星海に消えた約束。

社務所の中は静かだった。

古い柱時計の音だけが、やけに大きく聞こえる。

星里は机の上で御札を整理していた手を止め、ゆっくり顔を上げた。

「……どうしたの?」

穏やかな声。

でも。

星那には分かった。

母はもう、
何を聞かれるのか分かっている。

星那は障子を閉める。

夕方の光が薄く畳へ落ちていた。

「……冬雪くんのこと」

その名前を口にした瞬間。

星里の目がわずかに揺れる。

ほんの一瞬だけ。

けれど確かに。

「お母さん、何か知ってるよね」

静かな声だった。

責めるようには言いたくなかった。

でも、
もう誤魔化されたくなかった。

星里はすぐには答えなかった。

代わりに急須へ湯を注ぐ。

湯気が静かに立ち上る。

「座りなさい」

その声に、
星那は小さく息を飲んだ。

怒ってはいない。

でも、
簡単には話せない時の声だった。

向かい合って座る。

差し出された湯呑みは熱かった。

星那は両手で包み込む。

すると星里が静かに言った。

「……あの子、最近どう?」

星那は少し目を見開く。

「え?」

「頭痛、増えてるんでしょう」

その言葉に、
胸がざわついた。

「なんで知って……」

星里は答えない。

ただ、
少しだけ苦しそうな顔をした。

その表情を見て、
星那は確信する。

やっぱり。

母は知っている。

全部ではなくても、
何かを。

「お母さん」

星那はまっすぐ星里を見る。

「冬雪くんって、本当に“ゆき”なの?」

空気が止まった。

外で風鈴が鳴る。

遠くで蝉が鳴いている。

夏の音だけが響いていた。

星里はしばらく黙ったあと、
静かに目を伏せた。

「……分からないの」

「え……」

「少なくとも、私が知ってる“あの子”と、今のあの子は違う」

その言い方に、
星那の胸がざわつく。

“違う”。

否定されたわけじゃない。

でも、
同じとも言わなかった。

「じゃあ、どういうことなの……?」

星里は窓の外を見る。

夕陽が海を赤く染め始めていた。

「昔ね」

静かな声。

「この島では、“星祭り”の日に時々、不思議なことが起きるって言われてたの」

星那は息を呑む。

「不思議なこと?」

「“星に呼ばれる”って言葉、聞いたことない?」

星那は小さく首を振った。

星里は続ける。

「昔の島の人はね、星の海には“向こう側”があるって信じてたの」

風が吹く。

障子がかすかに揺れる。

「海と空の境界が消える夜に、迷い込む人がいるって」

星那の背筋が冷える。

「それって……」

「ただの言い伝えよ」

星里はすぐにそう言った。

まるで、
それ以上踏み込ませないみたいに。

でも。

その目だけは笑っていなかった。

「……じゃあ、ゆきくんは」

そこまで言いかけて、
星那は止まる。

“ゆき”を、
まるでこの世のものじゃないみたいに考えるのが怖かった。

すると星里が小さく言った。

「星那」

「……なに」

「大事なのは、“何者か”じゃないの」

静かな声。

「今、あの子がここにいること」

その言葉は、
昨日の希美の言葉と少し似ていた。

けれど。

星那はまだ納得できなかった。

「でも……!」

思わず声が強くなる。

「祭りが近づくたび、冬雪くん変になってる!」

呼吸が震える。

「苦しそうで、消えそうで……!」

星里は黙って聞いていた。

星那は唇を噛む。

怖かった。

本当に。

また突然いなくなるんじゃないかと。

八年前みたいに。

すると。

星里がゆっくり口を開いた。

「……今年の星祭りの日は」

その声は、
今までで一番静かだった。

「絶対、あの子から目を離しちゃ駄目」

星那の心臓が止まりそうになる。

「え……」

「何が起きるか、私にも分からない」

星里はそう言って目を伏せた。

「だから今は、まだ話せないの」

その表情は、
隠しているというより。

“話したくても話せない”
ように見えた。

星那は言葉を失う。

夕陽が少しずつ沈んでいく。

部屋の中が赤く染まる。

その時。

境内の方から、
風鈴が強く鳴った。

同時に。

遠くで、
誰かの咳き込む声が聞こえた。

星那の顔色が変わる。

聞き間違えるはずがなかった。

__冬雪だ。

星那は反射的に立ち上がる。

障子を開け、
夕暮れの境内へ飛び出した。