星海に消えた約束。

__六月中旬。

星影島は、ゆっくり梅雨へ入っていた。

朝から空は灰色で、
湿った風が海から流れてくる。

教室の窓ガラスには、小さな雨粒が何度もぶつかっていた。

「うわー、また雨」

「洗濯乾かないんだけど」

クラスメイトたちが騒ぐ中、
星那はぼんやり窓の外を見ていた。

雨に霞む海。

遠くの防波堤も白く滲んで見える。

六月の雨は嫌いじゃなかった。

世界の音が少し遠くなるから。

けれど今日は、
どこか落ち着かなかった。

理由は分かっている。

隣の席。

冬雪が、朝からほとんど喋っていない。

頬杖をついたまま、
ずっと窓の外を見ている。

眠そう、というより。

何かを考え込んでいる顔だった。

「……志水くん」

小さく呼ぶ。

冬雪がゆっくり振り返った。

「あ、ごめん」

「え?」

「なんかぼーっとしてた」

困ったように笑う。

でもその笑顔が少しだけ薄い。

星那は胸の奥がざわついた。

最近、
こういう表情が増えている。

神社へ行ったあと。

“星の海”の話をしたあと。

夢の話をしたあと。

冬雪は時々、
急に遠くへ行ってしまうみたいな顔をする。

「ちゃんと寝れてる?」

そう聞くと、
冬雪は少し考えてから答えた。

「……寝てる、と思う」

「思うってなに」

「起きた時、変に疲れてる」

その声は少し掠れていた。

星那は何か言いかけて、
でも飲み込む。

大丈夫?

無理してない?

聞きたいことはいっぱいある。

でも、
今の冬雪は少しだけ危うかった。

強く触れたら、
崩れてしまいそうなくらい。

__放課後。

雨はさらに強くなっていた。

窓の外は白い。

部活へ向かう生徒たちが、
廊下を慌ただしく走っていく。

星那は鞄を持ちながら、
そっと隣を見る。

冬雪はまだ席に座っていた。

「……帰らないの?」

すると冬雪は、
少し遅れて顔を上げた。

「ああ」

でも立ち上がろうとしない。

「志水くん?」

「……なんか今日、神社行きたい」

その言葉に、
星那は少し目を瞬かせた。

「いつも行ってるじゃん」

「今日は、なんか……」

そこで言葉を止める。

視線が揺れる。

「行かなきゃいけない気がする」

雨音だけが響く。

星那は小さく息を飲んだ。

その言い方が、
少し怖かった。

まるで。

誰かに呼ばれているみたいだったから。

__二人は傘を差して学校を出た。

六月の島は、
雨に濡れると静かになる。

商店街のシャッター。

濡れたアスファルト。

水たまりに映る灰色の空。

歩きながら、
冬雪はほとんど喋らなかった。

ただ時々、
周囲を見回している。

何かを探すみたいに。

「……志水くん?」

「え?」

「さっきから、どうしたの?」

そう聞くと、
冬雪は少し困ったように笑った。

「分かんない」

「分かんないって……」

「でも」

雨音の向こう。

静かな声。

「今日、ずっと鈴の音が聞こえる」

星那の背筋が冷える。

「鈴……?」

「うん」

冬雪は眉を寄せる。

「たまに聞こえるんだよ。遠くで」

星那は耳を澄ませる。

でも聞こえない。

あるのは雨音だけ。

けれど冬雪は、
確かに聞こえている顔をしていた。

__星守神社。

石段は雨で濡れていた。

木々から雫が落ちる。

提灯はまだ吊られていない。

六月の神社は静かだった。

冬雪は鳥居の前で立ち止まる。

その瞬間。

ぴくり、と肩が揺れた。

「……また?」

星那が不安そうに聞く。

冬雪は額へ手を当てた。

「少しだけ」

頭痛。

最近増えている。

でも今日は、
前より苦しそうだった。

「休んだ方が……」

「平気」

そう言う声が少し震えている。

冬雪は石段を上り始めた。

雨の境内。

社殿の屋根から、水が流れ落ちている。

社務所の縁側には、
星里がいた。

「あら、こんな雨の中」

「こんにちは」

星那が言う。

冬雪も軽く頭を下げた。

けれどその時。

冬雪の足が止まる。

視線は、
社殿の横。

誰もいない場所。

「……え」

かすれた声。

星那が振り返る。

「どうしたの?」

冬雪は青ざめていた。

「今……」

「?」

「女の子、いなかった?」

星那の心臓が強く跳ねる。

「え?」

「白い服の……」

そこには誰もいない。

雨だけが降っている。

冬雪は息を乱しながら、
その場所を見つめていた。

「絶対いた」

小さな声。

「こっち見てた」

星那は言葉を失う。

星里だけが、
静かに冬雪を見ていた。

その目が、
少しだけ悲しそうだった。

__その夜。

雨はさらに強くなっていた。

社務所で雨宿りすることになった冬雪は、
縁側に座って外を見ていた。

暗い境内。

雨に煙る鳥居。

風に揺れる木々。

星那は少し離れた場所から、
そんな冬雪を見ていた。

横顔が白い。

まるで、
夜へ溶けていきそうなくらい。

すると。

「……島居さん」

「え?」

冬雪がぽつりと言った。

「俺、最近怖い」

星那の胸が締め付けられる。

「夢、増えてるし」

雨音の中。

静かな声が続く。

「知らない景色なのに、知ってる感じするし」

冬雪は俯く。

「それに」

小さく震える声。

「時々、“今”が分かんなくなる」

星那は息を呑む。

「昔の夢見てる時の方が、現実みたいで」

その言葉に、
胸が冷たくなった。

冬雪の中で、
何かが起き始めている。

少しずつ。

確実に。

祭りの日が近づくにつれて。