星海に消えた約束。

__七月中旬。

夏休みに入って数日が経っていた。

朝から蝉の声が途切れない。

空は高く、海は眩しいほど青かった。

ここ最近、冬雪の体調は少し落ち着いていた。

頻繁に起きていた頭痛も減っている。

ぼうっと遠くを見る時間はまだあったけれど、六月の頃ほど苦しそうではなかった。

だから星那も、少しだけ安心していた。

__その日。

「海、行かない?」

神社の掃除を終えたあと、星那がそう言った。

冬雪は少し驚いた顔をする。

「海?」

「うん。今日は暑いし」

境内の石段に座っていた冬雪は、空を見上げた。

雲一つない夏空。

「……行きたい」

その返事が少し嬉しそうで、星那は小さく笑った。

__昼過ぎ。

二人は島の東側にある小さな浜辺へ来ていた。

観光客が来るような場所じゃない。

島の人しか知らない、小さな入り江。

防波堤の向こうで波が静かに揺れている。

「うわ……」

冬雪が目を細めた。

海面が陽射しを反射してきらきら光っている。

「綺麗」

その声が子どもみたいで、星那は少し可笑しくなる。

「大げさ」

「いや、東京の海と全然違う」

靴を脱ぎ、砂浜へ降りる。

__熱い砂の感触。

__潮風。

__夏の匂い。

星那はサンダルを片手に持ちながら海へ入った。

「冷たっ……!」

「そんな冷たい?」

冬雪もゆっくり波打ち際へ入る。

次の瞬間。

「……っ、冷たい」

本当にびっくりした顔をして、星那は吹き出した。

「反応おそ」

「思ったより冷たい」

「海なんだから当たり前でしょ」

冬雪は少し不満そうな顔をしたあと、小さく笑った。

その笑顔を見ると、星那の胸が少しだけ軽くなる。

最近はずっと、
“消えてしまうかもしれない”
という不安が頭から離れなかった。

でも今の冬雪は、ちゃんとここにいる。

波に驚いて。

眩しそうに笑って。

隣にいる。

それが嬉しかった。

__しばらく二人で浅瀬を歩く。

波が足元をさらっていく。

「泳がないの?」

冬雪が聞く。

「今日はいいかな」

「泳げないとか?」

「泳げるし!」

「怪しい」

「ほんとだって!」

星那が睨むと、冬雪は少しだけ楽しそうに笑った。

最近。

こういう表情が増えた。

最初の頃みたいな、どこか遠くを見ている顔じゃなくて。

ちゃんと“今”を楽しんでいるみたいな顔。

すると冬雪がふと海を見る。

「……ここ、静かだな」

「でしょ?」

「落ち着く」

風が吹く。

黒髪が揺れる。

その横顔を見ながら、星那は思う。

__もっと見ていたい。

そう思う時間が、少しずつ増えていた。

__その後。

二人は防波堤へ腰を下ろした。

空は青く、
入道雲がゆっくり流れている。

冬雪は買ってきたアイスを片手に、ぼんやり海を見ていた。

「溶けるよ」

星那が言う。

「……あ」

慌てて食べる。

その様子が少し子どもっぽくて、星那はまた笑った。

「なんか最近、よく笑うね」

不意に冬雪が言った。

星那は少し目を瞬かせる。

「え?」

「最初、もっと距離あった気がする」

図星だった。

星那は思わず視線を逸らす。

「……そんなことないし」

「ある」

冬雪は静かに言う。

「最初、俺のこと怖がってた」

「こ、怖がっては……」

「怖がってた」

言い切られてしまう。

星那は小さく頬を膨らませた。

「……だって」

“ゆき”かもしれない人だったから。

期待するのが怖かったから。

でも、その言葉はまだ胸の奥へしまった。

すると冬雪が空を見る。

「でも今は、ちゃんと隣にいてくれる」

その声が優しくて、
星那の胸が少し熱くなる。

波の音だけが響く。

静かな時間だった。

__やがて。

冬雪がぽつりと言った。

「……俺さ」

「ん?」

「最近、少し怖い」

星那の表情が曇る。

「また夢?」

冬雪はゆっくり頷いた。

「前より、はっきりしてきてる」

風が止まる。

「祭りの音とか、鈴の音とか」

冬雪は眉を寄せた。

「あと……誰かが泣いてる」

星那の胸が小さく揺れる。

「顔は見えないんだけど」

「……」

「でも、その声聞くと苦しくなる」

海風が強く吹いた。

夏なのに、少しだけ寒気がした。

祭りが近づくほど、
冬雪の中で何かが動き始めている。

それは確かだった。

星那はぎゅっと自分の指を握る。

__怖い。

思い出してほしい。

でも、
思い出した先に何があるのか分からない。

その時。

冬雪が小さく笑った。

「ごめん。せっかく遊びに来たのに暗い話した」

「……別にいいよ」

星那は静かに答える。

「一人で抱え込まないで」

冬雪は少し驚いた顔をした。

星那は海を見る。

眩しい光が波に揺れている。

「ちゃんと話して」

小さな声。

「消えそうな顔、しないで」

その瞬間。

冬雪の目がわずかに揺れた。

風が吹く。

長い沈黙。

そして。

冬雪は、本当に小さく笑った。

「……うん」

その返事を聞いた瞬間。

星那は少しだけ安心した。

まだ大丈夫。

まだ、隣にいられる。

そう思えた。

けれど。

防波堤の向こう。

遠い水平線を見つめる冬雪の横顔は、
ほんの一瞬だけ。

まるで、
どこか遠くへ帰ろうとしている人みたいに見えた。

__そして、祭りは着々と近づいていた。