「湿度やべーー」
「降ってないけど暗いしな」
六月も半ばになっていよいよ梅雨ど真ん中といった時期だろうか。雨は降っていないものの、じめじめとした空気が教室内にも漂いなんとなく重苦しさを感じる。普段感じない空気の存在を、肌のべたつきがここぞとばかりに訴えてきた。
終礼の先生が教室をあとにして、ざわざわと喧騒を取り戻す。
「おまえ今日も自主練すんの?今日は早めに帰らないと降られるぞ」
「あーでも七月入ったら期末もあるから、今のうちに練習しときたいんだ」
「はー部長さんは伊達じゃないね」
赤シートで仰ぐ生田は仕舞いには制服の襟口をぱたぱたとさせている。ローテーションで言葉のリアクションだけ大仰な彼は他人事のようにリュックを背負った。
俺もリュックを持って教室を後にする。今日は部活がない曜日だが、旧校舎の空き教室で自主練するべく、渡り廊下へ進んだ。渡り廊下は高等科二階から繋がっているため、階段を一つ降りなければいけない。高二の階は高三と違ってなんとなく活気がある。こんな湿気の中でも元気でいられるのは若さ故か、と一年しか変わらない後輩たちが眩しく映った。
途端、廊下の人混みの中に頭ひとつ抜けた金髪を見つけた。長身のくせに少し猫背気味で気だるげな歩き方は身近に一人しか見覚えがない。
「あ、上野」
俺のひとりごとは奴に届く前に人混みにかき消されてしまう。たまに廊下で見かける時は大体友人に囲まれている上野が、珍しく一人。別にやましいことがある訳ではないが、なんとなく声はかけずに目で追う。昇降口の方に流れて行く人の波を抜けて、渡り廊下の方へと進んでいった。倉庫か何かに用があるのだろうか。旧校舎に歩を進めると先ほどまでのざわめきが嘘かのように静寂が訪れた。
ただでさえ薄暗い旧校舎が外の暗さも相まって不気味さを加速させている。
「あれ、こっちの方は...」
「先輩ストーカーっすか?」
「あ」
空き教室前の廊下で上野が振り返る。俺の挙動はいつからかバレていたらしい。
「いや、お前こそなんでこんなとこ」
「はあ?先輩が言ったんでしょ。キャストは自主練してもいいって」
「自主練!?お前が!?」
上野の口から発せられたとは思えない文字列に思わず耳を疑う。目の前の男は本当に上野なのだろうかと肩を掴んでしまう。
「はあ失礼っすね、俺だってちょっとは考えてみたんですよ。不確かなもの目掛けて頑張るっつーのも一旦やってみてからじゃないと文句言えないなって」
「お、お前、本当に上野か?」
「はいはい先輩の大好きな佑くんですよー、暑いんで中入ってもいいっすか」
俺をあしらって早々に教室に入っていく。こいつの俺が上野のことを好きだという前提の言葉たちは一体何がその自信をつけさせているのだろうか。少し迷って冷房を付けた。
「折角自主練来たからにはちゃんとやってもらうからな。まずはお前がいつもサボってる発声から」
「俺声でかいんでいけますって」
「腹式呼吸バカにしてると痛い目見るぞ。どれだけホンや演技が良くても聞こえなくちゃ意味がないだろ」
適当に鞄を置いて教室前方の机と椅子を少し後ろの方に下げる。空いたスペースに上野と並んで立った。
「一回あーってでかい声で言ってみろ」
「えー、こう?」
面倒そうに上野が少し声を張る。そこそこ声量は出ているが、明らかに喉から出ている発声だ。
「それじゃ続けてるうちに喉痛めちゃうぞ。いいか?腹式呼吸は寝てる時の呼吸なんだ。寝てる時にお腹が上下するのをイメージして、あーーって」
「うわ、声でか」
上野はまるで初めて聞いたかのように新鮮な驚きを見せる。一月ほど前に新入部員全体に向けて説明したはずなんだが。
「あーーーっ!こうっすか?」
「いい感じだけどちょっと惜しいな。一回感覚的に捉えた方がいいかも、ちょっと触るぞ」
息を吸う時にお腹に空気が入るのを感じてもらった方が早い。と俺が高一の時に先輩に教わったのを思い出して後ろから抱きかかえる形で上野の腹部に手を当てる。意外と腰の位置が高くて、脚の長さの違いを見せつけられた気がして少し眉をしかめたのは内緒だ。
顔を上げればなんだか怪訝そんな表情をした上野と目が合う。
「先輩誰にでもこういうことしてるんですか」
「なんだよ、まあ新入部員とか上手くできてない子がいたら手伝ったりするけど」
「......セクハラで訴えられますよ」
「言いがかりやめろ。いいから発声してみろって」
またふざけたことを言っている上野を諫めて発声をさせる。今度はしっかり腹式で出せている声がした。
「おお!これだよ!!やればできるじゃん」
いつも思うがやれば出来るのにやろうとしないのが上野の勿体ないところだ。俺みたいに練習や回数を重ねないと何事も習得できない人間がいるというのに、全く神様は人間作りが下手くそなようだ。
「すご、俺初めてこんな芯の通った声出ました」
「何かができるようになるって意外と楽しいだろ?」
「あーまあ、」
煮え切らない返事だが成功体験を積み重ねることでいつかこいつの考えも変わるだろう。教室の端に置いていたリュックからタブレットを取り出して脚本を書いているアプリを開く。
「じゃあオーディションの台詞から練習していくぞ。最終下校までやるからな」
「えーーパワハラ熱血指導やめてくださーい」
上野が根を上げて座り込む。嫌そうな口調のわりに少し楽しそうにこちらを見上げていた。
***
「降られたな」
「っすねーー」
高等科昇降口の前。意外にも自主練に熱中してしまい、最終下校直前に見回りの先生に半ば追い出される形で階段を降りてきた俺たちの目の前には無数のシャワーが降り注いでいた。生田の今日は降るんだから早めに帰れよなんて声がリフレインする。
「しょうがない、帰るか」
「あ、俺、教室に折りたたみ忘れました」
「は」
コンクリートに容赦なく打ち付ける雨を前に覚悟を決めた俺の横で、腑抜けた後輩はそんなことをのたまう。咄嗟に校舎の方を振り返るががっちり昇降口も窓も鍵をかけられており、もう退路は断たれているようだった。
「まあどうしようもないんで腹括りますかね、じゃ」
「いや待て待て待て」
変なところで潔い彼は申し訳程度に鞄を頭上に掲げて雨の戦場に繰り出そうとしていた。
「そんな平成の漫画みたいなスタイルで送り出せるかよ」
「でもどうしようもなくないっすか」
「あーー.......傘入るか?折りたたみだからちっちゃいけど」
「え」
流石にこんな豪雨の中放り出すわけにはいかなくて引き留める。一人用の置き傘だから満足に男二人が濡れずに帰れるとは到底思えないが、ないよりは幾らかマシだろう。そう思って提案したもののなんだか驚いたような顔をされてこちらも気まずさが漂う。そんなに変なことを言っただろうか。
「え、あ悪い、嫌ならいいんだ。あとちょっと待てば少しは収まるだろうし俺の使って...」
「あいや借ります!入ります相合傘!!」
「は、はあ?」
気難しそうな顔をしていたかと思えば飛び出してきたのはそんな言葉で拍子抜けする。一般的にこの状況は相合傘とは形容し難いはずだ。
「俺、持ちます」
「ああ」
多少の申し訳なさはあるのか細い傘の持ち手を握る彼と共に校舎を後にした。見た目があまりにも豪雨だったおかげか、いざその下に来てしまえば量が多いだけで強さ自体はそれ程でもないことに気づく。雨音は強くないのでなんの不自由もなく会話できる状況だ。が、逆にそれがなんとなくの気まずさを加速させる。
上野が相合傘だとかふざけたことを言っていた所為だろうか。俺の右肩から時折触れる上野の体温が伝わってくすぐったかった。先程までは演技の話をして盛り上がっていたものの、生身の淡島景になってしまうと驚くほどに言葉が出てこない。
「先輩」
「ん?」
そんな沈黙を破ったのは上野の方だった。濡れないために寄ってきてくれているおかげでいつになく近い上野の声が斜め上から降り注ぐ。
「俺、父親が演劇関係の仕事してて」
「え」
「最初は普通の企業でサラリーマンしてたんですけど、ある日急に夢を諦めきれないとか言って劇団員に転身して。最初はまあ良かったんですよ二足のわらじとかで」
「お、おう」
突然始まった上野の父親の話になんだかこちらも緊張する。にしても家族に演劇関係者が居たとは驚きだ。
「でもこういうのって一回その世界に入ったら終わりなんですよね。どれだけ実現が難しいものか分かっていても、いつかは実るかもって夢を追うのを辞められなくなったみたいで。会社の方も辞めて売れない劇団員だけ続けて」
「....ああ」
「独り身なら好きにやってくれていいんすけどね。次第に生活が苦しくなって、母親は無理矢理パートの仕事増やすようになりました。俺も父親に巻き込まれて中学の時ちょっと演劇齧ったけど母親に止められてすぐ辞めました。家族間の会話も減ったし、たまたまそれが演劇だっただけなんすけど、俺にとって演劇って家族を壊した最悪のものなんです」
上野の演技のうまさはやはり経験があったからか、と一人で腑に落ちる。話の重さに比べて上野の語り口調は一定で、怖いくらいに感情が付随していない。俺はなんだか顔を上げて彼の顔を見る権利が与えられてないような気がして曖昧な相槌を打つことしかできなかった。
「ごめんなさい突然こんな話。でも先輩がびっくりするくらい親身になって色々教えてくれるから、俺も演劇とか毛嫌いする理由くらいは言っといた方がいいかなって。」
「...そっか、話してくれてありがとう」
「俺の考えは変わらないですけど、先輩ががむしゃらに演劇に向き合ってるの見ててそういうこと言うの、空気読めてなかったのは認めます。入部してすぐとか普通に八つ当たりしてただけだし、ごめんなさい」
上野が足を止めて頭を下げる。生意気で頭の硬いやつだと思っていたが、案外真面目な人間なのかもしれない。
「...一応聞くけど、そんなに演劇に嫌な思い出があるのに入部してきたのはなんでなんだ?」
恐る恐るずっと気になっていた疑問を投げかける。
「あー、多分知りたかったんだと思います。俺はこんなに演劇に人生振り回されてるのに、皮肉なくらい俺の周りは演劇バカしかいないんです。父親も、ヤマだって。そんな時に先輩に出会って、また演劇バカがいるって思いました」
「なあ貶してるか?」
「褒めてるんですよ。こんなに俺の前に立ちはだかる演劇ってやつの何がいいのかいっそ入って見てやろうと思って。まだ理解はできないけど、あとちょっとくらいは続けてやってもいいなって思ってます」
そう言って上野は目を細めて微笑んだ。いつもの憎たらしい嘲笑じゃない、純粋な笑顔を見た気がした。
「いいよ、顔上げてくれ。お前の言うことも一理あるし、確かに生意気だけど悪意があるわけじゃないのも分かってるから」
「....そ、っすか」
「なんだよしおらしいな」
「俺はしおらしい悩める後輩にもなれるんです。ほら、もっと慰めてくれてもいいんすよ?」
「言った側から生意気だな。傘俺のもんだってこと忘れんなよ」
「げ、すいませーん」
先程までのしおらしさはどこへやら、いつも通りの口調に戻った上野に少し安堵する。
傘を持つ彼の手首を引っ張って無理矢理歩かせる。
「...こんなこと言っといてなんですけど、俺も先輩の演技、結構好きだったりするんです」
「そうか、ありがとうな」
雨足は少し強まった気がするが、なんだか晴れやかな心持ちだった。
***
「淡島先輩いますかー?」
翌日。昨日の雨が幻だったかのように過ごしやすい気候の中、高三C教室に聞き慣れない声が響いていた。
「うわ声でか、って上野じゃん」
「は?うえの?」
入眠授業代表の公共が終わったお昼時。うつ伏せで意識を失っていた俺の後ろから、生田が面白いものを見つけたような声色でそう呟く。
入り口の方を見ればあの金髪が俺の席を見つけてちょいちょいと手招きしている。教室内の視線が集まっているのに居た堪れなくなって駆け足で廊下へ飛び出た。
「おまえ...!あんなでかい声で呼ぶなって」
「いやあ腹式の有効活用っすよね」
「部活で使ってくれよ、それでなんだわざわざ」
「あ、これ!」
本題を急かすと右手に持っていた手提げ袋を見せてくる。このサイズ感は、
「お菓子作ってきたんで、良かったら食べてくれませんか、的な?」
「え」
「昨日のお礼っすよ!傘入れてもらったんで」
「いやそんなお礼もらうほどのあれじゃ」
予想外の言葉に目を丸くする。確かに昨日は傘を貸したが、駅に着く頃には上野のシャツの色がすっかり変わっていたのを覚えている。傘に入れた、というよりは傘を持たせて自分だけ濡れずに帰った、ような状況になってしまったので謝るべきはどちらかというとこちら側だ。
「今まで結構迷惑かけてきたし、俺にできるのこんくらいしかないんで。先輩いつもパックのミルクティーとかココアとかゲロ甘そうなの飲んでるんで甘いもん好きなのかなって思ったんですけど違いました?」
「いや、まあ好きだけど」
「じゃあ良かった!ちなみに俺は辛党なのでお返しはその辺で」
なんでお礼のお礼を受け取るつもりなんだこいつは。というか俺がいつも甘い飲み物を飲んでいることを知られていたのが予想外で気恥ずかしい。変に細かい奴だ。
「じゃ、俺戻りますね。また放課後部活で!」
上野は渡して満足したのか颯爽と階段を降りていった。俺だけが展開についていけずに小さな手提げ袋を持って立ち尽くしていた。振り返って教室の方に戻ると生田がによによと人を揶揄う時の目でこちらを眺めていた。
「淡島ぶちょー告白ですかー?」
「うるさいな、なんかお菓子貰った」
「おいまじかよガチ告白?遅めのバレンタイン?」
生田が俺以上にそわそわし始める。こいつは何に何の可能性を感じているんだ。
手提げ袋からご丁寧に包装された箱を取り出す。
「わ、すげ」
クッキーといえばのイラストや写真でよく見る白黒のクッキーが綺麗に整列していた。生田がアイスボックスクッキーか、なんて溢していたから多分そんな感じの名前なんだろう。
試しに一口摘んでみる。噛んだ途端ぼろっと砕けて口の中にココアとバターの風味が広がった。
「うま」
「うわーいいなー一個もーらい」
「あ、おい勝手に取るな!」
あまり高級な菓子とか分からないが、とにかくめちゃくちゃに美味いクッキーであるということだけが確定した。上野佑。十六歳。180近い金髪で多分世に言うイケメンの部類。生意気だが真面目な部分もある。そこに料理が上手い、が追加されては冗談でなく上野のモテゲージが上がってしまう。客観的な上野のスペックの高さに気づいて頭が痛くなった。
「...あいつなんで俺なんかに構ってくるんだろうな」
「えなんふぁ言っふぁ?」
「おいお前食い過ぎだ!」
「降ってないけど暗いしな」
六月も半ばになっていよいよ梅雨ど真ん中といった時期だろうか。雨は降っていないものの、じめじめとした空気が教室内にも漂いなんとなく重苦しさを感じる。普段感じない空気の存在を、肌のべたつきがここぞとばかりに訴えてきた。
終礼の先生が教室をあとにして、ざわざわと喧騒を取り戻す。
「おまえ今日も自主練すんの?今日は早めに帰らないと降られるぞ」
「あーでも七月入ったら期末もあるから、今のうちに練習しときたいんだ」
「はー部長さんは伊達じゃないね」
赤シートで仰ぐ生田は仕舞いには制服の襟口をぱたぱたとさせている。ローテーションで言葉のリアクションだけ大仰な彼は他人事のようにリュックを背負った。
俺もリュックを持って教室を後にする。今日は部活がない曜日だが、旧校舎の空き教室で自主練するべく、渡り廊下へ進んだ。渡り廊下は高等科二階から繋がっているため、階段を一つ降りなければいけない。高二の階は高三と違ってなんとなく活気がある。こんな湿気の中でも元気でいられるのは若さ故か、と一年しか変わらない後輩たちが眩しく映った。
途端、廊下の人混みの中に頭ひとつ抜けた金髪を見つけた。長身のくせに少し猫背気味で気だるげな歩き方は身近に一人しか見覚えがない。
「あ、上野」
俺のひとりごとは奴に届く前に人混みにかき消されてしまう。たまに廊下で見かける時は大体友人に囲まれている上野が、珍しく一人。別にやましいことがある訳ではないが、なんとなく声はかけずに目で追う。昇降口の方に流れて行く人の波を抜けて、渡り廊下の方へと進んでいった。倉庫か何かに用があるのだろうか。旧校舎に歩を進めると先ほどまでのざわめきが嘘かのように静寂が訪れた。
ただでさえ薄暗い旧校舎が外の暗さも相まって不気味さを加速させている。
「あれ、こっちの方は...」
「先輩ストーカーっすか?」
「あ」
空き教室前の廊下で上野が振り返る。俺の挙動はいつからかバレていたらしい。
「いや、お前こそなんでこんなとこ」
「はあ?先輩が言ったんでしょ。キャストは自主練してもいいって」
「自主練!?お前が!?」
上野の口から発せられたとは思えない文字列に思わず耳を疑う。目の前の男は本当に上野なのだろうかと肩を掴んでしまう。
「はあ失礼っすね、俺だってちょっとは考えてみたんですよ。不確かなもの目掛けて頑張るっつーのも一旦やってみてからじゃないと文句言えないなって」
「お、お前、本当に上野か?」
「はいはい先輩の大好きな佑くんですよー、暑いんで中入ってもいいっすか」
俺をあしらって早々に教室に入っていく。こいつの俺が上野のことを好きだという前提の言葉たちは一体何がその自信をつけさせているのだろうか。少し迷って冷房を付けた。
「折角自主練来たからにはちゃんとやってもらうからな。まずはお前がいつもサボってる発声から」
「俺声でかいんでいけますって」
「腹式呼吸バカにしてると痛い目見るぞ。どれだけホンや演技が良くても聞こえなくちゃ意味がないだろ」
適当に鞄を置いて教室前方の机と椅子を少し後ろの方に下げる。空いたスペースに上野と並んで立った。
「一回あーってでかい声で言ってみろ」
「えー、こう?」
面倒そうに上野が少し声を張る。そこそこ声量は出ているが、明らかに喉から出ている発声だ。
「それじゃ続けてるうちに喉痛めちゃうぞ。いいか?腹式呼吸は寝てる時の呼吸なんだ。寝てる時にお腹が上下するのをイメージして、あーーって」
「うわ、声でか」
上野はまるで初めて聞いたかのように新鮮な驚きを見せる。一月ほど前に新入部員全体に向けて説明したはずなんだが。
「あーーーっ!こうっすか?」
「いい感じだけどちょっと惜しいな。一回感覚的に捉えた方がいいかも、ちょっと触るぞ」
息を吸う時にお腹に空気が入るのを感じてもらった方が早い。と俺が高一の時に先輩に教わったのを思い出して後ろから抱きかかえる形で上野の腹部に手を当てる。意外と腰の位置が高くて、脚の長さの違いを見せつけられた気がして少し眉をしかめたのは内緒だ。
顔を上げればなんだか怪訝そんな表情をした上野と目が合う。
「先輩誰にでもこういうことしてるんですか」
「なんだよ、まあ新入部員とか上手くできてない子がいたら手伝ったりするけど」
「......セクハラで訴えられますよ」
「言いがかりやめろ。いいから発声してみろって」
またふざけたことを言っている上野を諫めて発声をさせる。今度はしっかり腹式で出せている声がした。
「おお!これだよ!!やればできるじゃん」
いつも思うがやれば出来るのにやろうとしないのが上野の勿体ないところだ。俺みたいに練習や回数を重ねないと何事も習得できない人間がいるというのに、全く神様は人間作りが下手くそなようだ。
「すご、俺初めてこんな芯の通った声出ました」
「何かができるようになるって意外と楽しいだろ?」
「あーまあ、」
煮え切らない返事だが成功体験を積み重ねることでいつかこいつの考えも変わるだろう。教室の端に置いていたリュックからタブレットを取り出して脚本を書いているアプリを開く。
「じゃあオーディションの台詞から練習していくぞ。最終下校までやるからな」
「えーーパワハラ熱血指導やめてくださーい」
上野が根を上げて座り込む。嫌そうな口調のわりに少し楽しそうにこちらを見上げていた。
***
「降られたな」
「っすねーー」
高等科昇降口の前。意外にも自主練に熱中してしまい、最終下校直前に見回りの先生に半ば追い出される形で階段を降りてきた俺たちの目の前には無数のシャワーが降り注いでいた。生田の今日は降るんだから早めに帰れよなんて声がリフレインする。
「しょうがない、帰るか」
「あ、俺、教室に折りたたみ忘れました」
「は」
コンクリートに容赦なく打ち付ける雨を前に覚悟を決めた俺の横で、腑抜けた後輩はそんなことをのたまう。咄嗟に校舎の方を振り返るががっちり昇降口も窓も鍵をかけられており、もう退路は断たれているようだった。
「まあどうしようもないんで腹括りますかね、じゃ」
「いや待て待て待て」
変なところで潔い彼は申し訳程度に鞄を頭上に掲げて雨の戦場に繰り出そうとしていた。
「そんな平成の漫画みたいなスタイルで送り出せるかよ」
「でもどうしようもなくないっすか」
「あーー.......傘入るか?折りたたみだからちっちゃいけど」
「え」
流石にこんな豪雨の中放り出すわけにはいかなくて引き留める。一人用の置き傘だから満足に男二人が濡れずに帰れるとは到底思えないが、ないよりは幾らかマシだろう。そう思って提案したもののなんだか驚いたような顔をされてこちらも気まずさが漂う。そんなに変なことを言っただろうか。
「え、あ悪い、嫌ならいいんだ。あとちょっと待てば少しは収まるだろうし俺の使って...」
「あいや借ります!入ります相合傘!!」
「は、はあ?」
気難しそうな顔をしていたかと思えば飛び出してきたのはそんな言葉で拍子抜けする。一般的にこの状況は相合傘とは形容し難いはずだ。
「俺、持ちます」
「ああ」
多少の申し訳なさはあるのか細い傘の持ち手を握る彼と共に校舎を後にした。見た目があまりにも豪雨だったおかげか、いざその下に来てしまえば量が多いだけで強さ自体はそれ程でもないことに気づく。雨音は強くないのでなんの不自由もなく会話できる状況だ。が、逆にそれがなんとなくの気まずさを加速させる。
上野が相合傘だとかふざけたことを言っていた所為だろうか。俺の右肩から時折触れる上野の体温が伝わってくすぐったかった。先程までは演技の話をして盛り上がっていたものの、生身の淡島景になってしまうと驚くほどに言葉が出てこない。
「先輩」
「ん?」
そんな沈黙を破ったのは上野の方だった。濡れないために寄ってきてくれているおかげでいつになく近い上野の声が斜め上から降り注ぐ。
「俺、父親が演劇関係の仕事してて」
「え」
「最初は普通の企業でサラリーマンしてたんですけど、ある日急に夢を諦めきれないとか言って劇団員に転身して。最初はまあ良かったんですよ二足のわらじとかで」
「お、おう」
突然始まった上野の父親の話になんだかこちらも緊張する。にしても家族に演劇関係者が居たとは驚きだ。
「でもこういうのって一回その世界に入ったら終わりなんですよね。どれだけ実現が難しいものか分かっていても、いつかは実るかもって夢を追うのを辞められなくなったみたいで。会社の方も辞めて売れない劇団員だけ続けて」
「....ああ」
「独り身なら好きにやってくれていいんすけどね。次第に生活が苦しくなって、母親は無理矢理パートの仕事増やすようになりました。俺も父親に巻き込まれて中学の時ちょっと演劇齧ったけど母親に止められてすぐ辞めました。家族間の会話も減ったし、たまたまそれが演劇だっただけなんすけど、俺にとって演劇って家族を壊した最悪のものなんです」
上野の演技のうまさはやはり経験があったからか、と一人で腑に落ちる。話の重さに比べて上野の語り口調は一定で、怖いくらいに感情が付随していない。俺はなんだか顔を上げて彼の顔を見る権利が与えられてないような気がして曖昧な相槌を打つことしかできなかった。
「ごめんなさい突然こんな話。でも先輩がびっくりするくらい親身になって色々教えてくれるから、俺も演劇とか毛嫌いする理由くらいは言っといた方がいいかなって。」
「...そっか、話してくれてありがとう」
「俺の考えは変わらないですけど、先輩ががむしゃらに演劇に向き合ってるの見ててそういうこと言うの、空気読めてなかったのは認めます。入部してすぐとか普通に八つ当たりしてただけだし、ごめんなさい」
上野が足を止めて頭を下げる。生意気で頭の硬いやつだと思っていたが、案外真面目な人間なのかもしれない。
「...一応聞くけど、そんなに演劇に嫌な思い出があるのに入部してきたのはなんでなんだ?」
恐る恐るずっと気になっていた疑問を投げかける。
「あー、多分知りたかったんだと思います。俺はこんなに演劇に人生振り回されてるのに、皮肉なくらい俺の周りは演劇バカしかいないんです。父親も、ヤマだって。そんな時に先輩に出会って、また演劇バカがいるって思いました」
「なあ貶してるか?」
「褒めてるんですよ。こんなに俺の前に立ちはだかる演劇ってやつの何がいいのかいっそ入って見てやろうと思って。まだ理解はできないけど、あとちょっとくらいは続けてやってもいいなって思ってます」
そう言って上野は目を細めて微笑んだ。いつもの憎たらしい嘲笑じゃない、純粋な笑顔を見た気がした。
「いいよ、顔上げてくれ。お前の言うことも一理あるし、確かに生意気だけど悪意があるわけじゃないのも分かってるから」
「....そ、っすか」
「なんだよしおらしいな」
「俺はしおらしい悩める後輩にもなれるんです。ほら、もっと慰めてくれてもいいんすよ?」
「言った側から生意気だな。傘俺のもんだってこと忘れんなよ」
「げ、すいませーん」
先程までのしおらしさはどこへやら、いつも通りの口調に戻った上野に少し安堵する。
傘を持つ彼の手首を引っ張って無理矢理歩かせる。
「...こんなこと言っといてなんですけど、俺も先輩の演技、結構好きだったりするんです」
「そうか、ありがとうな」
雨足は少し強まった気がするが、なんだか晴れやかな心持ちだった。
***
「淡島先輩いますかー?」
翌日。昨日の雨が幻だったかのように過ごしやすい気候の中、高三C教室に聞き慣れない声が響いていた。
「うわ声でか、って上野じゃん」
「は?うえの?」
入眠授業代表の公共が終わったお昼時。うつ伏せで意識を失っていた俺の後ろから、生田が面白いものを見つけたような声色でそう呟く。
入り口の方を見ればあの金髪が俺の席を見つけてちょいちょいと手招きしている。教室内の視線が集まっているのに居た堪れなくなって駆け足で廊下へ飛び出た。
「おまえ...!あんなでかい声で呼ぶなって」
「いやあ腹式の有効活用っすよね」
「部活で使ってくれよ、それでなんだわざわざ」
「あ、これ!」
本題を急かすと右手に持っていた手提げ袋を見せてくる。このサイズ感は、
「お菓子作ってきたんで、良かったら食べてくれませんか、的な?」
「え」
「昨日のお礼っすよ!傘入れてもらったんで」
「いやそんなお礼もらうほどのあれじゃ」
予想外の言葉に目を丸くする。確かに昨日は傘を貸したが、駅に着く頃には上野のシャツの色がすっかり変わっていたのを覚えている。傘に入れた、というよりは傘を持たせて自分だけ濡れずに帰った、ような状況になってしまったので謝るべきはどちらかというとこちら側だ。
「今まで結構迷惑かけてきたし、俺にできるのこんくらいしかないんで。先輩いつもパックのミルクティーとかココアとかゲロ甘そうなの飲んでるんで甘いもん好きなのかなって思ったんですけど違いました?」
「いや、まあ好きだけど」
「じゃあ良かった!ちなみに俺は辛党なのでお返しはその辺で」
なんでお礼のお礼を受け取るつもりなんだこいつは。というか俺がいつも甘い飲み物を飲んでいることを知られていたのが予想外で気恥ずかしい。変に細かい奴だ。
「じゃ、俺戻りますね。また放課後部活で!」
上野は渡して満足したのか颯爽と階段を降りていった。俺だけが展開についていけずに小さな手提げ袋を持って立ち尽くしていた。振り返って教室の方に戻ると生田がによによと人を揶揄う時の目でこちらを眺めていた。
「淡島ぶちょー告白ですかー?」
「うるさいな、なんかお菓子貰った」
「おいまじかよガチ告白?遅めのバレンタイン?」
生田が俺以上にそわそわし始める。こいつは何に何の可能性を感じているんだ。
手提げ袋からご丁寧に包装された箱を取り出す。
「わ、すげ」
クッキーといえばのイラストや写真でよく見る白黒のクッキーが綺麗に整列していた。生田がアイスボックスクッキーか、なんて溢していたから多分そんな感じの名前なんだろう。
試しに一口摘んでみる。噛んだ途端ぼろっと砕けて口の中にココアとバターの風味が広がった。
「うま」
「うわーいいなー一個もーらい」
「あ、おい勝手に取るな!」
あまり高級な菓子とか分からないが、とにかくめちゃくちゃに美味いクッキーであるということだけが確定した。上野佑。十六歳。180近い金髪で多分世に言うイケメンの部類。生意気だが真面目な部分もある。そこに料理が上手い、が追加されては冗談でなく上野のモテゲージが上がってしまう。客観的な上野のスペックの高さに気づいて頭が痛くなった。
「...あいつなんで俺なんかに構ってくるんだろうな」
「えなんふぁ言っふぁ?」
「おいお前食い過ぎだ!」
