星海に消えた約束。

__七月上旬。

梅雨の切れ間みたいな青空が、久しぶりに島を覆っていた。

潮風は少し強い。

けれど、空気はもう完全に夏だった。

学校が終わったあと、星影島の学生たちは港近くの広場へ集められていた。

毎年恒例の、星祭りの設営準備。

八月の終わり。

夏の終わりを告げる“星祭り”。

星影島で一番大きな祭り。

島中の人が集まる、特別な夜。

__提灯を吊るす準備。

__屋台の骨組み。

__神輿の整備。

__舞台の設営。

毎年この時期になると、島全体が少しずつ祭り色へ染まっていく。

「重っ……」

星那が段ボールを抱えながら小さく呻く。

その瞬間。

「危な」

後ろから伸びた手が、箱を支えた。

振り返る。

「冬雪くん」

冬雪は呆れたみたいに眉を寄せた。

「無理しすぎ」

「大丈夫だもん」

「顔赤いけど」

「暑いから!」

そう言い返すと、冬雪は少し笑った。

最近。

こういうやり取りが自然に増えていた。

“冬雪くん”。

そう呼ぶことにも、少しずつ慣れてきた。

名前を呼ぶたび、胸はまだ少しだけ苦しくなる。

でも。

それ以上に、嬉しかった。

「志水くん、こっち手伝ってー!」

クラスメイトに呼ばれ、冬雪は「はーい」と返事をする。

その背中を見ながら、星那は小さく息を吐いた。

希美が隣へ来る。

「距離縮まったねぇ」

「うるさい」

「でも星那、前よりちゃんと笑うようになった」

その言葉に、星那は少しだけ目を瞬かせた。

自覚はなかった。

でも。

確かに最近、苦しいだけじゃない。

冬雪といる時間が、ちゃんと楽しい。

そう思えるようになっていた。

__夕方。

設営作業はまだ続いていた。

提灯が少しずつ吊られていく。

まだ昼なのに、その光景だけで祭りの気配を感じる。

海風が吹く。

遠くでカモメが鳴いていた。

「休憩する人ー!」

先生の声。

生徒たちが一斉に座り込む。

冬雪も近くのベンチへ腰を下ろした。

「疲れた……」

「体力なさすぎ」

星那がスポーツドリンクを差し出す。

冬雪は「ありがと」と受け取った。

汗で少し濡れた前髪が、額へ張りついている。

その時だった。

遠くから、小さな歌声が聞こえてきた。

島のおばあさんたちだった。

祭りで歌う古い民謡。

毎年、神楽の前に歌われる“星祭りの歌”。

ゆったりした旋律。

波みたいに静かな歌。

__星よ、星よ
__海へ還れ
__約束の夜に還れ

その歌が流れ始めた瞬間だった。

冬雪の表情が、ぴたりと止まった。

「……え」

星那が振り返る。

冬雪は遠くを見るみたいな目をしていた。

どこか呆然としている。

「冬雪くん?」

でも返事はなかった。

代わりに。

小さな声が聞こえる。

「__星よ、星よ」

星那の息が止まる。

冬雪が。

歌っていた。

自然に。

まるで昔から知っているみたいに。

「海へ還れ……」

静かな声。

けれど、はっきりと旋律をなぞっている。

希美が目を見開いた。

「え……なんで」

その歌は、島の外ではほとんど知られていない。

観光用ですらない。

星影島の人間だけが知っている、古い歌だった。

冬雪は歌いながら、どこか苦しそうに眉を寄せる。

「約束の……夜に……」

そこで突然。

「__っ!」

冬雪が額を押さえた。

飲みかけのペットボトルが落ちる。

「冬雪くん!?」

星那は慌てて駆け寄る。

冬雪は苦しそうに息を荒げていた。

「頭……っ」

「また……?」

最近増えている頭痛。

でも今日は明らかに違った。

顔色が真っ白だった。

まるで何かを無理やり思い出そうとしているみたいに。

「大丈夫!?」

冬雪は返事をしなかった。

代わりに、震える声で呟く。

「……なんで知ってるんだ」

「え?」

「俺、この歌……」

苦しそうに目を閉じる。

「聞いたこと、ないはずなのに……」

風が強く吹く。

提灯が揺れる。

その音に混ざるように、遠くで祭り歌が続いていた。

__星よ、星よ。

__海へ還れ。

冬雪の身体が小さく震える。

星那は思わず、その手を握った。

冷たい。

まただ。

頭痛が起きる時、冬雪の体温は異常に下がる。

まるで。

この世界から少しずつ遠ざかっていくみたいに。

「……冬雪くん」

呼ぶ。

すると冬雪はゆっくり目を開けた。

焦点が少し揺れている。

「……島居、さん」

その声に、星那の胸が締め付けられた。

まだ全部は戻っていない。

でも確実に、何かが近づいている。

__祭り。

__星の海。

__約束の夜。

__八年前の記憶。

全部が。

少しずつ、冬雪を追い詰め始めていた。

希美が不安そうに小声で言う。

「……星那」

星那は答えられなかった。

胸の奥に、嫌な予感が広がっていく。

祭りが近づくほど。

冬雪の異変は、確実に増えていた。

まるで。

“その日”が近づいているみたいに。

夏の風が吹く。

提灯が揺れる。

青空の向こうには、まだ見えない星が眠っていた。

__祭りまで、あと一ヶ月半を切っていた。