星海に消えた約束。

__八月初旬。

夜の神社には、
昼間とは違う静けさがあった。

石段の脇で風鈴が揺れる。

遠くで波の音が聞こえていた。

境内に吊るされた提灯だけが、
ぼんやりと橙色の光を落としている。

星那は縁側へ座りながら、
静かに夜空を見上げていた。

その隣には冬雪がいる。

ここ数日。

冬雪の様子は少しだけ落ち着いていた。

けれど、
それが“良くなった”わけではないことを、
星那は分かっていた。

嵐の前みたいな静けさ。

そんな空気だった。

冬雪は膝を立てたまま、
ぼんやり空を見ている。

「……今日、星多いな」

小さな声。

星那は頷いた。

「流星群、近づいてるからかも」

「そっか」

静かな返事。

風が吹く。

木々が揺れ、
鈴の音が小さく鳴った。

その音に、
冬雪が少しだけ目を細める。

最近、
こうして神社へ来ることが増えていた。

理由は分からない。

でも冬雪は、
ここに来ると少し落ち着くらしかった。

「……なぁ」

不意に冬雪が呟く。

「俺さ」

星那は隣を見る。

冬雪は夜空を見たまま続けた。

「忘れたくない」

その言葉に、
胸が少し締め付けられる。

「……うん」

「最近、思い出すんだ」

掠れた声。

「海とか」

「祭りの音とか」

「お前と話してたこととか」

星那の呼吸が止まりそうになる。

でも。

冬雪は苦しそうに笑った。

「なのに同時に、
消えていく気がする」

風が吹く。

提灯の火が揺れた。

「夢の中でさ」

冬雪は小さく言う。

「“全部戻ったら終わる”って声がするんだ」

星那は唇を噛む。

聞きたくなかった。

でも、
もう目を逸らせない。

冬雪は続ける。

「だから」

少しだけ震える声。

「覚えてたいんだ」

その瞬間。

星那の胸の奥で、
何かが決壊しそうになった。

八年前。

突然消えた“ゆき”。

やっと再会できたのに。

また失うなんて。

そんなの嫌だった。

星那は強く拳を握る。

「……探そう」

冬雪が少し目を見開く。

「え?」

「忘れない方法」

声が震えていた。

でも、
ちゃんと言いたかった。

「絶対あるから」

冬雪は黙って星那を見る。

「記憶が消えない方法」

「消えないで済む方法」

「絶対探す」

冬雪の瞳が揺れる。

まるで、
そんなこと言われると思っていなかったみたいに。

「……無理かもしれないぞ」

弱い声。

星那は首を振った。

「それでも探す」

即答だった。

冬雪が少しだけ息を呑む。

「だって」

星那は俯く。

「やっと会えたのに」

声が滲む。

「また忘れるなんて嫌だから」

風が吹き抜ける。

夏なのに、
少しだけ冷たかった。

冬雪はしばらく黙っていた。

やがて、
小さく笑う。

泣きそうな顔で。

「……ありがと」

その声が、
妙に優しくて。

星那は胸が痛くなった。

__翌日。

二人は神社の蔵へ来ていた。

古い記録。

祭りの資料。

星守神社に残された言い伝え。

片っ端から調べるためだった。

埃っぽい空気。

古い紙の匂い。

窓から差し込む夏の光。

冬雪は古い冊子をめくりながら言う。

「こんな量あるのか……」

「星守神社、昔から色々残してるから」

星那は脚立へ乗り、
高い棚から木箱を下ろす。

すると冬雪が慌てて支えた。

「危ない」

「だ、大丈夫」

「落ちそうだったけど」

「……見ないで」

少し恥ずかしくなる。

冬雪は小さく笑った。

そんな、
いつもの空気。

なのに。

時間だけが、
少しずつ迫っている。

星那は木箱を開ける。

中には古い巻物や手記が入っていた。

「……これ」

一冊の和綴じ本。

表紙には薄く文字が残っている。

『帰星録』

聞いたことのない名前だった。

星那はゆっくり開く。

そこには、
古い筆文字が並んでいた。

『星降る夜、
魂は海を渡る』

『未練強き者ほど、
現世へ引かれる』

『しかし長く留まれば、
存在は不安定になる』

冬雪が静かに読む。

空気が重くなる。

星那は頁をめくった。

すると。

ある一文で指が止まった。

『記憶を繋ぎ留めるには、
“想い”を形へ残さねばならぬ』

「……想いを形?」

星那が呟く。

冬雪も覗き込む。

『名を呼ぶ声』

『約束』

『願い』

『失いたくない記憶』

『それらは魂を現世へ留める楔となる』

静寂。

二人は顔を見合わせた。

「……楔」

冬雪が小さく呟く。

「つまり」

星那は本を見つめる。

「記憶を繋いでおける可能性があるってこと……?」

完全には分からない。

ただ。

今まで初めて、
“消えない方法”に近い言葉だった。

冬雪は少しだけ表情を和らげる。

「希望、あるかもな」

その言葉に、
星那の胸が少し熱くなる。

けれど。

次の頁を見た瞬間。

空気が変わった。

『ただし』

その文字だけ、
やけに濃かった。

『強く繋ぎ留めれば、
代わりに別のものを失う』

星那の指先が止まる。

冬雪も黙った。

その先は、
墨が滲んで読めなくなっていた。

風が吹く。

窓が小さく鳴る。

嫌な沈黙だった。

すると冬雪が、
ふっと笑う。

「ほんと、
この島の伝承って曖昧だな」

冗談っぽく言った。

でも。

その横顔は少しだけ強張っていた。

星那は気づいていた。

冬雪も、
怖がっている。

消えることを。

忘れることを。

それでも。

「……探そう」

星那はもう一度言う。

冬雪が見る。

「今度こそ、
なくさない方法」

真っ直ぐに。

逃げないように。

冬雪はしばらく黙ったあと、
小さく笑った。

「……うん」

その返事は、
とても静かだった。

でも。

確かにそこには、
“今”を失いたくない気持ちがあった。

蔵の外では、
夏の夜風が木々を揺らしていた。

祭りまで、あと三週間。

そして空では、
少しずつ。

星が近づき始めていた。