桐谷澪。私が半年前に転職してきた株式会社RoiHaのマーケティング部のCRMチームのサブリーダー。私も同じマーケティング部だが、広告チーム所属なので接点はほとんどない。
社内ではいつもツンとした顔をしていて、正直とっつきにくい。誰かと雑談しているのを見たことがないし、ランチもいつも一人。始業ぎりぎりに出社して、定時のチャイムと同時にPCを閉じる。
なのに、仕事は完璧以上にこなしている。上司の無茶ぶりにも淡々と対応し、社内でも一目置かれている。
だけど、私にとっては「怖い人」という印象の方が強かった。
入社して二週間くらいのとき、Slackで資料の共有をお願いしたことがある。
すぐに返ってきたメッセージは、たった一行。
「“いつまでに”“何のために”が抜けています。」
絵文字もスタンプもない。指摘自体は正しい。でも、あまりにも正確すぎて、まるでAIに返されたみたいだった。
それ以来、私は桐谷さんに話しかけることを、無意識に避けていた。
社内の誰かが「桐谷さんって、たぶんプライベートないんだろうね」と笑っていたときも、私は笑えなかった。
彼女のデスクの上にだけ、飾りひとつない。写真も、アクスタも、観葉植物も、なにもない。
ただいつも、無印の無味乾燥なマグカップに湯気が立つほど熱いブラックコーヒーが置かれている。
それが、私の知っている桐谷澪だった。
――その人が今、パーカーに黒のスキニーパンツ姿で、軍手をはめて、段ボールを軽々と持ち上げている。しかも、その人は、私に向かって朗らかに笑いかけてきたのだ。
いや、そんなことあるわけがない。あの桐谷澪が、タイミーでスキマバイトをして、しかもあんなに愛想をふりまくわけがない。顔がよく似た別人に違いない。さっき「桐谷さん?」って言ってしまった時も、ただ首をかしげていただけだったし。
……でも、どう見ても桐谷さんなんだよなあ。
そんなことを考えていると、つい段ボールを前にぼんやりしてしまっていた。
「大丈夫ですか? それはあっちのカゴですよ」
「えっ、あ、はい! すぐやります!」
スタッフさんに言われるままに段ボールを持ち上げる。見た目は小さくてもずしっと重い。逆に、やけに大きいのにめっきり軽い荷物もある。どれも見た目通りとは限らない。それらを届ける先の住所ごとにカゴに分けて詰めていくのが、タイミーワーカーの仕事だ。
送り状の住所を見て、カゴに入れる。ただ黙々とそれを続けるだけ。
――けれど、どうしても気になって、ちらりと視線を送る。
桐谷さんはよく働いていた。頬を赤らめながら、時々「お願いしまーす!」とスタッフに笑顔で声をかけ、慣れた様子で手際よく荷物を捌いていく。
桐谷澪の笑顔を、今日初めて見た。
切れ長の瞳が弓のように細くなり、化粧っ気のない顔に映える唇がふっと開く。そこから覗く歯が、思いのほか可愛らしかった。
桐谷さんの笑顔、こんな顔なんだ。
「ほら、これもお願いね」
「あっ、はい! やります!」
やけに軽い荷物を渡されて、気づく。――もしかして、私が初心者だから、持ちやすいものを選んでくれてる?
該当の住所のカゴに荷物を詰めていると、桐谷さんがすぐ横に来た。
「今日、初めてなんでしょ。重たいのは無理しなくていいよ。運べるやつからやれば大丈夫」
そう言って、彼女はまた軽やかに持ち場へ戻っていった。
声も、表情も、口調も――全部、会社で見た桐谷澪とは違っていた。
私はなんだか怖くなって、身震いを一つすると、「私、けっこう重たいのも持てま~す!」と勢いで言いながら、山になった段ボールへ駆け出した。
タイミーのバイトはたった二時間だ。身体を動かして働いているとあっという間に時間が来る。
「はい、じゃあ今日はありがとうございました。チェックアウトして気をつけて帰ってね」
時間が来るとすぐにスタッフさんがQRコードを差し出してくれる。先ほどの要領でアプリからQRコードを読み込むと、これで労働時間が終わったらしい。二時間働いて、交通費込みで三千円。たった三千円、されど三千円。昨日のランチ二回分。でも、汗で稼いだ三千円は、なんかやけに清々しい。
「今日はお世話になりました! また来ます、よろしくお願いします!」
なんだか気分が良くなって、スタッフさんにお辞儀をする。スタッフさんもニコニコと「はあい、またお願いしますねー」と言ってくれる。
会社の仕事とも、プライベートの友達とも違う、ただその場限りの労働力としての自分。でもそれは確かに役に立ったんだ。ふだんは広告なんて目に見えない数字ばっかり追っている仕事をしているからか、着実に荷物が減っていく感じがすごく新鮮だ。
気分が良くなっちゃった。このままお洒落なカフェでモーニングでも食べてから帰ろうかな。稼いだ分の給与半分近くなくなっちゃうけど、初タイミー頑張りました記念ってことで。
ニマニマしながら物流センターを出ると、入り口には桐谷さんが立っていた。
「ひっ!」
「あなた、花岡美桜さんよね」
私を見つめる彼女の視線は冷たく、表情がない、私がいつも会社で見かける桐谷澪そのものだった。
「あ、やっぱり桐谷さんだったんですね。桐谷さん、よくタイミーされてるんですか?」
「……言わないで」
「え?」
「会社の人には、言わないで。それだけ」
桐谷さんはそれだけ言うと、さっと駆け出して行ってしまった。
「あっ、えっ、言わないですよー! 私のことも言わないでくださいねー!」
桐谷さんの背中に向かって大きく声をかけたが、彼女はこちらを振り返ることなく結構なスピードで走って行ってしまった。
「桐谷さん、走るの早いんだ……」
社内ではいつもツンとした顔をしていて、正直とっつきにくい。誰かと雑談しているのを見たことがないし、ランチもいつも一人。始業ぎりぎりに出社して、定時のチャイムと同時にPCを閉じる。
なのに、仕事は完璧以上にこなしている。上司の無茶ぶりにも淡々と対応し、社内でも一目置かれている。
だけど、私にとっては「怖い人」という印象の方が強かった。
入社して二週間くらいのとき、Slackで資料の共有をお願いしたことがある。
すぐに返ってきたメッセージは、たった一行。
「“いつまでに”“何のために”が抜けています。」
絵文字もスタンプもない。指摘自体は正しい。でも、あまりにも正確すぎて、まるでAIに返されたみたいだった。
それ以来、私は桐谷さんに話しかけることを、無意識に避けていた。
社内の誰かが「桐谷さんって、たぶんプライベートないんだろうね」と笑っていたときも、私は笑えなかった。
彼女のデスクの上にだけ、飾りひとつない。写真も、アクスタも、観葉植物も、なにもない。
ただいつも、無印の無味乾燥なマグカップに湯気が立つほど熱いブラックコーヒーが置かれている。
それが、私の知っている桐谷澪だった。
――その人が今、パーカーに黒のスキニーパンツ姿で、軍手をはめて、段ボールを軽々と持ち上げている。しかも、その人は、私に向かって朗らかに笑いかけてきたのだ。
いや、そんなことあるわけがない。あの桐谷澪が、タイミーでスキマバイトをして、しかもあんなに愛想をふりまくわけがない。顔がよく似た別人に違いない。さっき「桐谷さん?」って言ってしまった時も、ただ首をかしげていただけだったし。
……でも、どう見ても桐谷さんなんだよなあ。
そんなことを考えていると、つい段ボールを前にぼんやりしてしまっていた。
「大丈夫ですか? それはあっちのカゴですよ」
「えっ、あ、はい! すぐやります!」
スタッフさんに言われるままに段ボールを持ち上げる。見た目は小さくてもずしっと重い。逆に、やけに大きいのにめっきり軽い荷物もある。どれも見た目通りとは限らない。それらを届ける先の住所ごとにカゴに分けて詰めていくのが、タイミーワーカーの仕事だ。
送り状の住所を見て、カゴに入れる。ただ黙々とそれを続けるだけ。
――けれど、どうしても気になって、ちらりと視線を送る。
桐谷さんはよく働いていた。頬を赤らめながら、時々「お願いしまーす!」とスタッフに笑顔で声をかけ、慣れた様子で手際よく荷物を捌いていく。
桐谷澪の笑顔を、今日初めて見た。
切れ長の瞳が弓のように細くなり、化粧っ気のない顔に映える唇がふっと開く。そこから覗く歯が、思いのほか可愛らしかった。
桐谷さんの笑顔、こんな顔なんだ。
「ほら、これもお願いね」
「あっ、はい! やります!」
やけに軽い荷物を渡されて、気づく。――もしかして、私が初心者だから、持ちやすいものを選んでくれてる?
該当の住所のカゴに荷物を詰めていると、桐谷さんがすぐ横に来た。
「今日、初めてなんでしょ。重たいのは無理しなくていいよ。運べるやつからやれば大丈夫」
そう言って、彼女はまた軽やかに持ち場へ戻っていった。
声も、表情も、口調も――全部、会社で見た桐谷澪とは違っていた。
私はなんだか怖くなって、身震いを一つすると、「私、けっこう重たいのも持てま~す!」と勢いで言いながら、山になった段ボールへ駆け出した。
タイミーのバイトはたった二時間だ。身体を動かして働いているとあっという間に時間が来る。
「はい、じゃあ今日はありがとうございました。チェックアウトして気をつけて帰ってね」
時間が来るとすぐにスタッフさんがQRコードを差し出してくれる。先ほどの要領でアプリからQRコードを読み込むと、これで労働時間が終わったらしい。二時間働いて、交通費込みで三千円。たった三千円、されど三千円。昨日のランチ二回分。でも、汗で稼いだ三千円は、なんかやけに清々しい。
「今日はお世話になりました! また来ます、よろしくお願いします!」
なんだか気分が良くなって、スタッフさんにお辞儀をする。スタッフさんもニコニコと「はあい、またお願いしますねー」と言ってくれる。
会社の仕事とも、プライベートの友達とも違う、ただその場限りの労働力としての自分。でもそれは確かに役に立ったんだ。ふだんは広告なんて目に見えない数字ばっかり追っている仕事をしているからか、着実に荷物が減っていく感じがすごく新鮮だ。
気分が良くなっちゃった。このままお洒落なカフェでモーニングでも食べてから帰ろうかな。稼いだ分の給与半分近くなくなっちゃうけど、初タイミー頑張りました記念ってことで。
ニマニマしながら物流センターを出ると、入り口には桐谷さんが立っていた。
「ひっ!」
「あなた、花岡美桜さんよね」
私を見つめる彼女の視線は冷たく、表情がない、私がいつも会社で見かける桐谷澪そのものだった。
「あ、やっぱり桐谷さんだったんですね。桐谷さん、よくタイミーされてるんですか?」
「……言わないで」
「え?」
「会社の人には、言わないで。それだけ」
桐谷さんはそれだけ言うと、さっと駆け出して行ってしまった。
「あっ、えっ、言わないですよー! 私のことも言わないでくださいねー!」
桐谷さんの背中に向かって大きく声をかけたが、彼女はこちらを振り返ることなく結構なスピードで走って行ってしまった。
「桐谷さん、走るの早いんだ……」



