平日の会社を無心で乗り切り、週末がやってきた。午前十時。今まで下りたこともない、小さな地下鉄の駅で降りる。目的の現場は、まだ看板も出ておらず、何屋でもない様相だ。
シャッターの半分開いた扉の前で戸惑っていると、カフェの奥から声がした。
「おはようございます、今日のタイミーの方ですか?」
――聞き覚えのある声。顔を上げた瞬間、息が止まった。
桐谷さんがいた。
髪を後ろでまとめ、袖をまくって、棚に本を並べている。Tシャツにデニム、シンプルな無地のエプロン。会社のときより、ずっと柔らかい表情をしていた。
「えっ!?」
私の顔を見ると、彼女は少し驚いたように目を丸くして、言葉を失う。驚いたのは私の方だ。なんといっていいかわからずに戸惑っていると、彼女は声をあげて笑いだした。
……桐谷さんって、声をあげて笑うことあるんだ。
「オープンしたら、いつか花岡さんが働きに来ると思ってたけど、まさかオープン前とはね」
どうして笑えるんだろう。この人は。あの日、あんな風に去ったのに。
ダンボールを一緒に運びながら、少しずつ話した。
「会社は、別に辞めないんですよね……?」
「え? もちろん。そんな話になってるの?」
「そういうわけじゃないですけど」
あんな空気になったあと、突然長期で休んだら、誰でもそう思うだろう。彼女は私の気持ちなど知ってか知らずか、段ボールの中から本やら小物やらを取り出しながら、淡々と話してくれる。
「ここね、夜はバーなの。週末の日中だけ間借りさせてもらえることになったから。その話がまとまって、本格的に手続きとか準備とかでやることが多くて休んでたの。忙しくてLINEも会社のSlackも見れてないんだ」
なんというタイミングで話がまとまるんだ! 紛らわしい。
「……会社で、私、迷惑かけましたよね」
「なにが?」
「何がって言われると……その、いろいろ……」
脚立に乗って棚を整理しながら、彼女はぽつりとつぶやく。
「もうタイミーはしないしね。ここがあるから」
「そっか、夢のために副業してたんですね」
そう言うと、彼女はきょとんとした顔になる。あれ、何か間違っただろうか。
「確かに、この流れだとそう見えるか。でも違う、ここを開くことになったのも、ただの流れ」
「流れって……」
それだけ言うと、彼女はしずかに作業を再開してしまった。
黙々と作業をして、あっという間に予定の時間が終わった。カフェのオープン準備といっても、間借り営業だ。今日でだいぶ進んだらしい。
「今日はありがとう。それじゃあ、これチェックアウトの」
スマホ画面に映ったQRコードを差し出される。ついこの間はいっしょにチェックアウトをしたのに、不思議な感じだ。
「もう一緒に働けなくなるのは、残念です」
「何言ってるの、会社があるでしょ」
「会社の桐谷さんと、ここの桐谷さん、雰囲気ちがうんですもん」
「ふふ。じゃあ、ここでバイトする?」
「う~~ん……」
今日、数時間働いたカフェを眺める。古い本と古い道具、居心地のよさそうなソファ。その中に立つ彼女は、まるで何かの物語の登場人物のようだった。
でも、私はまだゴールを迎えるには早い。
「私は、もう少しいろんな世界をつまみ食いしてみようと思います」
彼女はクスリと笑った。
「そうね。花岡さんにはそれがいいと思う。じゃあ、お疲れ様。来週の後半にはまた会社に戻ると思うから、また」
夕方、光が傾いて、木の棚に金色の埃が浮かんでいた。
その中で彼女が本を並べる姿を見ながら、胸の奥が静かにほどけていくのを感じた。
「世界を広げたくて」なんて、あのときは嘘みたいに言ったけど、今は少しだけ、本当になった気がする。
シャッターの半分開いた扉の前で戸惑っていると、カフェの奥から声がした。
「おはようございます、今日のタイミーの方ですか?」
――聞き覚えのある声。顔を上げた瞬間、息が止まった。
桐谷さんがいた。
髪を後ろでまとめ、袖をまくって、棚に本を並べている。Tシャツにデニム、シンプルな無地のエプロン。会社のときより、ずっと柔らかい表情をしていた。
「えっ!?」
私の顔を見ると、彼女は少し驚いたように目を丸くして、言葉を失う。驚いたのは私の方だ。なんといっていいかわからずに戸惑っていると、彼女は声をあげて笑いだした。
……桐谷さんって、声をあげて笑うことあるんだ。
「オープンしたら、いつか花岡さんが働きに来ると思ってたけど、まさかオープン前とはね」
どうして笑えるんだろう。この人は。あの日、あんな風に去ったのに。
ダンボールを一緒に運びながら、少しずつ話した。
「会社は、別に辞めないんですよね……?」
「え? もちろん。そんな話になってるの?」
「そういうわけじゃないですけど」
あんな空気になったあと、突然長期で休んだら、誰でもそう思うだろう。彼女は私の気持ちなど知ってか知らずか、段ボールの中から本やら小物やらを取り出しながら、淡々と話してくれる。
「ここね、夜はバーなの。週末の日中だけ間借りさせてもらえることになったから。その話がまとまって、本格的に手続きとか準備とかでやることが多くて休んでたの。忙しくてLINEも会社のSlackも見れてないんだ」
なんというタイミングで話がまとまるんだ! 紛らわしい。
「……会社で、私、迷惑かけましたよね」
「なにが?」
「何がって言われると……その、いろいろ……」
脚立に乗って棚を整理しながら、彼女はぽつりとつぶやく。
「もうタイミーはしないしね。ここがあるから」
「そっか、夢のために副業してたんですね」
そう言うと、彼女はきょとんとした顔になる。あれ、何か間違っただろうか。
「確かに、この流れだとそう見えるか。でも違う、ここを開くことになったのも、ただの流れ」
「流れって……」
それだけ言うと、彼女はしずかに作業を再開してしまった。
黙々と作業をして、あっという間に予定の時間が終わった。カフェのオープン準備といっても、間借り営業だ。今日でだいぶ進んだらしい。
「今日はありがとう。それじゃあ、これチェックアウトの」
スマホ画面に映ったQRコードを差し出される。ついこの間はいっしょにチェックアウトをしたのに、不思議な感じだ。
「もう一緒に働けなくなるのは、残念です」
「何言ってるの、会社があるでしょ」
「会社の桐谷さんと、ここの桐谷さん、雰囲気ちがうんですもん」
「ふふ。じゃあ、ここでバイトする?」
「う~~ん……」
今日、数時間働いたカフェを眺める。古い本と古い道具、居心地のよさそうなソファ。その中に立つ彼女は、まるで何かの物語の登場人物のようだった。
でも、私はまだゴールを迎えるには早い。
「私は、もう少しいろんな世界をつまみ食いしてみようと思います」
彼女はクスリと笑った。
「そうね。花岡さんにはそれがいいと思う。じゃあ、お疲れ様。来週の後半にはまた会社に戻ると思うから、また」
夕方、光が傾いて、木の棚に金色の埃が浮かんでいた。
その中で彼女が本を並べる姿を見ながら、胸の奥が静かにほどけていくのを感じた。
「世界を広げたくて」なんて、あのときは嘘みたいに言ったけど、今は少しだけ、本当になった気がする。



