__七月上旬。
長く続いていた雨が、ようやく途切れ始めていた。
__放課後。
空にはまだ薄い雲が残っている。
けれど、その隙間から夏の日差しがこぼれていた。
雨上がりの星影島は、少しだけ世界が綺麗に見える。
濡れたアスファルト。
潮風に混ざる土の匂い。
光を反射する水たまり。
遠くで蝉が鳴き始めていた。
「……暑」
冬雪がぼそっと呟く。
シャツの袖を少しまくりながら、だるそうに空を見上げる。
星那は隣を歩きながら、小さく笑った。
「六月までずっと雨だったもんね」
「東京より湿気やばい気がする」
「海あるからかな」
二人は海沿いの坂道を並んで歩いていた。
最近、この帰り道はすっかり当たり前になっている。
最初の頃みたいなぎこちなさは、もうほとんどない。
沈黙も自然だった。
風の音を聞きながら歩くだけで、落ち着く。
そんな距離になっていた。
防波堤の向こうでは、夕陽を受けた海がきらきら光っている。
その景色を眺めながら、冬雪がふと立ち止まった。
「……島居さん」
「ん?」
「ひとつ聞いていい?」
星那も足を止める。
冬雪は少し困ったように笑った。
「最近さ」
「うん」
「もう名前で呼んでくれないの?」
その言葉に、星那の心臓が跳ねた。
「……え?」
「最初の頃、“冬雪くん”って呼んでたじゃん」
夕陽が横顔を染める。
「最近ずっと“志水くん”だから」
星那は思わず視線を逸らした。
確かに。
最近、また苗字で呼ぶことが増えていた。
理由は、自分でも分かっている。
怖かったからだ。
一度、“冬雪くん”と呼び始めたら。
本当に認めてしまいそうで。
この人が、“ゆき”なんだって。
「……別に深い意味ないけど」
星那は小さく言う。
「なんか、癖で」
「そっか」
冬雪はそれ以上追及しなかった。
でも少しだけ寂しそうに笑った。
その顔を見た瞬間。
胸が痛くなる。
__違う。
本当は違う。
呼びたい。
ずっと。
でも。
星那は唇を噛む。
すると冬雪が、海を見ながらぽつりと呟いた。
「……俺さ」
「?」
「最近、思い出したことあるんだ」
星那の鼓動が速くなる。
「どんなこと?」
冬雪は少し考えるように目を細めた。
「夢なのか記憶なのか分かんないけど」
静かな声。
波の音に溶けそうなくらい小さい。
「暗い山道を登ってる」
星那の指先が震える。
「鈴の音がして」
「……」
「風がすごく気持ちよくて」
その景色を、星那は知っている。
星守神社の裏山だ。
冬雪は続ける。
「そしたら、女の子が笑うんだ」
夕陽が海に滲む。
「“一人より二人の方が楽しい”って」
その瞬間。
星那の呼吸が止まった。
__『一人より二人の方が楽しいし!』
八年前。
確かに自分が言った言葉。
誰にも話していない。
母にも。
希美にも。
絶対に。
冬雪は少し困ったように笑った。
「変だよな。そんな細かい言葉だけ残ってるの」
星那は何も言えなかった。
胸の奥が熱い。
痛いくらいに。
もう疑えなかった。
この人は。
この人が。
__ゆきだ。
ずっと探していた。
ずっと会いたかった。
八年前、突然消えてしまったあの少年。
星那の目の奥が熱くなる。
泣きそうだった。
冬雪はそんな星那に気づいて、少し慌てたように言う。
「ご、ごめん。なんか変なこと言った?」
「……違う」
声が震える。
夕陽のせいじゃない。
胸の奥がいっぱいで、うまく息ができない。
冬雪は不安そうに星那を見る。
その目が。
八年前と同じだった。
少し寂しくて。
優しくて。
消えてしまいそうな目。
星那はぎゅっと制服の袖を握る。
それから。
小さく。
本当に小さく。
「……冬雪くん」
そう呼んだ。
その瞬間。
冬雪の目が静かに見開かれる。
風が吹く。
潮の匂いが揺れる。
夏の夕暮れが、二人を包んでいた。
「……久しぶり」
冬雪が、少し笑う。
「その呼び方」
星那は顔が熱くなるのを感じながら、俯いた。
でも、不思議だった。
さっきまで胸を締め付けていた怖さが、少しだけ消えている。
代わりに残ったのは。
懐かしさと。
安心感だった。
冬雪は空を見る。
「なんかさ」
「……うん」
「その呼ばれ方、すごく落ち着く」
星那の胸がまた苦しくなる。
もう戻れない気がした。
“志水くん”と距離を取っていた頃には。
目の前にいるのは。
ただの転校生じゃない。
ずっと探していた人。
そして今。
もう一度、出会えた人だった。
波の音が静かに響く。
夕陽は少しずつ海へ沈み始めていた。
__祭りまで、あと一ヶ月半。
長く続いていた雨が、ようやく途切れ始めていた。
__放課後。
空にはまだ薄い雲が残っている。
けれど、その隙間から夏の日差しがこぼれていた。
雨上がりの星影島は、少しだけ世界が綺麗に見える。
濡れたアスファルト。
潮風に混ざる土の匂い。
光を反射する水たまり。
遠くで蝉が鳴き始めていた。
「……暑」
冬雪がぼそっと呟く。
シャツの袖を少しまくりながら、だるそうに空を見上げる。
星那は隣を歩きながら、小さく笑った。
「六月までずっと雨だったもんね」
「東京より湿気やばい気がする」
「海あるからかな」
二人は海沿いの坂道を並んで歩いていた。
最近、この帰り道はすっかり当たり前になっている。
最初の頃みたいなぎこちなさは、もうほとんどない。
沈黙も自然だった。
風の音を聞きながら歩くだけで、落ち着く。
そんな距離になっていた。
防波堤の向こうでは、夕陽を受けた海がきらきら光っている。
その景色を眺めながら、冬雪がふと立ち止まった。
「……島居さん」
「ん?」
「ひとつ聞いていい?」
星那も足を止める。
冬雪は少し困ったように笑った。
「最近さ」
「うん」
「もう名前で呼んでくれないの?」
その言葉に、星那の心臓が跳ねた。
「……え?」
「最初の頃、“冬雪くん”って呼んでたじゃん」
夕陽が横顔を染める。
「最近ずっと“志水くん”だから」
星那は思わず視線を逸らした。
確かに。
最近、また苗字で呼ぶことが増えていた。
理由は、自分でも分かっている。
怖かったからだ。
一度、“冬雪くん”と呼び始めたら。
本当に認めてしまいそうで。
この人が、“ゆき”なんだって。
「……別に深い意味ないけど」
星那は小さく言う。
「なんか、癖で」
「そっか」
冬雪はそれ以上追及しなかった。
でも少しだけ寂しそうに笑った。
その顔を見た瞬間。
胸が痛くなる。
__違う。
本当は違う。
呼びたい。
ずっと。
でも。
星那は唇を噛む。
すると冬雪が、海を見ながらぽつりと呟いた。
「……俺さ」
「?」
「最近、思い出したことあるんだ」
星那の鼓動が速くなる。
「どんなこと?」
冬雪は少し考えるように目を細めた。
「夢なのか記憶なのか分かんないけど」
静かな声。
波の音に溶けそうなくらい小さい。
「暗い山道を登ってる」
星那の指先が震える。
「鈴の音がして」
「……」
「風がすごく気持ちよくて」
その景色を、星那は知っている。
星守神社の裏山だ。
冬雪は続ける。
「そしたら、女の子が笑うんだ」
夕陽が海に滲む。
「“一人より二人の方が楽しい”って」
その瞬間。
星那の呼吸が止まった。
__『一人より二人の方が楽しいし!』
八年前。
確かに自分が言った言葉。
誰にも話していない。
母にも。
希美にも。
絶対に。
冬雪は少し困ったように笑った。
「変だよな。そんな細かい言葉だけ残ってるの」
星那は何も言えなかった。
胸の奥が熱い。
痛いくらいに。
もう疑えなかった。
この人は。
この人が。
__ゆきだ。
ずっと探していた。
ずっと会いたかった。
八年前、突然消えてしまったあの少年。
星那の目の奥が熱くなる。
泣きそうだった。
冬雪はそんな星那に気づいて、少し慌てたように言う。
「ご、ごめん。なんか変なこと言った?」
「……違う」
声が震える。
夕陽のせいじゃない。
胸の奥がいっぱいで、うまく息ができない。
冬雪は不安そうに星那を見る。
その目が。
八年前と同じだった。
少し寂しくて。
優しくて。
消えてしまいそうな目。
星那はぎゅっと制服の袖を握る。
それから。
小さく。
本当に小さく。
「……冬雪くん」
そう呼んだ。
その瞬間。
冬雪の目が静かに見開かれる。
風が吹く。
潮の匂いが揺れる。
夏の夕暮れが、二人を包んでいた。
「……久しぶり」
冬雪が、少し笑う。
「その呼び方」
星那は顔が熱くなるのを感じながら、俯いた。
でも、不思議だった。
さっきまで胸を締め付けていた怖さが、少しだけ消えている。
代わりに残ったのは。
懐かしさと。
安心感だった。
冬雪は空を見る。
「なんかさ」
「……うん」
「その呼ばれ方、すごく落ち着く」
星那の胸がまた苦しくなる。
もう戻れない気がした。
“志水くん”と距離を取っていた頃には。
目の前にいるのは。
ただの転校生じゃない。
ずっと探していた人。
そして今。
もう一度、出会えた人だった。
波の音が静かに響く。
夕陽は少しずつ海へ沈み始めていた。
__祭りまで、あと一ヶ月半。

