星海に消えた約束。

和歌山県の南部に位置する星影島(ほしかげじま)の夜は、空と海の境界が消える。

波の揺れる音の向こうで、星々が海へ落ちていくように瞬くその景色を、島の人々は昔から“星の海”と呼んでいた。

島居星那(しまい せな)は、その景色が好きだった。

潮風に揺れる黒髪を押さえながら、石段の途中で立ち止まる。

見上げた夜空には、無数の星。

見下ろした海にも、同じ数だけの光。

まるで世界が、上下逆さまになってしまったみたいだった。

「……今年も綺麗」

小さく呟く。

星守神社(ほしもりじんじゃ)へ続く石段の両脇には、祭りの提灯が並んでいた。

夏の終わりを告げる“星祭り”。

星影島で最も大きな祭り。

星那にとっては、幼い頃から何度も見てきた光景だった。

境内からは賑やかな声が聞こえてくる。

焼きとうもろこしの香り。

子どもたちの笑い声。

風鈴の音。

神楽の笛。

全部、変わらない。

でも。

「……やっぱり、いるわけないか」

星那は静かに目を伏せた。

八年前からずっと探している人がいる。

名前は、“ゆき”。

本当の名前も知らない。

どこから来たのかも知らない。

ただ、あの夜に出会った少年。

それだけだった。

__八年前。

まだ星那が八歳だった頃。

祭りの夜だった。

境内にはたくさんの人がいた。

知らない大人たちが、次々に星那へ声をかける。

「星那ちゃん、大きくなったねぇ」

「今年も巫女さんのお手伝いか?」

「えらいねぇ」

笑って返事をする。

でも、本当は少し疲れていた。

神社の娘だから。

ちゃんとしなきゃいけない。

愛想よくしなきゃいけない。

まだ子どもだった星那には、それが少し苦しかった。

母に見つからないように、小さく息を吐く。

それから、人混みを抜け出した。

提灯の明かりが遠ざかっていく。

賑やかな音も少しずつ小さくなる。

裏山へ続く石段は暗かった。

でも星那は、この場所が好きだった。

ここだけは静かだったから。

石段を登り切ると、小さな開けた場所がある。

木々の隙間から海が見える場所。

島の人でも、あまり来ない場所だった。

夜風が吹く。

汗ばんだ頬が冷えて気持ちよかった。

星那は石段に座って空を見上げた。

星が近い。

祭りの音が遠くなるほど、空の音が聞こえる気がした。

その時だった。

「……君も、逃げてきたの?」

突然、後ろから声がした。

星那はびくっと肩を揺らして振り返る。

そこには、一人の少年が立っていた。

知らない子だった。

白い肌。

夜の中でも不思議とはっきり見える。

黒にも紺にも見える髪。

静かな目。

なのに、その瞳だけがどこか酷く寂しそうだった。

星那は少し警戒しながら聞く。

「……だれ?」

少年はすぐには答えなかった。

少し考えるみたいに夜空を見上げてから、小さく口を開く。

「……ゆき、って呼ばれてる」

「呼ばれてる?」

「うん」

「君の名前じゃないの?」

すると少年は困ったように笑った。

「……わかんない」

変な子だと思った。

でも、不思議と怖くなかった。

むしろ。

ひとりぼっちの猫を見つけた時みたいな気持ちになった。

星那は少しだけ横へずれる。

「……座る?」

ゆきは少し驚いた顔をした。

まるで、誘われると思っていなかったみたいに。

それから静かに隣へ座る。

石段は少し冷たかった。

二人の間に沈黙が落ちる。

でも嫌じゃなかった。

風の音がしていた。

遠くで祭り囃子が鳴っている。

「ここ、星が近いね」

ゆきがぽつりと言った。

星那は嬉しくなって、少し身を乗り出す。

「うん! 島のみんな、“星の海”って呼んでるの」

「……星の海」

ゆきはその言葉を大事そうに繰り返した。

まるで、忘れないように。

「海にも星が映るから?」

「そう! すっごく綺麗なんだよ!」

「……見てみたい」

その言い方が、少し変だった。

まるで、まだ見たことがないみたいだったから。

「見たことないの?」

「……うん」

「島の子じゃないの?」

そう聞くと、ゆきはしばらく黙った。

返事を迷うみたいに。

そして、小さく言う。

「……わかんない」

「え?」

「どこから来たのか、覚えてない」

冗談には聞こえなかった。

でも星那は深く考えなかった。

子どもだったからかもしれない。

ただ。

この子、ずっと一人だったのかな。

そんなことを思った。

「じゃあさ!」

星那は立ち上がる。

「お祭り、案内してあげる!」

ゆきは目を丸くした。

「……いいの?」

「うん!」

星那は笑った。

「一人より二人の方が楽しいし!」

その言葉を聞いた瞬間。

ゆきが少しだけ、泣きそうな顔をした気がした。

__二人は境内へ戻った。

祭りの灯りはさっきより明るく見えた。

屋台が並んでいる。

__たこ焼き。

__りんご飴。

__射的。

__金魚すくい。

__綿菓子。

子どもたちの笑い声が夜空へ溶けていく。

ゆきは周囲を静かに見ていた。

まるで全部が初めてみたいに。

「何食べたい?」

「……なんでも」

「それ一番困るやつ!」

星那が笑うと、ゆきも少しだけ笑った。

その小さな変化が、なぜか嬉しかった。

星那はラムネを二本買った。

一本をゆきへ渡す。

「はい!」

ゆきは瓶をじっと見つめる。

「……開けられない」

「えぇ?」

星那は驚いてから、慌ててビー玉を押し込んだ。

ぽんっ、と音が鳴る。

「はい、できた!」

「……すごい」

「いや普通!」

二人でラムネを飲む。

炭酸が強くて、ゆきが少しむせた。

「だ、大丈夫?」

「……びっくりした」

その言い方がおかしくて、星那は声を上げて笑った。

ゆきもつられて笑う。

その瞬間。

星那は初めて思った。

この子、ちゃんと笑えるんだ。

__綿菓子を半分こした。

射的もやった。

ゆきは全然当たらなかった。

「へたっぴ」

「……難しい」

真剣に悔しがっている顔がおかしくて、星那はまた笑った。

少しずつ。

本当に少しずつ。

ゆきの表情が柔らかくなっていった。

でも時々。

ふっと消えそうな顔をする時があった。

祭りの灯りを見つめる横顔が、どこか遠くを見ているみたいで。

「……ゆきくん?」

呼ぶと、彼ははっとしたように振り返る。

「どうしたの?」

「……なんでもない」

そう言って笑う。

でもその笑顔は、少しだけ寂しかった。

__やがて人混みを離れ、二人はまた裏山へ戻った。

石段へ座る。

夜風が優しい。

祭りの音が遠くなっていく。

「今日、楽しかった?」

星那が聞く。

ゆきは少し驚いたように目を瞬かせた。

それから静かに頷く。

「……うん」

「そっか!」

星那は嬉しくなって笑った。

その時だった。

遠くから母の声が聞こえる。

「星那ー!」

「あ……」

帰らなきゃ。

立ち上がりかけて、でも止まる。

また会えなくなる気がした。

理由なんてなかった。

でも、なぜかそう思った。

「……また来る?」

星那が聞く。

ゆきは少し目を見開いた。

まるで、その言葉を待っていたみたいに。

「……いいの?」

「もちろん!」

星那は笑う。

「約束!」

ゆきは少しだけ迷ってから、小さく頷いた。

「……うん」

二人は指切りをした。

ゆきの指は驚くほど冷たかった。

その瞬間。

強い風が吹く。

木々が揺れる。

提灯の音が遠く鳴る。

星が一つ、夜空を流れた。

そして一瞬だけ。

ゆきの姿が、薄くなった気がした。

まるで最初からこの世界に存在していなかったみたいに。

星那は怖くなって、とっさに彼の手を掴む。

ゆきは少しだけ目を見開いた。

それから。

本当に嬉しそうに笑った。

「……ありがとう」

「……」

ゆきは何かを言おうとしたが、何も言わなかった。

その声は、風に溶けそうなくらい静かだった。

__翌日。

ゆきはいなくなった。

島中を探した。

__神社も。

__港も。

__裏山も。

__海辺も。

何度も名前を呼んだ。

でもどこにもいなかった。

島の大人たちは不思議そうな顔をした。

「そんな子、見てないよ」

「観光客じゃない?」

「夢でも見たんじゃないか?」

誰も信じてくれなかった。

それでも星那は忘れられなかった。

夏が来るたびに探した。

祭りの日になるたび、裏山へ行った。

あの日と同じ風が吹くたび、思い出した。

__白い肌。

__静かな目。

__少し寂しそうな笑顔。

“ありがとう”という最後の声。

もしかしたらまた会えるかもしれないと、ずっと思っていた。

でも、会えなかった。

__そして八年が過ぎた。

高校二年生になった星那は、母の手伝いで神社の授与所に立っていた。

夜風が涼しい。

今年も星祭りの日だった。

「星那、お守り足りてる?」

「うん、大丈夫」

母__島居星里(しまい あかり)が笑う。

その時だった。

石段を上がってくる一人の男子生徒が見えた。

__白いシャツ。

__少し長めの黒髪。

__色白の肌。

そして。

どこか消えてしまいそうな雰囲気。

星那の心臓が止まりそうになる。

「……え」

その少年は境内へ入ってくる。

提灯の灯りが横顔を照らした瞬間、星那は息を呑んだ。

似ている。

あまりにも。

八年前の“ゆき”に。

少年は静かに周囲を見渡していた。

初めて来た場所を眺めるように。

でもその視線だけが、妙に懐かしかった。

気づけば星那は、授与所を飛び出していた。

「あの……!」

少年が振り返る。

目が合う。

夜空みたいな静かな瞳。

星那の喉が震えた。

「……ゆき、くん?」

少年はきょとんとした顔をした。

数秒の沈黙。

やがて彼は、少し困ったように笑った。

「えっと……人違いだと思う」

「……っ」

「俺、志水冬雪(しみず ふゆき)っていうんだ」

その名前が胸に落ちる。

冬の雪。

“ゆき”。

偶然とは思えなかった。

星那は震える声で聞いた。

「この島……来たこと、あるよね?」

すると冬雪は不思議そうに首を傾げた。

「いや?」

そして、当たり前みたいに言った。

「……俺、この島に来たの初めてだから」

その瞬間。

星那の中で、止まっていた八年間が静かに軋み始めた。