星海に消えた約束。

__夜は静かだった。

星那は一人、神社の石段へ座っていた。

境内には誰もいない。

風鈴が、時々小さく鳴るだけ。

空には、薄く星が見え始めていた。

祭りまで、あと一ヶ月。

近づくほどに、
冬雪の様子は少しずつ変わっていく。

__夢を見る頻度。

__頭痛。

時々見せる、“別の誰か”みたいな表情。

そして。

__“ゆき”の記憶。

星那は膝を抱える。

頭の中がぐちゃぐちゃだった。

嬉しい。

でも怖い。

もし全部思い出したら、
冬雪はどうなるのか。

もしまた消えてしまったら。

そんな不安ばかりが膨らんでいく。

すると後ろで足音がした。

振り返る。

星里だった。

「……まだ起きてたのね」

「うん」

星那は小さく頷く。

星里は隣へ座った。

しばらく二人は黙ったまま夜空を見上げる。

波の音だけが遠く響いていた。

やがて。

星那がぽつりと聞く。

「……なんでなんだろう」

「?」

「どうして冬雪くん、私のこと覚えてないのかな」

声が少し震えていた。

「夢は覚えてるのに」

「星の海も」

「神社も」

「私といた時間だけ、全部なくなってる」

胸が痛かった。

__八年間。

__忘れられなかった。

__ずっと探していた。

なのに。

冬雪の中には、自分だけが残っていない。

それが時々、
どうしようもなく寂しくなる。

すると星里が静かに目を伏せた。

その表情を見た瞬間。

星那の胸がざわつく。

__まただ。

母は何か知っている。

でも、
ずっと言えずにいる。

「……お母さん?」

星里はすぐには答えなかった。

夜風が吹く。

木々が揺れる。

そして。

小さく息を吐いた。

「これもね」

「昔からある言い伝えなんだけど」

静かな声。

星那は黙って聞く。

星里は遠くの海を見つめていた。

「“星祭りの夜、魂が現世へ留まる時、最も大切な記憶を代償として失う”」

その瞬間。

星那の呼吸が止まった。

「……え」

星里は続ける。

「昔から、“向こう側”へ行きかけた人間が戻る時には、“繋がり”を失うと言われていたの」

風が吹く。

冷たい風だった。

「魂は、本来いるべき場所へ戻ろうとする」

「でも、それを無理に現世へ留めると、“結びつき”が切れてしまう」

星那は言葉を失う。

胸が嫌な音を立てる。

「それって……」

喉が震える。

「まさか……」

星里はゆっくり頷いた。

「冬雪くんは、生きる代わりに失ったのかもしれない」

静かな声。

残酷なくらい静かな声だった。

「あなたとの記憶を」

世界が、一瞬止まった気がした。

風鈴が鳴る。

遠く。

波の音。

全部が急に遠くなる。

星那は動けなかった。

頭の中で、
何度も言葉が繰り返される。

__生きる代わりに。

__記憶を失った。

「……うそ」

小さな声が漏れる。

そんなの。

そんなのって。

星那はぎゅっと拳を握る。

爪が食い込む。

「じゃあ……」

目の奥が熱くなる。

「私のこと忘れたのって」

「私のせい、だったの……?」

その声は、
泣きそうなくらい弱かった。

すると星里がすぐ首を振る。

「違う」

はっきりと言った。

「星那のせいじゃない」

「でも……!」

「あなたがいたから、あの子は戻ってこられたの」

星里は静かに星那を見る。

「もし誰とも繋がれなかったら、あの子は戻れなかったかもしれない」

星那の目が揺れる。

「だからこれは、“失った”だけじゃないの」

優しい声。

「冬雪くんは、あなたと出会ったから生きられた」

その言葉が胸へ刺さる。

嬉しいのに。

苦しい。

涙が溢れそうになる。

だって。

冬雪は。

忘れたくて忘れたわけじゃない。

生きるために。

失うしかなかった。

八年前。

あの夜。

“ありがとう”と笑った少年は。

きっと。

消えてしまうことを、
どこかで分かっていた。

だからあんなに寂しそうだったんだ。

星那は唇を噛んだ。

涙が零れる。

ぽたり、と膝へ落ちた。

「……ひどいよ」

掠れた声。

「やっと会えたのに」

「また忘れちゃうなんて、ひどい……」

星里は何も言わなかった。

ただ静かに、
星那の背中へ手を置く。

夜風が吹く。

空には星が増えていた。

まるで、
海へ落ちていくみたいに。

すると星里が、小さく呟く。

「でもね」

星那は涙を拭いながら顔を上げる。

星里は、少しだけ微笑んでいた。

「本当に消えた記憶なら」

静かな声。

「あの子は、またここへ来たりしない」

星那の目が揺れる。

「夢も見ない」

「“会いたかった”なんて言わない」

風が吹く。

鈴が鳴る。

「記憶は失っても、想いまでは消えなかったのよ」

その言葉に。

星那の胸が強く締め付けられた。

冬雪は覚えていない。

でも。

夢の中で、
ずっと探していた。

星の海を。

鈴の音を。

そして。

名前も知らない、
“誰か”を。

星那はゆっくり空を見上げた。

夜空に星が広がっている。

八年前と同じ。

あの日と同じ星空。

祭りまで、あと一ヶ月。

近づくほどに。

止まっていた運命が、
静かに動き始めていた。