星海に消えた約束。

__八月初旬。

夏休みへ入ってから、島の空気は少しずつ変わり始めていた。

境内には、
夏の夜特有の湿った風が吹いていた。

昼間の熱気はまだ残っている。

けれど、
山から降りてくる風が少しだけ冷たい。

そして何より。

島中が、少しずつ“星祭り”へ向かって動き始めていた。

商店街には提灯が吊るされ始め、
神社には祭具が運び込まれる。

子どもたちは浮き足立ち、
大人たちは忙しそうに準備をしている。

__提灯。

__木箱。

__祭具。

__少しずつ。

確実に。

島全体が“星祭り”へ近づいている。

けれど。

そんな賑やかな空気とは裏腹に、
冬雪の様子は日に日に不安定になっていた。

__夢を見る頻度が増えた。

__突然、頭を押さえて黙り込む。

__時々、“今”を見ていない目をする。

最近は。

「……また、聞こえる」

そう呟くことも増えていた。

「聞こえるって?」

星那が聞いても、
冬雪は困ったように笑うだけだった。

「分かんない。鈴の音みたいな……誰か呼んでるみたいな」

そのたびに、
星那の胸は冷えていく。

祭りが近づいている。

それと同時に。

冬雪の中で、
何かが目を覚まし始めている。

__その日の夜。

星那は神社の蔵で、
一人古い記録を読んでいた。

薄暗い灯り。

埃っぽい空気。

古い紙の匂い。

何時間も頁をめくり続け、
ようやく見つけた古文書を震える手で開く。

『星祭りに関する記録』

その中の一文で、
星那の目が止まった。

『大流星の年、
境界は最も薄くなる』

鼓動が速くなる。

頁をめくる。

『魂は星を道標に海を越え、
一時、現世へ戻ることがある』

星那は息を呑んだ。

さらに続きを読む。

『ただし、戻った魂は長く留まれない』

『記憶を取り戻すほど、
本来いるべき場所へ引かれていく』

胸がざわつく。

そして。

次の文章を見た瞬間。

全身から血の気が引いた。

『全てを思い出した時、
魂は再び海へ還る』

「……っ」

頁を持つ指が震える。

呼吸が浅くなる。

もし。

もし冬雪が、
八年前“向こう側”から戻ってきた存在なら。

もし今、
記憶を取り戻し始めているなら。

__全部思い出した時。

冬雪は。

「……消える?」

その言葉が、
喉から掠れて落ちた。

その時だった。

蔵の外から、
慌てた足音が聞こえる。

「星那!!」

勢いよく扉が開く。

希美だった。

息を切らしている。

「大変!!」

「希美?」

「今ニュースでやってた!」

希美はスマホを握ったまま言う。

「来るらしいの!」

「……何が?」

希美は震える声で答えた。

「……数十年ぶりの大流星群」

その瞬間。

星那の背筋が凍った。

__大流星の年、
境界は最も薄くなる。

さっき読んだ文章が頭をよぎる。

「……いつ」

「……ちょうど星祭りの日」

空気が一気に冷たく感じた。

偶然じゃない。

そんなはずがない。

__星祭り。

__大流星群。

__冬雪の異変。

全部が、
一つへ繋がっていく。

「……冬雪くん」

小さく呟いた時だった。

蔵の外から、
鈴の音が聞こえた。

ちりん。

風鈴じゃない。

拝殿の鈴だった。

星那は顔を上げる。

嫌な予感がした。

急いで蔵を飛び出す。

夜の境内。

提灯の明かり。

蝉の声。

そして。

社殿の前に、
冬雪が立っていた。

「……っ」

星那の呼吸が止まる。

冬雪は、
まるで夢の中にいるみたいな目をしていた。

風が吹く。

白いシャツが揺れる。

その横顔は、
ひどく儚かった。

「冬雪くん!」

星那が駆け寄る。

すると冬雪が、
ゆっくり振り返った。

その目を見た瞬間、
星那は息を呑む。

今まで見たことがないほど、
不安定な瞳だった。

「……見える」

掠れた声。

「え?」

冬雪は空を見上げる。

夜空。

その向こうを見ているみたいに。

「星が……海に落ちて……」

星那の胸が強く鳴る。

「鈴の音……」

「祭りの音……」

「人の声……」

冬雪は苦しそうに頭を押さえた。

「冬雪くん!?」

呼吸が乱れている。

顔色が真っ白だった。

「……なんで」

震える声。

「なんで俺、あの時……」

そこで言葉が止まる。

次の瞬間。

冬雪の瞳から涙が零れた。

「……一人だったんだ」

星那は息を呑む。

思い出してる。

少しずつ。

断片的に。

八年前の夜を。

冬雪は苦しそうに目を閉じる。

「海が冷たくて……」

「暗くて……」

「でも」

その声が震える。

「誰かが、手を引いてくれた」

星那の胸が熱くなる。

冬雪はゆっくり星那を見る。

その瞳は、
迷子みたいだった。

「……俺」

掠れた声。

「本当に、“ゆき”なのか」

星那は震えながら頷く。

「……うん」

その瞬間。

冬雪の表情が崩れた。

泣きそうに。

苦しそうに。

でも、
どこか嬉しそうに。

全部混ざった顔だった。

「……会いたかった」

その言葉だけで、
星那の胸がいっぱいになる。

八年間。

ずっと待っていた。

忘れられていたと思っていた。

でも違った。

冬雪も。

夢の中で、
ずっと探していた。

星那は唇を噛み、
震える声で続ける。

「……調べたの」

冬雪が静かに星那を見る。

「八年前、冬雪くん……海の事故に遭ってた」

冬雪の目が揺れる。

「三日間、意識不明だったんだって」

夜風が吹く。

提灯が揺れる。

「その時期が……私が“ゆきくん”に会った時期と同じだった」

静寂。

冬雪は何も言わない。

ただ、
呼吸だけが少しずつ浅くなっていく。

「それだけじゃないの」

星那は続けた。

「意識不明の間、“星影島”って何度も呼んでたんだって」

冬雪の肩が小さく震える。

「でも冬雪くん、この島来たことなかった」

「家族も、島のこと知らなかった」

風が強くなる。

「それで……」

星那は喉を震わせる。

「星守神社には言い伝えがあるの」

冬雪がゆっくり顔を上げた。

「“星が最も近づく夜、魂は海を越える”」

その瞬間。

冬雪の呼吸が止まったみたいに静かになる。

星那は続けた。

「だから多分……」

怖かった。

言葉にするのが。

でも。

もう逃げたくなかった。

「八年前、私が会った“ゆきくん”は」

胸が苦しい。

涙が滲む。

それでも星那は、
ちゃんと言った。

「事故で眠ったままの冬雪くんの、“意識”だけがこの島へ来てたんだと思う」

風が吹く。

境内の木々が揺れる。

冬雪は目を見開いたまま動かなかった。

まるで、
閉じ込められていた何かが、
少しずつ形になっていくみたいに。

「……意識」

小さな声。

「じゃあ俺……」

「本当に、ここにいたのか」

星那は頷く。

「うん」

その瞬間。

冬雪の瞳が大きく揺れた。

「……石段」

冬雪が呟く。

「鈴の音……」

「祭りの灯り……」

「笑ってる女の子……」

星那の目が大きくなる。

冬雪は苦しそうに頭を押さえた。

「……っ」

「無理しないで!」

星那が支える。

すると冬雪が、
震える声で言った。

「……思い出したい」

その声が、
あまりにも切なかった。

「忘れたくない」

星那の胸が締め付けられる。

でも。

古文書の言葉が、
頭から離れない。

__記憶を取り戻すほど、
本来いるべき場所へ引かれていく。

__全てを思い出した時、
魂は再び海へ還る。

星那は唇を噛み、
震える声で言った。

「……でも」

冬雪が星那を見る。

「神社の記録に、書いてあったの」

「え?」

「魂が現世に留まるには、“代償”が必要だって」

冬雪の表情が強張る。

「……代償?」

星那は頷いた。

「“関わった記憶が消える”って」

風が吹く。

空を一筋の流星が横切った。

「つまり……」

星那の声が震える。

「冬雪くんは、生きる代わりに」

涙が滲む。

「私との記憶を失ったのかもしれない」

静寂。

鈴の音だけが、
夜の境内に響いていた。

冬雪はしばらく黙っていた。

やがて。

苦しそうに笑う。

「……だからか」

「え?」

「ずっと夢で探してた」

掠れた声。

「会いたかったのに」

「顔も名前も思い出せなくて」

星那の胸が熱くなる。

冬雪は静かに星那を見る。

「……でも」

低い声。

「全部思い出したら、駄目な気がする」

星那の呼吸が止まる。

「本当に……消えちゃうの?」

震える声だった。

聞きたくなかった。

でも、
聞かずにはいられなかった。

冬雪はすぐには答えない。

ただ、
空を見上げる。

夜空。

その向こうに、
何かを見ているみたいに。

「……分からない」

小さな声。

「でも最近、“帰れ”って聞こえる」

星那の指先が冷たくなる。

「あと……」

冬雪は目を閉じた。

「少しだけ、昔のこと思い出した」

「……え?」

星那は息を呑む。

冬雪はゆっくり言葉を探す。

「海の中」

「すごく寒くて」

「暗かった」

呼吸が浅い。

「でも」

そこで冬雪の表情が揺れた。

「誰かが、“大丈夫”って言ってくれた」

星那の目が大きくなる。

それは。

八年前。

確かに自分が言った言葉だった。

「あと……」

冬雪の声が震える。

「俺、帰りたくなかった」

星那は息を止める。

冬雪は泣きそうな顔をした。

「初めて、“ここにいていい”って思えたから」

その瞬間。

星那の中で、
八年前の記憶が溢れそうになる。

__石段。

__星の海。

__指切り。

__最後の“ありがとう”。

全部。

ちゃんと、
冬雪の中にも残っていた。

でも。

その代わりに。

冬雪は、
また“向こう側”へ引かれ始めている。

星那は怖くなって、
思わず冬雪の服を掴んだ。

「また……」

声が震える。

「また記憶、なくなったりしないよね」

冬雪の目が揺れる。

「私のこと、忘れたりしないよね」

涙が滲む。

怖かった。

やっと会えたのに。

また失うなんて。

耐えられない。

すると冬雪は、
少し驚いた顔をした。

それから。

とても静かな顔で笑う。

「……忘れたくない」

掠れた声。

「今度は」

「ちゃんと覚えてたい」

その言葉に、
星那の胸がいっぱいになる。

けれど次の瞬間。

冬雪の表情が苦しそうに歪んだ。

「……っ」

「冬雪くん!?」

頭を押さえる。

呼吸が乱れる。

そして。

空を見上げたまま、
震える声で呟いた。

「……来る」

その瞬間だった。

夜空を、
無数の光が横切った。

一つ。

二つ。

十。

数え切れないほどの流星。

まだ始まりに過ぎない。

それなのに。

空が崩れるみたいに、
星が降っていた。

冬雪はその光景を見つめたまま、
小さく呟く。

「……思い出す」

「全部」

星那の背筋が凍る。

祭りまで、あと一ヶ月。

大流星群は、
確実に近づいていた。

そして。

冬雪の中で止まっていた“八年前の夜”は、
もう戻れないほど、
目を覚まし始めていた。