星海に消えた約束。

__七月下旬。

夏休みが始まって二週間ほどが過ぎていた。

朝から強い陽射しが照りつけ、
境内の石畳まで熱を持っている。

蝉の声は、もう途切れることがなかった。

星那は授与所の窓を開けながら、小さく息を吐く。

「暑……」

白い巫女服の袖を軽く揺らしながら、境内を見る。

石段の途中。

そこに、冬雪が座っていた。

最近、夏休みに入ってからは毎日のように神社へ来ている。

理由を聞いても、

「ここが一番落ち着くから」

としか言わない。

でも星那には分かっていた。

冬雪自身も、
ここへ来ずにはいられなくなっている。

まるで何かに引き寄せられるみたいに。

「……大丈夫かな」

小さく呟く。

ここ数日は比較的落ち着いていた。

頭痛も少ない。

夢の話も減っていた。

けれど。

祭りの日が近づくにつれて、
逆にそれが不安だった。

静かなほど、
嵐の前みたいに感じてしまう。

「はい」

星那は冷たい麦茶を差し出した。

冬雪は少し顔を上げる。

「ありがとう」

今日は少し顔色が悪かった。

白い肌が、いつも以上に青白い。

「ちゃんと寝てる?」

「多分」

「多分ってなに」

「寝てるけど、途中で起きる」

そう言って苦笑する。

星那は隣へ座った。

風鈴が鳴る。

遠くで波の音が聞こえる。

「また夢?」

冬雪はしばらく黙っていた。

それから、小さく頷く。

「最近、前より変なんだ」

「……変?」

「夢なのに、夢じゃない感じする」

星那は息を呑む。

冬雪は石段へ視線を落とした。

「起きても残ってるんだよ」

静かな声。

「匂いとか、音とか」

風が吹く。

鈴が揺れる。

その瞬間だった。

冬雪の肩がびくっと震えた。

「……っ」

「え?」

冬雪が急に額を押さえる。

苦しそうに眉を寄せる。

「冬雪くん!?」

星那は慌てて顔を覗き込んだ。

呼吸が浅い。

額に汗が滲んでいる。

「……鈴」

かすれた声。

「うるさい……」

「星……海……」

__風鈴の音。

__社殿の鈴。

__夏の風。

境内にある音全部が、
一気に押し寄せているみたいだった。

冬雪は立ち上がろうとして、ふらつく。

星那は咄嗟に腕を掴んだ。

「無理しないで!」

触れた瞬間。

冬雪の身体が小さく震える。

そして。

「__ごめん」

そう言った声が、一瞬だけ違った。

低く掠れた声。

どこか懐かしい響き。

星那の心臓が大きく跳ねる。

__今の。

__八年前。

__あの日。

“ゆき”が消える前に言った声と、
ほとんど同じだった。

「……冬雪くん?」

呼ぶと、冬雪はゆっくり目を開けた。

けれどその瞳は、
どこか焦点が合っていない。

「……星」

小さな呟き。

「海……」

星那の背筋が冷える。

まるで夢を見たまま話しているみたいだった。

「冬雪くん、しっかりして」

両肩へ触れる。

すると冬雪は、はっとしたように目を瞬かせた。

「……あれ」

呼吸が少しずつ戻る。

「俺……」

「大丈夫?」

冬雪は数秒黙ってから、小さく頷いた。

「……ごめん」

その声は、
もういつもの冬雪だった。

けれど星那の胸のざわつきは消えない。

今のは何だったのか。

夢?

記憶?

それとも。

もっと別の何か?

__その日の夕方。

__神社の裏手。

自販機の横で、星那は希美と並んでいた。

缶ジュースを持ったまま、星那は俯いている。

希美がじっと顔を覗き込んだ。

「また何かあったでしょ」

図星だった。

星那は小さく息を吐く。

「……今日、冬雪くん神社で倒れかけた」

希美の表情が変わる。

「え」

「頭痛」

それだけじゃない。

でも、
その先を言葉にするのが怖かった。

希美は少し黙ってから聞く。

「最近増えてる?」

星那は頷く。

「祭り近づいてから、ずっと変なの」

蝉の声が遠く響く。

夕陽が少しずつ沈み始めていた。

「夢もひどくなってるし……」

「……」

「今日なんか、一瞬別人みたいだった」

言った瞬間。

胸の奥が冷たくなる。

希美は静かに聞いていた。

「怖かった?」

その問いに、星那は少しだけ目を伏せた。

「……うん」

__本当は。

__怖い。

__冬雪が思い出していくことも。

__消えてしまいそうなことも。

__全部。

怖かった。

すると希美が小さく言う。

「でもさ」

「?」

「多分あの人、一人で抱え込んでる」

星那は顔を上げる。

希美は空を見る。

「思い出したいのに、思い出すほど苦しいんじゃない?」

風が吹く。

自販機の明かりが揺れる。

「だから今、一番必要なのって」

希美は星那を見る。

「“ゆきくん”を待ってる誰かじゃなくて」

静かな声。

「今のあの人の隣にいる人なんだと思う」

その言葉が、胸へ静かに落ちた。

星那はゆっくり息を飲む。

“ゆき”を探し続けていた。

八年間ずっと。

でも今、
目の前で苦しんでいるのは冬雪だ。

夢に縛られて。

記憶に引き寄せられて。

少しずつ壊れそうになっている。

星那はぎゅっと缶を握った。

冷たい感触が指に残る。

「……うん」

小さく頷く。

すると希美は少し笑った。

「ま、あんた顔に出やすいから」

「え?」

「めちゃくちゃ心配してる顔してる」

「……そんなことないし」

「あるある」

からかうように笑う。

その空気に、
星那も少しだけ笑った。

でも。

胸の奥の不安は消えなかった。

__祭りまで、あと一ヶ月。

近づくたびに。

冬雪の中の“何か”が、
確実に目を覚まし始めていた。