星海に消えた約束。

__翌日。

星那は朝から落ち着かなかった。

制服に袖を通している時から、ずっと胸の奥がざわついている。

鏡の前で髪を整えても、何度も前髪を触ってしまう。

朝ごはんの味もよく分からなかった。

「星那? 大丈夫?」

母に聞かれて、慌てて頷く。

「う、うん」

でも本当は全然大丈夫じゃなかった。

昨日、神社で会った少年。

“ゆき”にそっくりだった人。

もし今日、また会ったら。

もし本当に同じ学校だったら。

そんなことあるわけないと思うのに、心のどこかで期待してしまっている。

期待して、違った時が怖かった。

だから星那は、自分に何度も言い聞かせていた。

__似てるだけ。

__ただの偶然。

__あの子じゃない。

そう思わないと、胸が苦しくなった。

学校へ向かう坂道でも、落ち着かなかった。

海沿いを歩きながら、何度も昨日のことを思い出してしまう。

__提灯の灯り。

静かな目。

『俺、この島に来たの初めてだから』

あの言葉。

忘れているだけなのか。

本当に別人なのか。

考えれば考えるほど分からなくなる。

教室へ入っても、星那はずっと窓の外ばかり見ていた。

潮風でカーテンが揺れる。

クラスメイトたちの声が遠い。

教科書を開いても、文字が頭に入らない。

シャーペンを持つ指に、じんわり汗が滲む。

そして。

「__今日から転校生を紹介する」

担任の声。

その瞬間、心臓が大きく跳ねた。

教室がざわつく。

星那は無意識に、扉の方を見ていた。

「東京から来ました。志水冬雪です」

静かな声。

その声を聞いた瞬間、星那の呼吸が止まる。

教室の扉の前に立っていたのは、昨日の少年だった。

__白い肌。

__眠たそうな目。

__儚げな空気。

やっぱり似ていた。

いや、似ているなんて言葉じゃ足りなかった。

八年前の“ゆき”が、そのまま大きくなったみたいだった。

星那の喉が乾く。

胸の奥が苦しい。

頭では違う人かもしれないと思っているのに、心が勝手に期待してしまう。

「よろしく」

短い挨拶。

女子たちが小さく騒ぎ始める。

「え、かっこよくない?」

「なんか雰囲気すごい」

「東京の人って感じ」

そんな声が聞こえる。

でも星那には何も入ってこなかった。

冬雪が歩く。

ゆっくりと。

そして。

__星那の隣の席で足を止めた。

椅子を引く音。

近い。

近すぎる。

星那は思わず姿勢を固くした。

すると冬雪が、小さく言った。

「……昨日の神社の人だよね」

「あ……う、うん」

声が少し裏返る。

自分でも分かるくらい緊張していた。

「びっくりした。同じクラスだったんだ」

自然な笑み。

演技しているようには見えない。

だから余計に、星那は混乱した。

本当に覚えていないんだ。

もし“ゆき”なら、どうして。

もし別人なら、なんでこんなに。

星那は視線を落としたまま、小さく聞く。

「……志水くんは」

“冬雪くん”とは呼べなかった。

まだ怖かった。

期待してしまうのが。

「どうして、この島に来たの?」

そう聞くと、冬雪は少しだけ目を伏せた。

「父親の仕事の都合」

「仕事?」

「しばらくこっちの病院にいるらしくて。俺もついてきた」

病院。

その言葉が少し引っかかる。

「志水くん、体悪いの?」

「いや。俺じゃなくて父親」

そう言って、冬雪は窓の外を見る。

青い海。

静かな波。

その横顔を見ていると、星那の胸がまたざわつく。

懐かしい。

なのに遠い。

「……でも」

冬雪がぽつりと呟く。

「なんか変なんだよな、この島」

「変?」

「初めて来たはずなのに、知ってる感じがする」

星那の肩が小さく揺れた。

「神社までの道も、なんとなく分かったし」

昨日の姿を思い出す。

迷わず細い坂道を歩いていた。

島の人しか使わないような道を。

「あと、昨日」

「……昨日?」

「神社で鈴の音聞いた時、懐かしいって思った」

冬雪は不思議そうに笑った。

「変だよな。来たことないのに」

星那は答えられなかった。

胸が熱い。

期待したくないのに、期待してしまう。

でもまだ、“冬雪くん”とは呼べなかった。

その名前を口にすると、本当に“ゆき”だと認めてしまいそうで怖かった。

だから星那は、自分の中で線を引くみたいに、“志水くん”と呼び続けた。

__昼休み。

星那は逃げるように屋上へ向かった。

潮風が強い。

金網の向こうに広がる海は、昼でも綺麗だった。

「はぁ……」

深く息を吐く。

頭の中がぐちゃぐちゃだった。

__嬉しい。

__怖い。

__懐かしい。

__苦しい。

全部が混ざっている。

もし本当に“ゆき”なら。

どうして忘れたのか。

どうしていなくなったのか。

そして、また消えてしまうんじゃないか。

そんな不安まで湧いてくる。

すると。

屋上の扉が開く音がした。

振り返ると、冬雪が立っていた。

「あ、いた」

「……え?」

「教室うるさくて。逃げてきた」

その言葉に、星那の胸が強く揺れる。

『……君も、逃げてきたの?』

八年前の声。

同じだった。

あまりにも。

星那は思わず小さく笑ってしまう。

「なに?」

「……なんでもない」

冬雪は星那の隣に立って海を見る。

沈黙。

でも嫌じゃない。

その感覚まで、あの日と同じだった。

「島居さんってさ」

「え?」

「昔からこの島に住んでるの?」

「うん。ずっと」

「そっか」

冬雪は目を細めた。

「いいな。こういう場所」

「東京は嫌だった?」

「嫌っていうか……息苦しかった」

少し寂しそうな声。

「人多いし、うるさいし。ずっと何かに追われてる感じで」

そして空を見る。

青い空。

流れる雲。

「でもここ、静かだから」

風が吹く。

その横顔を見ながら、星那は思う。

少しずつ。

本当に少しずつ。

“志水くん”という呼び方が、自分の中で遠くなっていることに。

まだ怖い。

でも。

この人をもっと知りたいと思ってしまっている。

「夜も綺麗だった」

「……星の海?」

星那がそう言うと、冬雪は少し驚いた顔をした。

「え?」

「この島の人、そう呼ぶの。海に星が落ちるみたいだから」

冬雪はその言葉を繰り返す。

「……星の海」

その瞬間。

冬雪の表情がわずかに揺れた。

懐かしいものを見るように。

「……その言葉」

「?」

「なんか、知ってる気がする」

星那の胸が締め付けられる。

忘れていても。

きっとどこかには残ってる。

あの日の記憶が。

すると冬雪は、ふっと笑った。

「俺さ、昔から変な夢見るんだ」

「夢?」

「星がめちゃくちゃ綺麗な場所で、女の子と話してる夢」

星那の呼吸が止まる。

「顔はよく見えないんだけど」

冬雪は遠くを見る目をした。

「でも、その子」

静かな声。

風に溶けそうなほど小さな声で。

「ずっと泣きそうな顔してるんだ」

その瞬間。

星那の胸の奥で、“志水くん”という呼び方が、少しだけ崩れた気がした。