星海に消えた約束。

__雨は、まだ続いていた。

__六月の終わり。

星影島は数日間ずっと曇り空だった。

海も空も灰色に滲み、湿った潮風だけが静かに島を流れている。

__昼休み。

星那は校舎裏の渡り廊下で、ぼんやり雨を眺めていた。

屋根を叩く雨音。

グラウンドには誰もいない。

空気は少し冷たくて、制服の袖が湿気を吸って重かった。

「……で?」

隣でジュースを飲みながら、希美がじとっとした目を向ける。

「結局、どうなの?」

「……なにが」

「志水くん」

星那は思わず視線を逸らした。

希美はため息をつく。

「分かりやすすぎ」

「うるさい……」

__あの日。

星那は冬雪へ、“八年前に会っていたこと”を話した。

全部ではない。

でも、“昔この島で出会った男の子がいた”こと。

“その子をずっと探していた”こと。

そして、“冬雪がその子に似ている”こと。

冬雪は静かに聞いていた。

驚きながら。

少し苦しそうな顔をしながら。

それでも最後に、こう言った。

__『俺、また会いたかったんだな』

__『……会いたかった』

その言葉を思い出すだけで、胸が熱くなる。

嬉しくて。

怖くて。

今でもまだ整理できない。

「最近さぁ」

希美がストローをくわえながら言う。

「前より距離近いよね、二人」

「そ、そんなこと……」

「ある」

即答だった。

星那は顔を赤くする。

確かに最近、冬雪といる時間は増えていた。

__放課後、一緒に帰る。

__神社へ来る。

__港を歩く。

__商店街で話す。

そんな日常が、少しずつ当たり前になってきている。

最初は緊張していた沈黙も、今では落ち着くものになっていた。

「でも」

星那は小さく俯く。

「まだ、分かんないから」

「何が?」

「……志水くんが、本当に“ゆき”なのか」

その名前を口にするだけで、胸が締め付けられる。

希美は少しだけ真面目な顔になった。

「星那」

「……」

「たとえそうだったとしても」

雨音が強くなる。

「今いるのは、“志水冬雪”だよ」

星那は黙った。

その言葉は、前にも聞いた。

でも。

何度聞いても、胸に刺さる。

「過去も大事だけどさ」

希美は窓の外を見る。

「ちゃんと今の志水くんを見ないと、後悔すると思う」

静かな声だった。

星那は返事ができなかった。

すると、その時。

「……何の話?」

後ろから声がした。

二人が振り返る。

そこには冬雪が立っていた。

黒髪が少し濡れている。

どうやら購買へ行っていたらしい。

「うわ、タイミング悪」

希美が苦笑する。

冬雪は不思議そうに首を傾げた。

「俺、なんか変な話されてた?」

「されてない」

星那が即答する。

「早っ」

希美が吹き出した。

冬雪も少し笑う。

その笑顔を見て、星那の胸が少しだけ軽くなる。

最近、冬雪はよく笑うようになった。

最初に会った頃より、表情が柔らかい。

でも。

時々。

本当に時々だけ。

その輪郭が、ひどく曖昧になる瞬間があった。

「そういやさ」

希美が冬雪を見る。

「志水くんって、最近ちゃんと寝れてる?」

その瞬間。

冬雪の笑みが少し止まった。

「……なんで?」

「いや、なんか顔色悪いし」

実際、最近の冬雪は少し変だった。

眠そうな日が増えた。

ぼーっと遠くを見る時間も多い。

時々、急に頭痛を訴える。

特に、“星祭り”の話題が出た時。

「夢、増えた?」

星那が静かに聞く。

冬雪は少しだけ黙った。

それから小さく頷く。

「……うん」

渡り廊下に雨音が響く。

「最近、前よりはっきり見える」

「どんな?」

「分かんない」

冬雪は眉を寄せた。

「景色は見えるのに、肝心なところだけ霧かかってるみたいで」

苦しそうな声だった。

「でも」

そこで言葉が止まる。

「でも?」

冬雪は少しだけ目を伏せた。

「……最近、夢の中で誰かが泣いてる」

星那の胸が強く鳴る。

「誰か」は分からない。

でも。

なぜか自分のことのような気がした。

すると突然。

強い風が吹き込んだ。

渡り廊下の窓がガタッと揺れる。

雨粒が舞い込む。

その瞬間だった。

希美の表情が、ぴたりと止まる。

「__え」

小さな声。

星那が振り返る。

「希美?」

でも希美は答えなかった。

ただ。

目の前の冬雪を見ている。

じっと。

信じられないものを見るみたいに。

「……どうした?」

冬雪が不思議そうに首を傾げる。

その瞬間。

希美の肩が小さく震えた。

「……今」

かすれた声。

「志水くん……」

雨音。

風。

揺れる蛍光灯。

そして。

希美はゆっくり後ずさった。

「一瞬……透けた」

静寂。

空気が止まった気がした。

星那の心臓が凍る。

「……え?」

冬雪も目を瞬かせた。

「透けたって……何」

「ご、ごめん」

希美は慌てたように首を振る。

「いや、違っ、見間違いかも」

でも顔色が悪かった。

冗談を言っている顔じゃない。

星那は無意識に冬雪を見る。

そこにいる。

ちゃんと。

制服も。

指先も。

濡れた髪も。

全部見えている。

なのに。

胸の奥が、ぞわりと冷えた。

__八年前。

__強い風が吹いた時。

__ゆきの姿が、薄く見えた。

あの日の記憶が蘇る。

「星那?」

冬雪が不安そうに覗き込む。

その声ではっとする。

「……あ、ううん」

無理やり笑う。

でも指先が冷たかった。

希美はまだどこか青ざめた顔をしていた。

「ほんとごめん、変なこと言った」

「いや……」

冬雪は困ったように笑う。

「最近寝不足だから、俺も幽霊っぽいのかも」

軽く言ったつもりなのだろう。

でも。

星那は笑えなかった。

雨はまだ降り続いている。

まるで。

何かを隠すみたいに。

__祭りまで、あと二ヶ月。