細めた。

そして、静かに言う。

「“楔”よ」

星那が息を呑む。

蔵で見つけた言葉だった。

星里は続ける。

「強い想いは、魂を繋ぎ止めることがある」

「約束」

「願い」

「忘れたくない記憶」

「誰かを想う気持ち」

静かな声。

「それが、存在を留める楔になる」

冬雪が小さく呟く。

「……好きって気持ちも?」

星里の目が、ほんの少し揺れた。

そして。

「なることもある」

そう答えた。

その瞬間。

部屋の空気が変わった気がした。

星那の心臓が強く鳴る。

冬雪は少しだけ目を伏せた。

まるで、その言葉を大事に受け止めるみたいに。

でも。

次の瞬間。

星里は静かに続ける。

「ただし」

空気が張り詰める。

「強く繋ぎ止めるほど、代償も大きくなる」

星那の顔が強張る。

「代償……?」

星里は少しだけ苦しそうに笑った。

「だから昔から、神社は“還る者”を無理に留めなかった」

静かな声。

「それが正しいのか、間違ってるのかは分からない」

風が吹く。

提灯が揺れる。

夕暮れが、少しずつ夜へ変わっていく。

冬雪はしばらく黙っていた。

やがて。

小さく呟く。

「……それでも」

星那と星里が見る。

冬雪は真っ直ぐ前を向いていた。

「俺、忘れたくないです」

その声は、以前よりずっと強かった。

「昔のことも」

「今のことも」

「全部」

静かな決意だった。

星那の胸が熱くなる。

すると。

星里はそんな二人を見つめながら、とても小さく笑った。

どこか。

泣きそうな顔で。

「……ほんと、似てる……」

「え?」

星那が聞き返す。

けれど星里は首を振る。

「なんでもない」

そう言って、
静かに外の空を見上げた。

その目だけが。

まるで遠い昔を見ているみたいだった。