星海に消えた約束。

__八月中旬。

夏の熱気が、
昼も夜も島へ張り付いていた。

空気は重く、
潮風さえぬるい。

それでも夜になると、
星影島の海は少しだけ静かになる。

波の音。

遠くで鳴る風鈴。

祭りの準備をする人たちの声。

島全体が、
少しずつ“その日”へ近づいていた。

__その夜。

星那と冬雪は、
港近くの防波堤へ来ていた。

海の向こうには、
ぼんやり街の灯りが見える。

二人並んで座りながら、
しばらく何も話さなかった。

最近は、
こういう時間が増えていた。

無理に話さない。

でも、
隣にいる。

それが自然になっていた。

冬雪は缶ジュースを揺らしながら、
海を見ている。

「……静かだな」

「うん」

「祭り前って、
もっと騒がしいイメージだった」

星那は少し笑う。

「昼はすごいよ」

「夜だけ静かなのか」

「島ってそういうとこあるから」

風が吹く。

髪が揺れる。

冬雪は小さく目を細めた。

最近。

頭痛はまだある。

夢も見る。

時々、
急に遠くを見るみたいな目になる。

でも。

それとは別に。

冬雪は少しずつ、
“今”を見始めていた。

星那は気づいていた。

最近の冬雪は、
昔の記憶の話をするときより。

何気ない日常の方が、
ずっと柔らかい顔をする。

たとえば。

学校帰り。

神社の掃除。

アイスを半分こした時。

くだらないことで笑った時。

そういう瞬間の方が、
冬雪は嬉しそうだった。

「……なぁ」

不意に冬雪が口を開く。

「ん?」

「俺さ」

少し迷うみたいに言葉を止める。

波の音が響く。

「前は、
思い出さなきゃって思ってた」

星那は静かに聞いていた。

「“ゆき”だった頃のこと」

「お前とのこと」

「全部」

夜風が吹く。

冬雪は海を見たまま続けた。

「でも最近、
ちょっと分かんなくなってきた」

「……分かんない?」

「うん」

冬雪は困ったように笑った。

「もちろん、
思い出したいとは思う」

「大事な記憶なんだろうし」

「でも」

そこで言葉を切る。

そして。

静かに星那を見た。

その視線に、
星那の呼吸が止まりそうになる。

「今のお前といる時間の方が、
ちゃんと残ってる気がする」

胸が強く鳴る。

冬雪は少し照れたように視線を逸らした。

「変な意味じゃなくて」

「いや……」

「なんていうか」

言葉を探すように、
ゆっくり続ける。

「昔を思い出したから、
お前が特別なんじゃない」

星那の目が揺れる。

「今、
隣にいるお前を見てると」

風が吹く。

波が防波堤へ当たる。

冬雪は小さく笑った。

「また好きになる」

その瞬間。

星那の心臓が、
強く締め付けられた。

違う。

あの頃の“ゆき”じゃない。

思い出の中の誰かじゃない。

今ここにいる冬雪が。

もう一度、
自分へ惹かれてくれている。

その事実が。

苦しいくらい嬉しかった。

星那は俯く。

顔が熱い。

何か言わなきゃいけないのに、
言葉が出てこない。

すると冬雪が少し笑った。

「……なんで黙るんだよ」

「だ、だって……」

「?」

「急にそういうこと言うから……」

冬雪はきょとんとしたあと、
少し吹き出した。

「俺、今なんか変なこと言った?」

「……言った」

「まじで?」

「まじで」

恥ずかしくて顔を見れない。

すると冬雪は、
少しだけ静かになる。

そして小さく呟いた。

「でも、本当だから」

その声は、
驚くほど真っ直ぐだった。

星那はゆっくり顔を上げる。

夜空には星が広がっている。

まだ流星群は本番じゃない。

それでも、
時々白い光が空を横切っていた。

冬雪は空を見る。

「思い出した記憶って、
なんか遠いんだよな」

「遠い?」

「うん」

少し考えるように目を細める。

「夢みたいで」

「ちゃんと俺だった気もするし、
違う気もする」

静かな声。

「でも」

冬雪は星那を見る。

「今のお前といる時間は、
ちゃんと現実なんだ」

胸が痛い。

嬉しくて。

怖くて。

泣きそうになる。

もし。

本当に消えてしまうなら。

この時間も、
全部なくなってしまうんだろうか。

そんな不安がよぎる。

けれど。

冬雪は不意に笑った。

「だから忘れたくない」

星那は目を見開く。

冬雪は続ける。

「昔の記憶だけじゃなくて」

「今のお前とのことも」

その言葉が、
胸の奥へ深く落ちていく。

星那は小さく息を飲んだ。

そして。

ゆっくり頷く。

「……うん」

震える声。

「私も」

風が吹いた。

夏の匂い。

潮の香り。

夜空の星。

二人の距離は、
ほんの少しだけ近づいていた。

けれど同時に。

祭りの日も、
確実に近づいている。

空ではまた一筋、
流星が海へ落ちていった。

まるで。

止まっていた運命が、
少しずつ動き出しているみたいに。