おれの声が聞こえているのか、奴は巨大な頭を横に傾げた。そのしぐさにはたしかにおぼえがあった。忘れるはずがない。
おれは窓にへばりつくようにして奴を見つめた。頭に較べて小さく骨ばった胴体。右の肩に小さな傷跡があった。黒い皮膚に埋まって判別しにくいが、わずかにへこんで灰色に変色している。
「ノアなのか!」
叫ぶようにいった。相手の反応はない。おれは我を忘れて扉にしがみついた。必死に錠をはずそうとするが、スイッチを破壊された扉はまるで動かなかった。
「おれだ、ノア。くそっ、ノア、ノア、おれがわかるだろ?」
つくりもののノアによると、感染前の記憶はなくなっているのだという。しかし、ノアはおれをおぼえていて、助けにきた。複製をつくるために記憶をほじくり返された影響なのか、それとも、ほかに理由があるのかはわからない。とにかく、ノアはこんな姿になった今でもおれをはっきりとおぼえていた。おれのほうはまったく気づかなかったのにもかかわらずだ。
「待ってろ、ノア。すぐ出してやるからな。いっしょにここから出よう」
まくしたてるようにいったが、手だてがあるわけもない。おれを制するように、ノアが首を振った。
それが合図だったかのように、地面が大きく揺れた。慌てて両足を踏ん張り、周囲を見渡す。
壁に罅が入り、亀裂が大きくなっていった。地鳴りのような低い音とともに、足元の床がこまかく揺れつづけている。
「ノア……」
おれは青褪めながらノアを見た。
「おまえ、なにをやったんだ?」
表情のない醜い顔。一瞬、微笑んだようにみえた。おれは拳から血が出るほどつよく何度もドアを叩いた。
「だめだ、やめてくれ。ノア……!」
またノアを失ってしまうのか。おれは子どものように泣き喚きながら扉に取り縋った。
早く行けというように、触手の先が窓を引っ掻く。おれは首を振りつづけた。
「ノア……」
おれの声に応えようとするかのように、ノアが口許を動かした。つぎの瞬間、ひときわ大きな音がして、天井が迫った。おれのいる外側はかろうじて均整を保っていたが、ノアのほうはそうはいかなかった。
崩れた天井がノアの頭上に降り注ぎ、轟音とともにけたたましい叫び声が響いた。
「ノア!」
夢中で窓を割ろうとしたが、硬いだけでなく柔軟性もある窓はやはり微動だにしない。叫ぶおれの目の前で、ノアの体は潰された。残ったのは白い煙だけだった。
おれは呆然としながらその場にへたりこんだ。子どもの頃、クラスメイトたちにいじめられているノアをよく助けてやった。しかし、ノアはいじめっ子たちを憎むどころか、仕返しをしようとするおれをやんわり制した。
腕っぷしばかりが自慢だったおれなどよりも、ノアはずっとつよい人間だった。華奢な体のなかには強靭な精神力と純粋な心が宿っていて、そのどれもがおれには眩しかった。心の底から愛していた。
金属を擦るような音がした。“クランケ”の集団が集まりはじめていた。おれに気づき、重なりあうようにして追いかけてくる。おれは立ち上がり、走り出した。
あちこちで爆発が起き、天井は今にも崩れ落ちそうだった。おれに構っている暇はなくなったのだろう。追っ手の数は減っていた。空いた部屋に身を隠してやりすごした。屈みこんだおれのすぐ脇に、太い支柱が転がって粉々になった。
「ちくしょう!」
再び廊下に出て、いくつも並んだ扉を開けていく。どこだ。どこなんだ。
最後の扉を開けたとき、おれの目前には台に横たわった彼の姿があった。
深い森のなかで、おれは膝を抱えてうずくまっていた。隠れ家のあった場所ではない、未知の森だ。崖のそばの洞窟に身を隠し、じっと息を潜めていた。
「どうして……」
掠れた声で、ノアがいった。
「どうしてぼくを助けたんだ」
おれからすこし離れて、彼はしゃがみこんでいた。青い瞳がおれを見つめていた。埃や泥に汚され、顔はくすんでいたが、その表情にはつよい意思と若干の戸惑いが見てとれた。
「ぼくは彼じゃない。わかってるだろ?」
「わかってるさ」
静かに答えた。いつの間にか振り出した雨が木々や地面を叩き、おれの声をかき消していた。
「おれは二度もノアを失った。三度目はごめんだ」
おれの言葉が聞こえたかどうかはわからない。ノアは岩の上をゆっくりと移動して、おれのそばにきた。腕同士を擦りつけさせ、ぴったりと寄り添った。
なるほど、奴らの文明とやらはたしかにすぐれているらしい。こんなにあたたかく、やわらかいなんて。彼はノアそのものだった。
おれはノアの指を握りしめ、湖の底を思わせる深い青の瞳を見つめた。
「おれを愛してるか?」
ノアは答えなかった。機械に尋ねることじゃない。それでも、いわずにはいられなかった。
「愛してるなら、おまえにとっては残酷だ。おれがおまえより先に死ぬのは確実だからな」
やや自嘲気味に微笑む。寒さで唇が震えた。
「おれはけっきょく、自分のエゴでおまえを連れ出したんだ」
ノアはまばたきもせずにおれを見つめつづけていた。おれの腰に腕を回して、呟くようにいった。
「愛してる、ローランド」
右半身にかかるノアの体重。おれはそっと目を閉じた。ノアならきっとそういうだろう。
雨の音を聞きながら、おれたちはいつまでも身を寄せあってじっとしていた。
おれは窓にへばりつくようにして奴を見つめた。頭に較べて小さく骨ばった胴体。右の肩に小さな傷跡があった。黒い皮膚に埋まって判別しにくいが、わずかにへこんで灰色に変色している。
「ノアなのか!」
叫ぶようにいった。相手の反応はない。おれは我を忘れて扉にしがみついた。必死に錠をはずそうとするが、スイッチを破壊された扉はまるで動かなかった。
「おれだ、ノア。くそっ、ノア、ノア、おれがわかるだろ?」
つくりもののノアによると、感染前の記憶はなくなっているのだという。しかし、ノアはおれをおぼえていて、助けにきた。複製をつくるために記憶をほじくり返された影響なのか、それとも、ほかに理由があるのかはわからない。とにかく、ノアはこんな姿になった今でもおれをはっきりとおぼえていた。おれのほうはまったく気づかなかったのにもかかわらずだ。
「待ってろ、ノア。すぐ出してやるからな。いっしょにここから出よう」
まくしたてるようにいったが、手だてがあるわけもない。おれを制するように、ノアが首を振った。
それが合図だったかのように、地面が大きく揺れた。慌てて両足を踏ん張り、周囲を見渡す。
壁に罅が入り、亀裂が大きくなっていった。地鳴りのような低い音とともに、足元の床がこまかく揺れつづけている。
「ノア……」
おれは青褪めながらノアを見た。
「おまえ、なにをやったんだ?」
表情のない醜い顔。一瞬、微笑んだようにみえた。おれは拳から血が出るほどつよく何度もドアを叩いた。
「だめだ、やめてくれ。ノア……!」
またノアを失ってしまうのか。おれは子どものように泣き喚きながら扉に取り縋った。
早く行けというように、触手の先が窓を引っ掻く。おれは首を振りつづけた。
「ノア……」
おれの声に応えようとするかのように、ノアが口許を動かした。つぎの瞬間、ひときわ大きな音がして、天井が迫った。おれのいる外側はかろうじて均整を保っていたが、ノアのほうはそうはいかなかった。
崩れた天井がノアの頭上に降り注ぎ、轟音とともにけたたましい叫び声が響いた。
「ノア!」
夢中で窓を割ろうとしたが、硬いだけでなく柔軟性もある窓はやはり微動だにしない。叫ぶおれの目の前で、ノアの体は潰された。残ったのは白い煙だけだった。
おれは呆然としながらその場にへたりこんだ。子どもの頃、クラスメイトたちにいじめられているノアをよく助けてやった。しかし、ノアはいじめっ子たちを憎むどころか、仕返しをしようとするおれをやんわり制した。
腕っぷしばかりが自慢だったおれなどよりも、ノアはずっとつよい人間だった。華奢な体のなかには強靭な精神力と純粋な心が宿っていて、そのどれもがおれには眩しかった。心の底から愛していた。
金属を擦るような音がした。“クランケ”の集団が集まりはじめていた。おれに気づき、重なりあうようにして追いかけてくる。おれは立ち上がり、走り出した。
あちこちで爆発が起き、天井は今にも崩れ落ちそうだった。おれに構っている暇はなくなったのだろう。追っ手の数は減っていた。空いた部屋に身を隠してやりすごした。屈みこんだおれのすぐ脇に、太い支柱が転がって粉々になった。
「ちくしょう!」
再び廊下に出て、いくつも並んだ扉を開けていく。どこだ。どこなんだ。
最後の扉を開けたとき、おれの目前には台に横たわった彼の姿があった。
深い森のなかで、おれは膝を抱えてうずくまっていた。隠れ家のあった場所ではない、未知の森だ。崖のそばの洞窟に身を隠し、じっと息を潜めていた。
「どうして……」
掠れた声で、ノアがいった。
「どうしてぼくを助けたんだ」
おれからすこし離れて、彼はしゃがみこんでいた。青い瞳がおれを見つめていた。埃や泥に汚され、顔はくすんでいたが、その表情にはつよい意思と若干の戸惑いが見てとれた。
「ぼくは彼じゃない。わかってるだろ?」
「わかってるさ」
静かに答えた。いつの間にか振り出した雨が木々や地面を叩き、おれの声をかき消していた。
「おれは二度もノアを失った。三度目はごめんだ」
おれの言葉が聞こえたかどうかはわからない。ノアは岩の上をゆっくりと移動して、おれのそばにきた。腕同士を擦りつけさせ、ぴったりと寄り添った。
なるほど、奴らの文明とやらはたしかにすぐれているらしい。こんなにあたたかく、やわらかいなんて。彼はノアそのものだった。
おれはノアの指を握りしめ、湖の底を思わせる深い青の瞳を見つめた。
「おれを愛してるか?」
ノアは答えなかった。機械に尋ねることじゃない。それでも、いわずにはいられなかった。
「愛してるなら、おまえにとっては残酷だ。おれがおまえより先に死ぬのは確実だからな」
やや自嘲気味に微笑む。寒さで唇が震えた。
「おれはけっきょく、自分のエゴでおまえを連れ出したんだ」
ノアはまばたきもせずにおれを見つめつづけていた。おれの腰に腕を回して、呟くようにいった。
「愛してる、ローランド」
右半身にかかるノアの体重。おれはそっと目を閉じた。ノアならきっとそういうだろう。
雨の音を聞きながら、おれたちはいつまでも身を寄せあってじっとしていた。



