俺と彼女の視線が合ったのは、千に一つの偶然が重なったからなのだろうか。それともありきたりな言葉で言うと、運命というヤツだったのだろうか。柏原なんかは白昼夢でも見たのだろうと鼻で笑っていたが、あの日は確かに俺の過去に存在しているし、今でも鮮明に思い出すことが出来る。
彼女の柔らかな声も。
冷たいその指先も。
その日も朝から雨が降っていた。
春の雨と云うのは殊更に風情があって、なぜか酷く感傷的な気分になる。特別落ち込むような何かがあったわけでは無いのだが、はらり。とまた一枚枝からその体を切り離して地面に落ちていく、桃色の花弁を見るたびに、心の奥深くから正体不明の焦燥感が、せりあがって来る。
憂鬱な気分で室内トレーニングを終え、シャワールームへそのまま飛び込むと、どうやら俺の前にタイミング悪くも、木戸が使用していたらしく、外国製のシャンプーから香る独特の匂いと、未だ空間を頼りなげに漂っている白い湯気に包まれた。濃密な湿度から、当然のように曇った眼鏡を外し、換気のために窓を大きく開ける。どうせ、誰かに見られて困るような柄でもないし、春休み中の今ならば人通りも少ないであろう。
何も考えずに俺は窓を開けたのだ。
そして直後に交差する視線。
一秒、いや五秒くらいはそのまま相手を凝視していたかもしれない。大きく見開かれた目に縁取られた長い睫毛が、瞬く。
「うわ!」
唐突に湧き上がってくる羞恥心から、妙な声があがった。
真向かいにある特別教室棟二階の窓辺で佇む、女子生徒の黒い髪が揺れ、赤い唇が何かを形作る前に、俺は慌てて窓を閉めたのだった。
「だから本当に居たんだってば! 女子の覗きが!」
「何、下らねぇ事言ってるんだよ」
呆れたように木戸は開いていた雑誌をぱたんと閉じ、ご丁寧に怜悧な視線を、俺に向かって投げかけた。
向かいでは柏原が菓子の袋をバリバリと開けながら「別に見られても困るもんねぇじゃん。女じゃないんだし」と笑う。
「そうだけど……なんか気味悪いじゃんか。もしかして俺、狙われているんじゃないのか? 得体の知れない女に『あ、江崎君だわ。今日もイイ体してる!』なんて。ストーカーとか、流行っているしさ」
「バーカ。自惚れんなっつーの。だいたいお前の前にシャワーを使っていた、オレ狙いかもしれないだろうが?」
「あ、そうか。その線もあるな……」
サッカー部のエースを張る、少々自意識過剰オトコの木戸の台詞に、俺は腕を組んだ。
「案外、江崎さんの次に、シャワーを使った柏原さん狙いかもしれませんよ」
いつの間にかシャワールームから出て来ていた後輩の言葉に、柏原が慌てた様子で蹴っ飛ばす真似する。小さな悲鳴をあげながら、後輩はシャワールームへと戻っていく。いつも通りの光景に、いつものメンバー。話題は、いつの間にか、春休みの特別教室棟の窓辺に佇んでいた正体不明の女子生徒に関するモノから、明日からいよいよ始まる最終学年についての話や、来週に行われる、練習試合の対戦校への攻略やらに変わっていった。
***
だから、忘れていたのだ。
あの日、あの雨の時間に、彼女と目が合った事など。
そんな一瞬の記憶は、それなりに忙しない日常の中に埋もれていく。日々、長くなっていく俺の過去の中で、そんな一欠けらの出来事など簡単に消えゆくのだと、思っていた。
今年の春の桜は、例年よりも早くに蕾みを膨らませ、一気に花を開かせた。そして満開を迎える頃に訪れた雨が、いっそ清々しいほどに花を散らせていく。結果的に入学式には、葉桜の並木の下を新入生達が列を作ったのだった。どことなく、いつもと少しだけズレた光景に、笑いが漏れたのを思い出す。
その日は、部活動が無かった。
といっても顧問が居なかった為、正式な部活動とならなかっただけで、俺達は自主錬という名の元にグラウンドへと集まっていた。相変わらずのサッカー馬鹿っぷりに、我ながら呆れ返る。とうとう最終の年となった訳だ。しかし中高大と続く、いわゆる一貫校であるこの学園に通う生徒達は、いわゆる受験の名を持った鎖には、縛り付けられていなかった。
充実した時間は、きっと永遠に続くのだろう――とさえ思えてくるような校風。恐らく学園の気質は俺に合っているのだ。いつか、この学園のOBでもある、我らがサッカー部の無口な顧問も、若かりし頃の自分もまたそうだった。と珍しくも饒舌に語っていた。わずらわしい干渉も無く、自分のやりたい事に精一杯打ち込める環境は、早過ぎると感じる時間の流れを、止めてくる。
学園の外周を軽く走って汗を流した後、柏原とストレッチをしながら、少しだぼついた制服を身に纏っている初々しい新入生達が、校門から出て行くのを眺めていた。
不意に、視界の端に揺れる色に視線が引き摺られる。
その色は確かに、校舎と云う光景の中に、すんなりと溶け込んでいたのだが――。
「おいおい、どこに行くんだよ江崎」
「あー、木戸には適当に言っといて」
「おいってば」
柏原の言葉は俺の耳を掠めただけで、消えていった。
足が、自然に向かう。
茶色のグラウンドを抜け出し、特別教室棟の扉を押し、階段を上り、廊下を渡り、突き当たりにある窓辺へ。
見たことの無い制服。うちの制服に似ているけれど、どこかが微妙に違う。ブレザーのエンブレムに刻まれている文字の形や、タイの色。それからスカートの丈に。ふくらはぎの辺りまでしかない、中途半端な長さの白いソックス。
「きみってさ……この学校の子じゃ、ないだろう?」
俺の声に弾かれたように、その女子生徒が顔を上げた。見開かれた黒い瞳が、俺をじっと見上げ、そのまま静止する。
「――あなた、この前も――」
驚いたような呟きに、俺は即座にきり返した。
「やっぱ、覗いていたんだ、ここから」
窓辺のすぐ下には部室棟がある。そしてその先には広いグラウンドと、校門まで続く桜の並木道。
「覗き?」
「サッカー部の部室」
俺は顎で一番角にある窓をさした。
そして、一瞬の戸惑いの後「サッカー部も、見ている」と、低くも高くも無い、耳に心地良いアルトが短く答えた。
「『も』?」
「そう」
「なんか、判らないけど……木戸とか?」
「木戸?」
「木戸。知らないの?うちのエースストライカーで部長」
「木戸君?」
ここにホクロがある。と指で顎の中央を示すと、思案顔が途端に緩む。
「あ、知っている。でも、私が見ていたのは、その――木戸君じゃないよ」
その答えに、なぜか俺はほっとしていた。
「じゃ、『俺』だったりしてねー」
冗談めかして口に出すと、彼女は吹き出した。
「『俺』くんの名前も判らないよ。顔は知っているんだけどねえ」
「この前、目ぇ合ったしな」
「――やっぱり、目、合ったんだよね、私たち」
おかしいなぁ。と呟きながら、彼女は首を捻った。
「きみの名前は何て言うの」
「――……名前」
俺の言葉に彼女は一瞬だけ、柳眉を顰める。けれども、次の瞬間には何かを思いついたように、唇の端を上にあげた。
「内緒。知らないほうが、ミステリアスでしょう。謎の女一号って事に、しておいてください」
「おいおい、一号って事は、二号も三号も居るのかよ? ストーカー予備軍が」
「ストーカー?」と、彼女は言いにくそうに言葉を続ける。
「うーん、私みたいなモノの三号は、居ないんじゃかなあ。でも探せば居るかもしれない。この学校広いしねぇ」
窓枠にもたれ掛かるように、彼女は身を乗り出して外を眺める。放課後の校庭は、俺らサッカー部を含め、陸上部や野球部やらの運動部の連中たちが、勇ましい声をあげながら、走り回っていた。また、特別教室棟の三階から聞こえてくる、吹奏楽部の奏でる外れた音も、放課後を彩る要素の一つである。
いつもの放課後。
当たり前の日常。
それなのに、この空間を彼女と共有している事が、酷く不思議だった。なぜなら、見覚えの無い制服を身に纏った彼女は、自然過ぎるほどごく自然に、その景色に溶け込んでいたからだ。
「それなら、この学校に咎められずに忍び込む方法を教えてくれよ。一応、守衛のおっさんが裏門の方にも居るだろう? 他校生はそう簡単に入れない筈なんだけど。最近は色々と物騒だしな」
彼女は不思議そうな顔をした。
「そう、だよね。よく考えてみると」
そしてポツリと呟くと、うんうんと納得したように頷く。
「やっぱり、どこかに秘密の抜け穴があるのか?」
「秘密の?」
「そう、破れたフェンスとか。って普通すぎるか。うーん、さっぱり想像がつかないな。万年補欠組みあたりなら、よく知っていそうだけど」
「そんなの無いよ。秘密の抜け穴なんて。たぶんだけどね。……今は、どうなんだろうあるのかなあ」
笑顔で返した彼女は、最後の言葉にだけ神妙な顔つきをする。
「まぁ、関係者だよ私。この学校のね」
「そんな意味深な言い方するの、ズルイんじゃない」
「だってほら」
大きな瞳で、俺をじっと見上げる。
「謎な女一号だからさ」
そう言われて、俺は何も答える事ができなかった。ただ、魅入られた、と思った。漆黒の瞳は静謐で、透明だった。もっと知りたいと、心の奥でもう一人の自分が告げていたのだが、それ以上、彼女に何も問うことが出来なかった。
***
「ねぇ、部活いかなくてもいいわけ? えーっと江崎くんは」
何度目かになるその言葉に、苛苛とした。
「あと五分くらいは平気」
俺は授業が終わった後、サッカー部に向かう前に、この場所に顔を出すのが日課になっていた。と云っても、彼女とこの窓辺で顔を合わせるのは今日で四回目だ。最初に視線が交差した雨の日を抜かして、入学式の放課後、それから四日前と昨日と今。彼女は、毎日、他校に不法侵入しているわけで無いらしい。特別教室棟で彼女の姿を見かけるのは、だいたい同じくらいの時間だった。当たり前の話だが、本館などの校内の他の場所で彼女に出会うことは無かった。他校の制服を身に纏う彼女が、どうやってこの校内に入り込んでいるのかは判らない。尋ねても彼女は曖昧に濁すだけで。
ただ、確かなのは窓から外を眺める横顔に、とても愛おしそうな物を見ている表情を浮かべていると云う事。ときおり、ほう、と溜息を吐いたり。窓枠に腰を掛けて足をぶらぶらとさせているのは、流石に褒められた行為ではないけれど。誰かを懸命に見ているのは、判る。今すぐにでも、ここから飛び降りて、その誰かの元に駆けつけたい、と背中が語っているように見えた。
俺は彼女が見ている相手が、誰なのかが、気になって仕方なかったのだ。
「なんだか、このまま消えてしまいそうなんだよな。きみって」
「ミステリアスかつ、儚げな女?」
俺の声に、グラウンドをじっとみつめていた彼女が、漸くこちらに視線を流す。
「名前も教えてくれないし。もう初対面じゃないだろ? って事は、俺ら友達って言ってもおかしく無い」
「『ともだち』かー。いいね、その響き」
その答えにむっつりと黙り込んだ俺に、彼女は茶化したように笑いかけると、腰を下ろしていた窓枠から、タイルの床へ、すとん、と降りる。重力を感じさせない、無駄の無い動きだった。思わずと腕を伸ばす。指先と指先が僅かに触れ合った。ひんやりとしたその冷たい指先を握りこむと、彼女は俯いた。
「手、つめた」
「……うん」
「冷え性?」
「違うと、思う」
いつまで経っても、俺の体温は伝わらない。彼女の指の骨を辿って手首に触れ、それから腕のラインを忠実になぞって肘に触れてみる。彼女はそれをじっと目で追っていた。不意に二の腕を掴むと、制服の下の体が震えた。唐突にわきあがる衝動のまま、抱き寄せる。彼女は身を硬くしたままで動かない。
困惑の色を瞳に浮かばせて、一度だけ俺を見あげ、また視線を伏せた。
どのくらいそうしていたのか。
けれど、どんなに彼女の体を、この腕に抱きしめていても、俺の体温は伝わらなかった。
それがなんだか悔しくて、唇を噛み締める。
「江崎テメェ!」
「あ」
地上からの木戸の怒声に、彼女は目を丸くさせ、俺の胸の辺りを押し返した。回されていた腕があっさりと解かれていく。
「ほら、やっぱり行った方がいいってば。部活さぼったりしちゃ駄目だよ」
「…………。今、行く」
睨むようにして見上げている木戸に向かって、肩を竦めて、答える。
「いってらっしゃい」
曖昧な笑顔で、手をひらひらと振る彼女に、予防線を張られたような気がした。それに反して彼女の名残を惜しむ俺の掌。感触を振り払うように背を向け、片手を軽く上げた。足早に階段を降りる。
「何がしたいんだよ、俺」
落とされた溜息の理由が見つからない。
***
部活をサボり続けた所為で、音楽教師でもある顧問から、彼の城である音楽準備室の資料整理を命じられたのはその翌日。特別教室棟に計らずしてした俺は、嘆息した。今日も彼女の姿を校内で見かけていない。昨日会ったばかりだと云うのにも関わらず、もう、一年以上も時間が経ってしまった様な感覚に陥る。腕を掴んだのが、いけなかったのだろうか。そのまま体を抱き寄せてしまったのが、悪かったのだろうか。後悔ばかりが頭の中を駆け巡っていた。
かなり長い間、開かれていなかったであろう木製の戸棚を乱暴に開くと、無造作に積み上げられていた紙の束が雪崩を起こし、床へと散らばる。ブレザーの袖が薄っすらと埃に汚れ、思わず溜息が零れた。これからの作業を考えると気が遠くなる。しかし彼女に会えない焦りや、考えていなかった訳では無い部活の事に関しての思いも、しとしとと柔らかい針のような雫を地上に落とす、雨の音を聞き流しながらの単純作業をこなしている内に、いつしかその杞憂の割合を減らして行った。
バラバラになったピースを、パート毎の楽譜に分けて真ん中の棚に並べ、下段の作業に取り掛かる。吹奏楽部のOB名簿か何かなのだろうか。平成十六年度と背表紙に書かれてあったファイルを最後に押し込むと、奇妙な達成感が心の内から沸き上がってきた。かなり変色した古いファイルの一番最初の年代は昭和だった。今から五十年近く前の代物だ。パラパラと中を捲ると、手書きの文字が所狭しと並んでいる。時代を感じさせるリストに思わず笑ってしまう。
せっかく整理したというのに、何冊か目に付いた年代のファイルを俺はわざわざ抜き取り、流し読む。手書きから、ガリ版刷りのファイルへと変節したのは、どうやら今から四十年位前になるらしい。人の秘密を覗き見しているような不思議な感覚だった。俺は夢中で羅列された文字を目で追っていた。誰とも知らない、他人の歴史を目で追う行為は、楽しい物とは思えない。
今思えばそれは、何か得体の知れない力が、俺の周りで動いていたのだと考えてしまうのは、ある種のこじ付けだろうか。そして偶然に、はらりとファイルから落ちた、何枚かの色褪せた印画紙に、俺は目を見張る。その瞬間、あらゆる時が止まった気がした。切り取られた過去。記憶。
「……は……嘘だろう……」
フルートを抱えている男子生徒の隣で、同じくフルートを手にしている一人の女子生徒が並んで写されていた。
「マジかよ」
暈けた色合いの中心で微笑む姿は、
「絶対、ありえない」
昨日の彼女のそれと、同じだった。
――アンサンブルコンクールにて、神城、……
その続きは文字が擦れ、判別が出来なかった。俺は、顧問の名前の隣に刻まれているであろう滲んだ文字の痕跡を、震える指先でなぞった。
「なんだよ、結局教えてくれないのか。名前は」
音楽準備室があるのは、特別教室棟の二階。
あの窓辺の並びにある。
そして君が見ていたのは――
「監督、準備室の掃除終わりました」
俺はポケットに手を突っ込み、躊躇した後、一枚だけをそこに残して、後はすべて神城先生に渡した。
「これって、先生の若い頃ですか?」
「ああ――」
柔らかに細められた目元は。
「懐かしいな」
彼女が、窓の向こうに寄せていた視線と。
たぶん、同じだ。
***
そして、桜の季節は、再び俺の元へ巡り来た。
雨が降っていた。
卒業を間近に迎えたその日も、雨が降っていた。三年間、置きっぱなしになっていた荷物を引き上げようと、部室に向かうと、同じ事を考えていたであろう先客が、既に数名居る。
「うわ、埃っぽいなここ」
俺の声に、床に座り込んで何やらごそごそとしていた柏原が、顔を上げた。
「お、江崎ちょうどいいタイミング、ちょっと窓開けてくれよ」
「はいはい」
途端に流れ込んでくる新鮮な空気に、生きた心地がした。雨が地上の汚れを、綺麗に洗い流していた。開きかけた桜の花が、寒そうに体を震わせている。そして、向かいには特別教室棟二階の窓が見える。きっちりと閉じられたガラスに映りこむのは、淡色の花弁を打つ、雨の行方だけ。
――今なら君のその、少しだけ時代錯誤なスカート丈の理由が判る気がする。
ぼんやりと、雨が描く軌跡を追っていると、隣に木戸が並んだ。
「なぁ、木戸」
「うん?」
「俺やっぱり、好きだったんだろうなあ、あの子の事」
俺の手元をチラリと見、木戸は薄く笑った。
「失恋か」
もうすぐ、この部室ともお別れだ。
来月からは大学部の新校舎だ。あの特別教室棟をこの部室の窓から臨む事も無いだろうし、また、あの窓辺からグラウンドを彼女と並んで見下ろす事も無いのだろう。開け放った窓から、湿度を含んだ風が、一枚の写真を俺から攫って行った。まるで『さようなら』と告げられたような気がした。
手を伸ばして掴み損ねたそれは、高く遠く薄桃色に滲む、桜雨の空へ。
彼女の柔らかな声も。
冷たいその指先も。
その日も朝から雨が降っていた。
春の雨と云うのは殊更に風情があって、なぜか酷く感傷的な気分になる。特別落ち込むような何かがあったわけでは無いのだが、はらり。とまた一枚枝からその体を切り離して地面に落ちていく、桃色の花弁を見るたびに、心の奥深くから正体不明の焦燥感が、せりあがって来る。
憂鬱な気分で室内トレーニングを終え、シャワールームへそのまま飛び込むと、どうやら俺の前にタイミング悪くも、木戸が使用していたらしく、外国製のシャンプーから香る独特の匂いと、未だ空間を頼りなげに漂っている白い湯気に包まれた。濃密な湿度から、当然のように曇った眼鏡を外し、換気のために窓を大きく開ける。どうせ、誰かに見られて困るような柄でもないし、春休み中の今ならば人通りも少ないであろう。
何も考えずに俺は窓を開けたのだ。
そして直後に交差する視線。
一秒、いや五秒くらいはそのまま相手を凝視していたかもしれない。大きく見開かれた目に縁取られた長い睫毛が、瞬く。
「うわ!」
唐突に湧き上がってくる羞恥心から、妙な声があがった。
真向かいにある特別教室棟二階の窓辺で佇む、女子生徒の黒い髪が揺れ、赤い唇が何かを形作る前に、俺は慌てて窓を閉めたのだった。
「だから本当に居たんだってば! 女子の覗きが!」
「何、下らねぇ事言ってるんだよ」
呆れたように木戸は開いていた雑誌をぱたんと閉じ、ご丁寧に怜悧な視線を、俺に向かって投げかけた。
向かいでは柏原が菓子の袋をバリバリと開けながら「別に見られても困るもんねぇじゃん。女じゃないんだし」と笑う。
「そうだけど……なんか気味悪いじゃんか。もしかして俺、狙われているんじゃないのか? 得体の知れない女に『あ、江崎君だわ。今日もイイ体してる!』なんて。ストーカーとか、流行っているしさ」
「バーカ。自惚れんなっつーの。だいたいお前の前にシャワーを使っていた、オレ狙いかもしれないだろうが?」
「あ、そうか。その線もあるな……」
サッカー部のエースを張る、少々自意識過剰オトコの木戸の台詞に、俺は腕を組んだ。
「案外、江崎さんの次に、シャワーを使った柏原さん狙いかもしれませんよ」
いつの間にかシャワールームから出て来ていた後輩の言葉に、柏原が慌てた様子で蹴っ飛ばす真似する。小さな悲鳴をあげながら、後輩はシャワールームへと戻っていく。いつも通りの光景に、いつものメンバー。話題は、いつの間にか、春休みの特別教室棟の窓辺に佇んでいた正体不明の女子生徒に関するモノから、明日からいよいよ始まる最終学年についての話や、来週に行われる、練習試合の対戦校への攻略やらに変わっていった。
***
だから、忘れていたのだ。
あの日、あの雨の時間に、彼女と目が合った事など。
そんな一瞬の記憶は、それなりに忙しない日常の中に埋もれていく。日々、長くなっていく俺の過去の中で、そんな一欠けらの出来事など簡単に消えゆくのだと、思っていた。
今年の春の桜は、例年よりも早くに蕾みを膨らませ、一気に花を開かせた。そして満開を迎える頃に訪れた雨が、いっそ清々しいほどに花を散らせていく。結果的に入学式には、葉桜の並木の下を新入生達が列を作ったのだった。どことなく、いつもと少しだけズレた光景に、笑いが漏れたのを思い出す。
その日は、部活動が無かった。
といっても顧問が居なかった為、正式な部活動とならなかっただけで、俺達は自主錬という名の元にグラウンドへと集まっていた。相変わらずのサッカー馬鹿っぷりに、我ながら呆れ返る。とうとう最終の年となった訳だ。しかし中高大と続く、いわゆる一貫校であるこの学園に通う生徒達は、いわゆる受験の名を持った鎖には、縛り付けられていなかった。
充実した時間は、きっと永遠に続くのだろう――とさえ思えてくるような校風。恐らく学園の気質は俺に合っているのだ。いつか、この学園のOBでもある、我らがサッカー部の無口な顧問も、若かりし頃の自分もまたそうだった。と珍しくも饒舌に語っていた。わずらわしい干渉も無く、自分のやりたい事に精一杯打ち込める環境は、早過ぎると感じる時間の流れを、止めてくる。
学園の外周を軽く走って汗を流した後、柏原とストレッチをしながら、少しだぼついた制服を身に纏っている初々しい新入生達が、校門から出て行くのを眺めていた。
不意に、視界の端に揺れる色に視線が引き摺られる。
その色は確かに、校舎と云う光景の中に、すんなりと溶け込んでいたのだが――。
「おいおい、どこに行くんだよ江崎」
「あー、木戸には適当に言っといて」
「おいってば」
柏原の言葉は俺の耳を掠めただけで、消えていった。
足が、自然に向かう。
茶色のグラウンドを抜け出し、特別教室棟の扉を押し、階段を上り、廊下を渡り、突き当たりにある窓辺へ。
見たことの無い制服。うちの制服に似ているけれど、どこかが微妙に違う。ブレザーのエンブレムに刻まれている文字の形や、タイの色。それからスカートの丈に。ふくらはぎの辺りまでしかない、中途半端な長さの白いソックス。
「きみってさ……この学校の子じゃ、ないだろう?」
俺の声に弾かれたように、その女子生徒が顔を上げた。見開かれた黒い瞳が、俺をじっと見上げ、そのまま静止する。
「――あなた、この前も――」
驚いたような呟きに、俺は即座にきり返した。
「やっぱ、覗いていたんだ、ここから」
窓辺のすぐ下には部室棟がある。そしてその先には広いグラウンドと、校門まで続く桜の並木道。
「覗き?」
「サッカー部の部室」
俺は顎で一番角にある窓をさした。
そして、一瞬の戸惑いの後「サッカー部も、見ている」と、低くも高くも無い、耳に心地良いアルトが短く答えた。
「『も』?」
「そう」
「なんか、判らないけど……木戸とか?」
「木戸?」
「木戸。知らないの?うちのエースストライカーで部長」
「木戸君?」
ここにホクロがある。と指で顎の中央を示すと、思案顔が途端に緩む。
「あ、知っている。でも、私が見ていたのは、その――木戸君じゃないよ」
その答えに、なぜか俺はほっとしていた。
「じゃ、『俺』だったりしてねー」
冗談めかして口に出すと、彼女は吹き出した。
「『俺』くんの名前も判らないよ。顔は知っているんだけどねえ」
「この前、目ぇ合ったしな」
「――やっぱり、目、合ったんだよね、私たち」
おかしいなぁ。と呟きながら、彼女は首を捻った。
「きみの名前は何て言うの」
「――……名前」
俺の言葉に彼女は一瞬だけ、柳眉を顰める。けれども、次の瞬間には何かを思いついたように、唇の端を上にあげた。
「内緒。知らないほうが、ミステリアスでしょう。謎の女一号って事に、しておいてください」
「おいおい、一号って事は、二号も三号も居るのかよ? ストーカー予備軍が」
「ストーカー?」と、彼女は言いにくそうに言葉を続ける。
「うーん、私みたいなモノの三号は、居ないんじゃかなあ。でも探せば居るかもしれない。この学校広いしねぇ」
窓枠にもたれ掛かるように、彼女は身を乗り出して外を眺める。放課後の校庭は、俺らサッカー部を含め、陸上部や野球部やらの運動部の連中たちが、勇ましい声をあげながら、走り回っていた。また、特別教室棟の三階から聞こえてくる、吹奏楽部の奏でる外れた音も、放課後を彩る要素の一つである。
いつもの放課後。
当たり前の日常。
それなのに、この空間を彼女と共有している事が、酷く不思議だった。なぜなら、見覚えの無い制服を身に纏った彼女は、自然過ぎるほどごく自然に、その景色に溶け込んでいたからだ。
「それなら、この学校に咎められずに忍び込む方法を教えてくれよ。一応、守衛のおっさんが裏門の方にも居るだろう? 他校生はそう簡単に入れない筈なんだけど。最近は色々と物騒だしな」
彼女は不思議そうな顔をした。
「そう、だよね。よく考えてみると」
そしてポツリと呟くと、うんうんと納得したように頷く。
「やっぱり、どこかに秘密の抜け穴があるのか?」
「秘密の?」
「そう、破れたフェンスとか。って普通すぎるか。うーん、さっぱり想像がつかないな。万年補欠組みあたりなら、よく知っていそうだけど」
「そんなの無いよ。秘密の抜け穴なんて。たぶんだけどね。……今は、どうなんだろうあるのかなあ」
笑顔で返した彼女は、最後の言葉にだけ神妙な顔つきをする。
「まぁ、関係者だよ私。この学校のね」
「そんな意味深な言い方するの、ズルイんじゃない」
「だってほら」
大きな瞳で、俺をじっと見上げる。
「謎な女一号だからさ」
そう言われて、俺は何も答える事ができなかった。ただ、魅入られた、と思った。漆黒の瞳は静謐で、透明だった。もっと知りたいと、心の奥でもう一人の自分が告げていたのだが、それ以上、彼女に何も問うことが出来なかった。
***
「ねぇ、部活いかなくてもいいわけ? えーっと江崎くんは」
何度目かになるその言葉に、苛苛とした。
「あと五分くらいは平気」
俺は授業が終わった後、サッカー部に向かう前に、この場所に顔を出すのが日課になっていた。と云っても、彼女とこの窓辺で顔を合わせるのは今日で四回目だ。最初に視線が交差した雨の日を抜かして、入学式の放課後、それから四日前と昨日と今。彼女は、毎日、他校に不法侵入しているわけで無いらしい。特別教室棟で彼女の姿を見かけるのは、だいたい同じくらいの時間だった。当たり前の話だが、本館などの校内の他の場所で彼女に出会うことは無かった。他校の制服を身に纏う彼女が、どうやってこの校内に入り込んでいるのかは判らない。尋ねても彼女は曖昧に濁すだけで。
ただ、確かなのは窓から外を眺める横顔に、とても愛おしそうな物を見ている表情を浮かべていると云う事。ときおり、ほう、と溜息を吐いたり。窓枠に腰を掛けて足をぶらぶらとさせているのは、流石に褒められた行為ではないけれど。誰かを懸命に見ているのは、判る。今すぐにでも、ここから飛び降りて、その誰かの元に駆けつけたい、と背中が語っているように見えた。
俺は彼女が見ている相手が、誰なのかが、気になって仕方なかったのだ。
「なんだか、このまま消えてしまいそうなんだよな。きみって」
「ミステリアスかつ、儚げな女?」
俺の声に、グラウンドをじっとみつめていた彼女が、漸くこちらに視線を流す。
「名前も教えてくれないし。もう初対面じゃないだろ? って事は、俺ら友達って言ってもおかしく無い」
「『ともだち』かー。いいね、その響き」
その答えにむっつりと黙り込んだ俺に、彼女は茶化したように笑いかけると、腰を下ろしていた窓枠から、タイルの床へ、すとん、と降りる。重力を感じさせない、無駄の無い動きだった。思わずと腕を伸ばす。指先と指先が僅かに触れ合った。ひんやりとしたその冷たい指先を握りこむと、彼女は俯いた。
「手、つめた」
「……うん」
「冷え性?」
「違うと、思う」
いつまで経っても、俺の体温は伝わらない。彼女の指の骨を辿って手首に触れ、それから腕のラインを忠実になぞって肘に触れてみる。彼女はそれをじっと目で追っていた。不意に二の腕を掴むと、制服の下の体が震えた。唐突にわきあがる衝動のまま、抱き寄せる。彼女は身を硬くしたままで動かない。
困惑の色を瞳に浮かばせて、一度だけ俺を見あげ、また視線を伏せた。
どのくらいそうしていたのか。
けれど、どんなに彼女の体を、この腕に抱きしめていても、俺の体温は伝わらなかった。
それがなんだか悔しくて、唇を噛み締める。
「江崎テメェ!」
「あ」
地上からの木戸の怒声に、彼女は目を丸くさせ、俺の胸の辺りを押し返した。回されていた腕があっさりと解かれていく。
「ほら、やっぱり行った方がいいってば。部活さぼったりしちゃ駄目だよ」
「…………。今、行く」
睨むようにして見上げている木戸に向かって、肩を竦めて、答える。
「いってらっしゃい」
曖昧な笑顔で、手をひらひらと振る彼女に、予防線を張られたような気がした。それに反して彼女の名残を惜しむ俺の掌。感触を振り払うように背を向け、片手を軽く上げた。足早に階段を降りる。
「何がしたいんだよ、俺」
落とされた溜息の理由が見つからない。
***
部活をサボり続けた所為で、音楽教師でもある顧問から、彼の城である音楽準備室の資料整理を命じられたのはその翌日。特別教室棟に計らずしてした俺は、嘆息した。今日も彼女の姿を校内で見かけていない。昨日会ったばかりだと云うのにも関わらず、もう、一年以上も時間が経ってしまった様な感覚に陥る。腕を掴んだのが、いけなかったのだろうか。そのまま体を抱き寄せてしまったのが、悪かったのだろうか。後悔ばかりが頭の中を駆け巡っていた。
かなり長い間、開かれていなかったであろう木製の戸棚を乱暴に開くと、無造作に積み上げられていた紙の束が雪崩を起こし、床へと散らばる。ブレザーの袖が薄っすらと埃に汚れ、思わず溜息が零れた。これからの作業を考えると気が遠くなる。しかし彼女に会えない焦りや、考えていなかった訳では無い部活の事に関しての思いも、しとしとと柔らかい針のような雫を地上に落とす、雨の音を聞き流しながらの単純作業をこなしている内に、いつしかその杞憂の割合を減らして行った。
バラバラになったピースを、パート毎の楽譜に分けて真ん中の棚に並べ、下段の作業に取り掛かる。吹奏楽部のOB名簿か何かなのだろうか。平成十六年度と背表紙に書かれてあったファイルを最後に押し込むと、奇妙な達成感が心の内から沸き上がってきた。かなり変色した古いファイルの一番最初の年代は昭和だった。今から五十年近く前の代物だ。パラパラと中を捲ると、手書きの文字が所狭しと並んでいる。時代を感じさせるリストに思わず笑ってしまう。
せっかく整理したというのに、何冊か目に付いた年代のファイルを俺はわざわざ抜き取り、流し読む。手書きから、ガリ版刷りのファイルへと変節したのは、どうやら今から四十年位前になるらしい。人の秘密を覗き見しているような不思議な感覚だった。俺は夢中で羅列された文字を目で追っていた。誰とも知らない、他人の歴史を目で追う行為は、楽しい物とは思えない。
今思えばそれは、何か得体の知れない力が、俺の周りで動いていたのだと考えてしまうのは、ある種のこじ付けだろうか。そして偶然に、はらりとファイルから落ちた、何枚かの色褪せた印画紙に、俺は目を見張る。その瞬間、あらゆる時が止まった気がした。切り取られた過去。記憶。
「……は……嘘だろう……」
フルートを抱えている男子生徒の隣で、同じくフルートを手にしている一人の女子生徒が並んで写されていた。
「マジかよ」
暈けた色合いの中心で微笑む姿は、
「絶対、ありえない」
昨日の彼女のそれと、同じだった。
――アンサンブルコンクールにて、神城、……
その続きは文字が擦れ、判別が出来なかった。俺は、顧問の名前の隣に刻まれているであろう滲んだ文字の痕跡を、震える指先でなぞった。
「なんだよ、結局教えてくれないのか。名前は」
音楽準備室があるのは、特別教室棟の二階。
あの窓辺の並びにある。
そして君が見ていたのは――
「監督、準備室の掃除終わりました」
俺はポケットに手を突っ込み、躊躇した後、一枚だけをそこに残して、後はすべて神城先生に渡した。
「これって、先生の若い頃ですか?」
「ああ――」
柔らかに細められた目元は。
「懐かしいな」
彼女が、窓の向こうに寄せていた視線と。
たぶん、同じだ。
***
そして、桜の季節は、再び俺の元へ巡り来た。
雨が降っていた。
卒業を間近に迎えたその日も、雨が降っていた。三年間、置きっぱなしになっていた荷物を引き上げようと、部室に向かうと、同じ事を考えていたであろう先客が、既に数名居る。
「うわ、埃っぽいなここ」
俺の声に、床に座り込んで何やらごそごそとしていた柏原が、顔を上げた。
「お、江崎ちょうどいいタイミング、ちょっと窓開けてくれよ」
「はいはい」
途端に流れ込んでくる新鮮な空気に、生きた心地がした。雨が地上の汚れを、綺麗に洗い流していた。開きかけた桜の花が、寒そうに体を震わせている。そして、向かいには特別教室棟二階の窓が見える。きっちりと閉じられたガラスに映りこむのは、淡色の花弁を打つ、雨の行方だけ。
――今なら君のその、少しだけ時代錯誤なスカート丈の理由が判る気がする。
ぼんやりと、雨が描く軌跡を追っていると、隣に木戸が並んだ。
「なぁ、木戸」
「うん?」
「俺やっぱり、好きだったんだろうなあ、あの子の事」
俺の手元をチラリと見、木戸は薄く笑った。
「失恋か」
もうすぐ、この部室ともお別れだ。
来月からは大学部の新校舎だ。あの特別教室棟をこの部室の窓から臨む事も無いだろうし、また、あの窓辺からグラウンドを彼女と並んで見下ろす事も無いのだろう。開け放った窓から、湿度を含んだ風が、一枚の写真を俺から攫って行った。まるで『さようなら』と告げられたような気がした。
手を伸ばして掴み損ねたそれは、高く遠く薄桃色に滲む、桜雨の空へ。



