星海に消えた約束。

夕暮れの境内へ飛び出した瞬間。

生ぬるい風が星那の頬を打った。

提灯の灯りが揺れている。

__蝉の声。

__遠くの波音。

その中で。

石段の途中に、冬雪が座り込んでいた。

「冬雪くん!」

駆け寄る。

冬雪は片手で口元を押さえ、苦しそうに呼吸を整えていた。

白い肌が、
夕陽の赤の中でも分かるくらい青白い。

「大丈夫!?」

星那が肩へ触れる。

冬雪はゆっくり顔を上げた。

「……ごめん」

声が掠れている。

「急に……息、苦しくなって」

額に汗が滲んでいた。

呼吸も少し浅い。

星那の胸が強く締め付けられる。

「無理しないで」

「平気」

「平気じゃないでしょ」

思ったより強い声が出た。

冬雪は少し驚いた顔をする。

星那は唇を噛んだ。

怖かった。

さっき母に言われた言葉が、
頭の中で何度も響いている。

__『絶対、あの子から目を離しちゃ駄目』

どうしてそんなこと言ったの。

何が起きるっていうの。

冬雪は石段へ視線を落としたまま、小さく息を吐いた。

「……最近、変なんだ」

「……」

「急に息できなくなったり」

苦しそうに眉を寄せる。

「音が聞こえたり」

風が吹く。

鈴が鳴る。

その瞬間。

冬雪の肩がまたびくっと震えた。

星那は反射的にその手を握る。

冷たい。

夏なのに。

氷みたいに冷たかった。

「っ……」

冬雪が小さく目を見開く。

星那はそのまま手を離さなかった。

「……一人で我慢しないで」

震える声。

「苦しかったら言って」

冬雪はしばらく黙っていた。

境内には風鈴の音だけが響く。

やがて。

「……怖いんだ」

小さな声が落ちた。

星那は息を止める。

冬雪は俯いたまま続けた。

「思い出しそうになるたび」

掠れた声。

「自分が、自分じゃなくなる感じする」

その言葉に、
星那の胸が痛くなる。

「夢も、記憶も、ごちゃごちゃで」

冬雪は苦しそうに笑った。

「どこまでが本当なのか分かんない」

夕陽が沈み始める。

境内が少しずつ藍色へ変わっていく。

「……でも」

冬雪が静かに言った。

「ここに来ると、思い出したいって思うんだ」

星那は何も言えなかった。

怖いのに。

苦しいのに。

それでも冬雪は、
記憶へ手を伸ばしている。

まるで、
忘れてはいけない約束があるみたいに。

その時だった。

風が強く吹いた。

境内の提灯が揺れる。

鈴が一斉に鳴った。

そして。

冬雪の表情が、突然凍りつく。

「__っ」

「冬雪くん!?」

冬雪は立ち上がる。

けれどその目は、
星那ではなく社殿の奥を見ていた。

暗くなり始めた裏山。

その先。

八年前、
二人が出会った場所。

「……聞こえる」

冬雪が呟く。

星那の背筋が冷える。

「え……?」

「誰か、呼んでる」

その声は、
夢を見ている人みたいだった。

冬雪はふらりと歩き出す。

裏山の方へ。

「待って!」

星那は慌てて腕を掴む。

その瞬間。

冬雪の身体が、
ほんの一瞬だけ透けた。

__夕陽の中へ溶けるみたいに。

星那の呼吸が止まる。

「……え」

次の瞬間には戻っていた。

でも。

見間違いじゃなかった。

冬雪自身も気づいたのか、
ゆっくり自分の手を見る。

そして。

泣きそうな顔で、小さく呟いた。

「……俺、なんなんだろう」