星海に消えた約束。

__夕暮れ。

部屋の中は薄暗くなっていた。

机の上に広げられた新聞記事。

古い資料。

黄ばんだ紙。

その全部が、八年前へ繋がっている気がした。

星那は座ったまま動けなかった。

胸の奥がざわついている。

怖い。

でも、知りたかった。

冬雪に何が起きたのか。

“ゆき”は何だったのか。

星里は静かに窓の外を見ていた。

遠くで蝉が鳴いている。

夕焼けが、海を赤く染め始めていた。

「……お母さん」

震える声で、星那が聞く。

「冬雪くん、本当に事故のあと……島のこと話してたの?」

星里は少し黙った。

それから、ゆっくり頷く。

「ええ」

その答えに、星那の胸が強く跳ねる。

「事故のあと、あの子は三日間眠ったままだった」

静かな声。

「病院でも、いつ目を覚ますか分からない状態だったそうよ」

風が吹く。

カーテンが揺れた。

「でも、その間」

星里は少しだけ目を伏せる。

「寝言みたいに、何度も同じ言葉を繰り返していたらしいの」

星那は息を呑む。

「……なんて?」

星里はゆっくり口を開く。

「“星影島”」

その瞬間。

星那の背筋が震えた。

部屋の空気が、一気に冷えた気がした。

「っ……」

声にならない。

星里は続ける。

「何度も。何度も」

窓の外を見る。

まるで昔を思い出しているみたいに。

「“星影島へ行かなきゃ”って」

星那は目を見開いた。

「でも……」

掠れた声。

「冬雪くん、その時まだ島に来たことなかったんだよね……?」

「ええ」

星里は頷く。

「家族も、この島の存在自体知らなかったそうよ」

「じゃあ、なんで……」

答えは出ない。

普通ならありえない。

来たこともない島の名前を、
意識不明の子どもが呼び続けるなんて。

星那はぎゅっと拳を握る。

脳裏に浮かぶ。

八年前の夜。

裏山。

石段。

星空。

“ゆき”。

__『星が近いね』

__『星の海』

あの声。

あの時間。

全部、本当に存在していた。

夢なんかじゃなく。

すると星里が静かに言った。

「ねえ、星那」

「……なに」

「あなた、昔聞いたことあるでしょう」

星那は顔を上げる。

星里は窓の外の海を見ていた。

「星守神社の言い伝え」

その言葉に、星那の胸が小さく揺れる。

幼い頃。

確かに聞いたことがあった。

祭りの夜になると、
祖母たちが時々話していた昔話。

子どもの頃は、怖い話みたいに思っていた。

「……“星が最も近づく夜、魂は海を越える”」

自然と口から出る。

星里は静かに頷いた。

「昔から、この島では言われていたの」

風が吹く。

遠くで鈴の音が鳴った気がした。

「星祭りの夜だけ、“境界”が曖昧になるって」

「境界……?」

「生と死」

星那の呼吸が止まりそうになる。

星里は静かな声で続けた。

「海と空が繋がるように、この世と向こう側も近づく」

夕陽が、星里の横顔を赤く照らしていた。

「だから昔の人は、星祭りの夜に海へ近づきすぎるなって言っていたの」

星那は言葉を失う。

頭の中で、
点だったものが少しずつ繋がっていく。

__事故。

__意識不明。

__星影島。

__星祭り。

__“ゆき”。

「……じゃあ」

喉が震える。

「ゆきくんは……」

星里はすぐには答えなかった。

数秒の沈黙。

その沈黙が、何より怖かった。

やがて星里は、小さく言う。

「私はね」

静かな声。

「八年前、あなたが連れてきたあの子を見た時……生きてる感じがしなかったの」

星那の心臓が大きく鳴る。

「え……」

「もちろん、ちゃんと姿はあった」

星里は続ける。

「話もしていたし、笑っていた」

でも。

そこで言葉を止める。

「……“存在の仕方”が普通じゃなかった」

風鈴が鳴る。

遠く。

どこかで。

「まるで、ここにいるのに、どこか別の場所にもいるみたいだった」

星那の指先が震えた。

思い出す。

あの日。

最後に指切りした時。

強い風が吹いた。

その瞬間。

ゆきの姿が、一瞬だけ薄くなった。

まるで。

消えかけているみたいに。

「あの子、多分」

星里の声が少し掠れる。

「死にかけていたのよ」

その言葉が、
静かに胸へ落ちる。

「身体は病院にあって」

「でも意識だけが、“星の海”へ流れ着いた」

星那は息を呑む。

涙が出そうになる。

だって。

それじゃあ。

あの夜、自分が出会った“ゆき”は。

__ひとりぼっちだった。

暗い海の向こうで。

どこへ行けばいいかも分からず。

消えかけながら。

たった一人で。

だから。

あんなに寂しそうだったんだ。

だから。

“ありがとう”って、
あんな顔で笑ったんだ。

星那は唇を噛んだ。

胸が痛い。

苦しい。

涙が零れそうになる。

「……なんで」

小さな声。

「なんで、私だったのかな」

星里は静かに星那を見る。

「分からない」

「……」

「でも、きっと」

その声は優しかった。

「あなたが、あの子を繋ぎ止めたのよ」

星那の目が揺れる。

「星那がいたから、あの子は戻ってこられた」

風が吹く。

窓の外。

夕暮れの海が光っている。

「約束したんでしょう?」

__『また来る?』

__『うん』

星那の胸が締め付けられる。

八年間。

ずっと待っていた。

でも。

待っていたのは、自分だけじゃなかったのかもしれない。

冬雪も。

夢の中で。

ずっと帰ろうとしていた。

星那のいる場所へ。

すると星里が、少しだけ険しい顔になる。

「でもね」

その声音に、星那は顔を上げた。

「本当に怖いのは、ここからなの」

「……え?」

星里は静かに目を伏せる。

「星祭りが近づくほど、“向こう側”との境界は薄くなる」

その言葉に、背筋が冷える。

「今のあの子は、記憶を思い出しかけている」

「……」

「でも、それは同時に」

そこで言葉が止まる。

まるで。

口にしたくないみたいに。

星那は不安に駆られて聞く。

「同時に……何?」

静寂。

蝉の声。

遠い波音。

そして。

星里はゆっくり口を開いた。

「……あの子が、“どちら側の存在なのか”を思い出し始めてるのかもしれない」

その瞬間。

星那の全身から血の気が引いた。

祭りまで、あと一ヶ月。

近づくほどに。

冬雪の中で、
止まっていた“八年前の夜”が、
確実に目を覚まし始めていた。