氷王子の心を溶かせ

話したことない、顔だって知らない。
だけど俺はこの学校で"氷王子"と呼ばれるやつが嫌いだった。




「理数科の連中が今からサッカーやるらしいぜ!」

昼休み、誰かのその一言で教室が急に騒がしくなる。

「えーやば!絶対見に行こ!」

「俺らも入れてもらおうぜ!」

「え、理数科ってことは……」

男女問わず学年中が盛り上がる。

「氷王子いるじゃん!」

氷王子、という言葉に俺——舞坂広(まいさかひろ)は眉がピクリと動くのを感じた。

ふと横を見ると理数科の集団がぞろぞろ歩いていた。廊下は女子で溢れかえっていて、彼らが通るとぶあっと甲高い歓声を上げる。

「おーい舞坂、お前行かんの?」

声をかけられてふと気づく。教室は空っぽでみんなグラウンドへ行ったようだ。

素直に着いて行けばいいのに、なんで俺はここで笑顔になれないんだろう。

「……俺はいい」

自分でも愛想が悪いなと思いながらも、クラスメイトにそう言い放ち教室を出る。





俺の通う私立香陵(しりつこうりょう)高校は各学年ひとクラスだけ理数科が設置されている。その偏差値は県内私立トップ。つまり彼らは選ばれしエリート集団なのだ。

常に学校の中心にいる、尊敬と称賛の的。

ふんっ、と鼻を鳴らす。

「……なにが氷王子だよ」

つぶやいた言葉は空虚な階段に響くことなく落ちた。





「お、舞坂くんじゃないですか。今日の昼の水やり当番は僕たちですよぉ」

ああ、ここだ。やっぱりここが1番落ち着く。

『園芸部部室』と書かれた教室のドアを開けると、聞き慣れた声にほっと胸を撫で下ろした。

クラスメイトで園芸部の立花幸希(たちばなこうき)。長くゴワゴワした髪に文学小説を書いているような、真面目というより少し不気味な風貌の男。

「手伝いに来た。暇だし」

「あれ?さっき理数科がサッカーやるってみんな騒いでたけど、行かないんですか?」

「ふん、誰が行くか。みんな揃いも揃って理数科だの氷王子だの媚売りやがって!そんなにえらいのかあいつらは!」

「強気ですねぇ」

「休み時間廊下を通るたびに氷王子、氷王子って。なに?アイドルなの?あーくだらない」

不機嫌な俺に、ははは、と立花は宥めるように笑う。

「なに?嫉妬ー?」

立花の後ろからひょこっと顔を出したのは同じくクラスメイトで園芸部の藍沢蓮(あいざわれん)だ。

「は?ちがうし」

「じょーだんじょーだん、でも大丈夫なん?マイマイ先週のクラス会も参加しなかったし」

「あの日はなくなった肥料の買い出しに行ってたんだよ……!」

俺は座って息を吐いた。

「でも、」

グラウンドから声援が遠くに聞こえる。

「やっぱ俺も行った方が良かったのかなー」

「あれ、急に弱気ですねぇ、舞坂くん」

今になって少し後悔。いつもこんな調子だ。

「いや、でも俺サッカーできないし、やりたくないのに無理してみんなに合わせるっていうのも、そもそも俺は理数科なんていけ好かないし、でも」

言い訳のように口先から言葉があふれ、

「あー、やめやめ!」

俺は邪念を振り払うように頭を振った。

もし俺が理数科のやつらのように何をしてももてはやされるような人生なら、こんな風にいちいち悩まなくて済むんだろうか。
正解がどれかに悩まず、選んだものが正解になる人ならきっと、自分に自信が持てるんだろうな。

「なあ」じょうろに水を入れる藍沢の背中に呼びかける。

「あ?」

「氷王子ってどんなやつ?」

ふと聞いてみたくなった。

「あー、2年理数科のトップの男だよ。成績優秀でスポーツ万能。それに加えてありえんくらいのイケメン」

「なにそれ、ツチノコ?ユニコーン?」

そんなやつが存在するのか?

「ああでも、性格は悪いらしいぜ。絶対に笑わないし、基本的に無愛想で塩対応。ただスペックが異次元に高いから人気者だけどな」

「ふーん」

「……ってことで!俺もグラウンド行ってくるわ!」

「はあ!?」

「俺も氷王子と仲良くなりたい!」

目をキラキラさせながら藍沢はロケットの如く部室を飛び出していった。

こいつも騙されてやがるのか。

「……立花は行かないの?」

「僕も行きたいんですけどねぇ、今日はローファーで来ちゃったんですよ」

「あそう」俺は立ち上がって立花水やりを手伝うことにした。





「そうだ。次の花植え、メインは夏の花……ひまわりにしようと思うんだけど、どう?」

5時間目の予鈴が鳴り、部室を出た俺と立花は歩きながら『季節の花図鑑』をペラペラとめくる。

「いいじゃないですか!夏の花壇コンクール、今年こそ金賞取りましょう!」

「周りにはマリーゴールドとか?黄色とオレンジが、あ!ほらこんな感じで……間をもう少し小さい花にするとか?いやーでも同系色だよな……うーん、やっぱりこっちの、」

「ふっ」

「え、なに?」謎に吹き出す立花に思わず足を止めた。

「舞坂くんはそれでいいと思いますよ。みんなに流されない、花にしか興味ない舞坂くんで」

廊下にはサッカー観戦から戻ってきた人たちが興奮冷めやらぬ様子で忙しく教室へ戻って来ているところだった。

「僕はトイレに行ってから行くので、先戻っててください」

「お、おう」

立花を見送ると廊下の奥から人が押し寄せてくる。

氷王子のおなりってか?大名行列かよ。

「ねえさっきの試合見た?」

「めっちゃゴール決めてたよねーかっこいい!」

「いやー、氷王子としゃべれんかったわー」

「お前じゃむりだろー、今度は俺も誘えよな!」

そんな声と共にみんなの視線が一方向に向く。
きっと奥から氷王子が歩いてくるのだろう。

俺は氷王子の顔も名前も知らない。

別に知る必要もないから、俺は彼を一目見ようとごった返す廊下をすり抜け、教室へ入った。





翌日。

「……ったく、ここはゴミ捨て場じゃないっつうの」

園芸部の部室は半分倉庫と化しており、先生やら生徒会やらが使わなくなった荷物を置いていく。何に使ったのかよく分からないポールに捨てても良さそうな書類の束、木の板やプラスチックのカゴなどなど……

そこに新たに大きい段ボールがひとつ。

まあこれはゴミではなく今日の授業で使うものらしいけど。

これを職員室へ持ってこいと学年主任が言うので、俺は朝の水やりと軽い草むしりを終えた後の制服に土埃が付いたまま、カバンと段ボールを抱えて職員室を目指す。

いったい何が入ってるんだ。
鈍い重さが両腕にのしかかり、イラつきながら階段を降りていると、朝礼5分前のチャイムが校舎内に響き渡った。

「やばっ、ギリギリだ」

駆け足で階段を降りていたときだ。

ドタンっ!

「うわぁっ!!」

嫌な予感。
視界が悪く、勢いよく階段を踏み外した俺はバランスを崩し、全身に衝撃波を受けた。

「……うっ」

誰かの低くうめく声が近くに聞こえる。

「痛っ……す、すいません!大丈……」

え?え!え!?

つぶっていた目をおそるおそるあけると、サーっと血の気が引いた。なんと俺はぶつかった男子の脚の間で前傾姿勢になり、両手を床についた体勢だった。

ありえないほど整った顔がもう、すぐ近く。

こちらを睨みつける鋭い目、真っ黒な髪。冷ややかな表情。明らかに不快感丸出しだ。

「ほ、ほんとにすいません!あの、頭大丈夫ですか?」

「……は?」

「ん?あ、いや、違くて。頭大丈夫ですかっていうのはバカにしてるとかいう、そういう意味じゃなくて、け、怪我とかしなかったっていう意味で、えっと……」

何を言ってるんだ俺は。

男を押し倒し、頼まれた荷物をひっくり返し、もう訳がわからない。
辺りを見渡すと、ダンボールとその中身、教科書に授業ノート、筆箱、スマホなどが散乱していた。

「……すいません」

俺の言葉に無言の男。
彼とバッチリ目が合った俺は身動きひとつ出来なくて、不可抗力を疑うほど不思議と顔を逸らすことができなかった。

なんだこれ……

まるで氷柱に刺されたみたいだ。
ひんやり痛くて、でも神秘的な美しさに抗えず留まる。





「……邪魔なんだけど」

彼のスンとした声で我に返る。
一瞬にして朝の暖かな空気をさらい、この空間を冬に変える冷たい声。

「……あ」

「はやく退いてくんね、邪魔」

彼は舌打ちをして俺を押し退けた。睨みを効かせたまま、足元に落ちているカバンを俺にぐいっと無言で押し付ける。

なに、こいつ……怖。てか、感じ悪。





しばらく方針状態だった俺の前から男はいつの間にか消えていた。

「……なんだ、あいつは、」

呼吸を忘れていたみたいで乱れた息を整える。

ぶつかった俺が悪いのは分かるけど、わざとじゃないんだし、もう少し人と接する態度ってもんを……

「ん?」

散らばった荷物の中に名札を見つけた。俺のは付いているからあいつのだろう。

『2年8組理数科 氷室一澄(ひむろいずみ)

誰か知らないけど
やっぱり気に食わない、理数科のやつは。





「今日からしばらく総合の時間はバジルの栽培をします」

6時間目。この時間は全クラス同じ内容だ。
校庭や中庭など決められた場所でバジル育てる授業らしい。
中庭には6、7、8組が集まっており、クラスメイトたちはだるそうに話を聞いている。

中庭にはチューリップとパンジーが咲いていた。無論、俺たち園芸部が春から育ててきたものだ。こうやってみると本当にきれいに咲いていて、毎日お世話をしてきたからか愛着がある。

「だいたいの流れはこんな感じです、では各自始めてくださーい」

先生の合図で一気に空気が緩んだ。

「おっしゃーマイマイ一緒にやろうぜー」

「部活で毎日土いじりやってるので楽勝ですねぇ」

俺たちはペットボトルで作った簡易的な鉢植えに土を詰めていく。

「てかマイマイが朝運んだのってバジルの種だったんだな」

「そう、マジで重かった。まだ肩痛いもん」

「だから朝教室入るのギリギリだったんですね」

「あー!」

朝の出来事を思い出し、苛立ちが蘇ってきた。

「なんだよマイマイ、大きい声出して」

「段ボール運んでる時、階段でぶつかったやつがいたんだけどさ」

「え、大丈夫でしたか?」

本気で心配そうな立花にピースサインを送ると、藍沢は反対に目を輝かせて聞いてくる。

「ぶつかった?誰に?まさか、女子!?」

「んなわけないだろ、男」

「なんだよつまんねー」

「それで、そいつの態度がやばいのなんの。邪魔だとか言われて睨まれた」

「ははっ。まあでもぶつかったマイマイが100悪いだろー」

「それは分かってるよ!でもさ、必死に謝る俺にあの態度はないだろ!あの態度は!しかもなんか、怖かったし。完全にやるやつの目してた」

「まあまあ、怪我が無かったのならよかったじゃないですか。誰も悪くないですよぉ」

俺たちは整えた土に少し窪みをつけ、種をおく。これが1、2週間したら芽を出し、1ヶ月もすれば緑の大きな葉が出てくるのだ。

「で?誰なのその人。知ってる人?」

「知らん。そうだ、名札を拾ったんだった。絶対返してやらねー」

ゴソゴソをポケットを探り、名札を取り出す。
赤の学年カラーは2年生、俺と同じだ。

「こいつ。知ってる?」

「……」

藍沢と立花はその名札を見るなり、目を丸くして押し黙った。

「え?なに?知ってるの?」

「マイマイ……」

「舞坂くん、それって……ん?危ない!!」

立花の叫びになんだと声の方を見た瞬間、顔全体になにかが降りかかった。

「うっ」

「マイマイ大丈夫か?」

ジャージが砂や土で汚れている。

「井上たちだよ。さっきからペットボトル振り回したり土投げて遊んでる」

藍沢が指さす先にはペットボトルとそのキャップで野球をしている男たち。
クラスメイトの井上は言っちゃ悪いが不真面目な生徒だ。校則ガン無視の制服スタイルに髪型、俺が絶対に関わりたくないタイプの不良である。

「僕が注意してきましょうか?」

「いや、やめとけ。関わると面倒なことになる」

藍沢は身を乗り出す立花を制止した。

井上率いる不良集団は俺たちのことを全く気にすることなく大きな笑い声を上げながら遊び続けている。

気にするのはやめよう、時間の無駄だ。そう思って作業に戻ろうとした時、「うぇーい!!」とはやしたてる声が聞こえてきた。

「あっ……!」見た瞬間思わず声をあげてしまった。

井上は夢中になるあまり、後ろにあるプランターに気付かず足をぶつけて転んだのだ。
プランターごと横に薙ぎ倒されて、土と植えてあったパンジーが床に叩きつけられていた。

「ちっ、なんだよこれ邪魔だな!」

井上は不機嫌そうにプランターを蹴り、ついでといった感じでパンジーを踏み潰す。

「ははっ、おいお花が可哀想だろ」

「やばすぎウケる、花に謝れー」

「ははは!井上ダサすぎ。はい、1点負けな」

「もう1回だ小林!やるぞ!」

「うぇーい!!」

「やれー井上!」

「倒せー!」

誰も花を気に留めるようすもなく、再開された野球。
何事もなかったようにギャーギャーと騒いでいる奥で、くてんと横たわるパンジーと目が合った。

「……許せない」

俺は「やめとけよ」と止める藍沢の手を振りほどいて井上たち輪へと向かった。

「おい井上」

俺の声に中庭にいた他クラスの人までも一斉にこちらを振り返るのが分かった。
汗がじんわりと吹き出てくる。身体が熱い。

「あ?なんだよ」

身長180cmの大きな図体に俺の身体は震えていた。

「……花を、潰したろ」

「は?なんて?」

「花を、パンジーを踏み潰したろ?」

「だから?」

だから……?
俺はマグマが頭の最頂部に到達するのを感じた。バカなのかこいつ。

「なんか言うことないのかよ!」

語気を強めて言っても、井上は嘲笑し反省する様子もない。俺は井上からペットボトルを奪い取った。

「おい!ふざけんなよお前!」

井上の怒りのスイッチが入ったのか、目配せを受けた小林とその周りにいた人たちが俺を取り囲み、見事に身動きが取れなくなった。
クラスの端っこにいる陰キャ(俺)が実質クラスを仕切っている不良集団に囲まれている図。

怖くないと言ったら嘘になる。

「なにお前?あー、そっか。お前園芸部だっけ」

「……ああ」

「お前さ、教室でいっつも1人だけ違うことしてるよな。こんな時だけ何?なんなん?協調性ないん?」

「……」

「あーそっか、空気読めないんか!ははっ」

心臓が波打つ。心の奥を読まれたみたいだった。

「はみ出し者は嫌われるぞ」

「……うるせ、」

「正義のヒーローぶんないでくんね?キモいから」

これほどの悪意を出せる井上もそれはそれですごい。

「……いいから、花を倒したこと、」

「どーでもいいんだよ花は!ちっ、まじでだるいな」

そう言ってしばらくペットボトルの取り合いをしていたが、やはり体や力が大きなやつには勝てない。

まあそうなるよな。
俺は平均の男子高校生より小柄だし、運動ができるわけでもないから。

「うっ!」

肩を押されて盛大に尻もちをつく。

「へっ、ざまあみやがれ」

井上はそう言って元いた場所へ戻っていく。

「ねえ、先生に言った方がいいんじゃない?」

「いややめとけ。目付けられるぞ」

「でもあの子が……」

周りにいた人も気まずそうに退散していった。

うん、そうだよな。井上たちが間違っていたとしても誰もあいつらに言えない。下手したら自分が攻撃を受けるかもしれないのだから。

俺は唇を噛み締め、ぐちゃぐちゃになったパンジーを手で集める。

「マイマイ……」

肩に置かれた手は気にするなと言っている。
大丈夫だ。こんなことで打ちのめされてもしょうがない。





バンっ!!

沈黙を切り裂く……何かを蹴飛ばした音?

「え?今度はなに?」

「またケンカ?もうやめてよー」

「ねえちょっと待って、あれって……」





「おい」

そこにいる誰もが息を呑んだ。
初夏の清々しい空気を一瞬で凍てつかせるこの声を俺は最近聞いた気がする。

「何やってんの」

おそらく蹴ったであろうバケツが俺の足元で止まった。
真っ直ぐに井上のところへ歩いていくのは、

「あ、あいつは……」

今朝ぶつかったあのムカつく野郎ではないか。

確か名前は……

「ひ、氷室、俺は別に、な、何も……」

さっきまでの威勢はどこへやら彼——氷室の冷たい視線に井上は目を泳がせる。

「そのくだらない遊びいつ終わんの?さっさと退け、そこは俺らの場所だ」

井上たちの後ろには『8組理数科』のプレートが立っていた。

「ヒィッ!!」

井上は後ろを振り返った瞬間情けない声を上げ、慌ただしく去ろうとしたが、すぐに誰かが投げたらしいペットボトルを頭に受けてそのまま転んだ。

銃で撃たれたみたいに乾いた音が中庭に響く。

「うわあ、ごめんごめん。そんなに強く当てるつもりじゃなかったんだけど、へへ」

氷室の後ろから頭をかきながら出てきたのは茶髪のウェーブ髪の男。その後ろにいる生徒たちは……

「まって、理数科だよ全員!」誰かのその一言で井上たち不良集団は青ざめる。周りのギャラリーは場違いにも彼らの登場に沸いていた。

「ひ、氷室……これは、その、わ、悪かった」

「さすがは普通科だな。バカばっかり。いいからそこの土掃除しとけ。あとついでにそいつにも謝っとけ」

「え、」唐突に指を指され、呆気に取られて動けない。

こんなにあっさり終わるんだ。
誰もが自分に関係ないと、関係したくないと見て見ぬふりをすることを彼は戦隊モノのヒーローみたいに華麗に解決してみせた。

息が詰まるほどの圧倒的なカリスマ性。絶対服従の王様。
飲み込まれそうなほど強い力だ。

その命令を断れるはずもなく、不良たちは散らかした土を掃除し始めた。幼稚園児がいたずらをして先生に怒られた後みたいな空気だ。

「ま、舞坂」

井上が俺を呼ぶ声は弱々しい。
見上げると苦虫を噛み潰したような顔をした井上がぎこちなく頭を下げた。

「その……悪かった」

「え?ああ、うん」

「き、聞いてるの……か?」

せっかく謝ってくれたけど、謝罪なんてもうどうでもよかった。俺は廊下の影を目で追っていた。

「あーうんうん、聞いてる。もういいから」

「えっと……」

「ごめん、ちょっと行くわ」

「マイマイ!?」藍沢の声が遠くに聞こえる。

俺は今、なんで走っているんだろう?
なんであいつを追いかけているのだろう?

「あの!!」

人気のない廊下でやっと追いついた。大声で呼び止めると彼は心底めんどくさそうに振り返る。

「ん?あれー?さっきの人じゃん」

口を開いたのは氷室の横にいたペットボトルを投げつけたあの茶髪の男。胸元に目を落とすと『2年8組理数科 伊月瑠偉(いづきるい)』とある。友達だろうか。

「おい急に走るなって。待ってくれよ」

藍沢と立花が息を切らして追いつくと、目の前の状況に困惑したのか固まっていた。

「その……ありがとう、ございました」

そう一言、それ以外の言葉は出てこなかった。本当はもっと言いたいことがあったのに、言葉を整理する余裕がない。





「……それで?」

しばらくの沈黙の後、彼の声は重かった。

「え?ああ、えっと、それだけ。俺はただ、お礼を言いたくて」

「俺はお前に文句を言いたい」

「……へ?」

思わぬ回答に俺の頭の中は無数のはてなで埋め尽くされる。俺が負けたから?ダサかったから?
考えを巡らせていると氷室はポケットの中から1枚の紙を取り出して俺の目の前に突きつけた。

「遅刻届、5月27日……今日?」

香陵高校の朝礼開始時間は朝8時15分である。その時間までに教室に入れなかった生徒は職員室に行き、遅刻届を記入して学年主任の先生に届け出なければならない。たとえ1秒でも遅れたらアウトだ。

こいつが遅刻?今日?ま、まさか……
朝の出来事がフラッシュバックする。

「お前のせいで遅刻した」

氷室は左足を前に出し裾を上げる。足首には湿布とテーピングが巻かれていた。
足を捻って保健室に行ったから遅刻したのか……

「え、え?あ、えっと……」

「前を見て歩け、迷惑すぎる」

そう何度も責められるとこっちも黙っていられない。

「くっ……あんただって、」

「それから、」

反論はあっという間に遮られた。

「勝てもしないのに戦うな」

「…………は?」

一瞬でもこいつをかっこいいだなんて思った自分を殴りたい。
こいつはこいつで井上と同じくらいムカつくじゃないか。

「これで俺の内申点が下がったらお前のせいだからな」

氷室はそう吐き捨て去っていく。
いなくなった後も刃物のようにギラめく目が頭から離れない。

なんという恐ろしいやつ。自然と身体が震える。

「……」

目を見開いたまま動かないでいると、伊月くんが「おーい」と目の前で手を振る。

「全然気にすることないよ!氷室の成績じゃ1回の遅刻なんかどうってことないからさ!」

「……そ、そう、ですか」

「じゃ、またね!舞坂くんっ」

伊月くんはチラッと名札を見てから氷室の後を追っていった。

「ま、マイマイ?大丈夫か?」

「え、あ、うん」

全然大丈夫じゃない。

「まさか氷王子が助けてくれるなんでびっくりですねぇ、まあ態度はちょっと、あれでしたけど」

「ま、まあな……優しいんだかそうじゃないんだか」





……え?

氷、王子?

「藍沢、立花」

「ん?」

「どうしました?」

「もしかしてさっきのって……」

「氷王子って呼ばれてる、氷室一澄くんですよ」

心臓がドンと跳ねる。

「え?うそ、マイマイ知らなかったの!?」

「じゃあ、俺がぶつかって怪我させたのって……」

「天下の氷王子、ですね」





インド原産のシソ科の一年草、バジル。
その語源はバシレウス、王のハーブと呼ばれ、古代ギリシャでは神に捧げられてきた植物。そのためバジルが元気に育つと良いことが起こる前兆だと信じられてきた。

花言葉は……好意、神聖……『なんという幸運』

「おーい、マイマイ?」

「舞坂くん?しっかりしてください!」

「……最悪な、1日」





素敵な花言葉の神話は俺にはまるで関係ないらしい。

【第1話】なんという幸運 完