フォレスト~森に棲む男~

 靴を履いていると、ベッドのなかでノアが身じろいだ。
「ローランド?」
「ここにいるよ」
 上半身を屈めて、額にくちづける。ノアは目を擦りながらおれを見上げた。
「もう朝?」
「ああ。外を見てくる」
「あぶないよ」
 ノアは不安げにおれの手を取った。
「だいじょうぶだ。奴らは昼間は外に出られない。異常がなければすぐにもどってくるから」
 心細そうにまばたきするノアの唇にキスして、微笑んでみせる。
「心配しなくていい。朝食の準備をしててくれ」
 ノアの手をすり抜けて、一階に上がった。
 スコープを覗き、だれもいないのを確かめて、外に出た。ボウガンのほかに、銃も一丁ベルトに挟んでいる。双眼鏡で周囲を見渡し、辺りの様子をチェックする。
 罠をすり抜けながら山を下りていく。驚くほど体が軽い。熟睡したのはいつぶりだろうか。昔のようにノアを腕に抱き眠って、おれは喜びに満ち溢れていた。世界中にだれもいない状況だとしても、ノアさえいてくれれば生きていける。もうひとりではないのだ。
 おれは鼻歌を歌いながら林道を歩いていた。警戒心が抜け、ちかづいてくる気配に気づくのが遅れた。
 物音が耳に入り、ボウガンのグリップをつかんだ。構えるより先に、声がした。
「動くな!」
 男の鋭い声が背中に突き刺さる。おれは不自然な体勢のまま硬直した。
「そいつを棄てて、両手を上げろ」
 いわれたとおりにした。鼓動が跳ね上がったが、恐怖のためではなかった。ノアのものではない他人の声。人間の声。
「手を頭の後ろに回して、ゆっくり振り向け」
 両手を後頭部に回し、振り向いた。汚れたシャツを着て、全身傷だらけの屈強な体つきの男が、ライフルの銃口をおれに向けて立っていた。
「名前は?」
「ホスキンス。ローランド・ホスキンス」
 男は素早くおれを観察した。その間も、銃口は一瞬たりとも離さなかった。
「ここでなにしてる?」
「見回りだよ。奴らがいないかどうか確認してた」
「感染してないのか」
「見りゃわかるだろう」
 皮肉をこめていう。仲間を見つけたいとは思っていたが、銃を向けられるのは本意でない。
「あんたはだれだ。どこからきた?」
 逸る気持ちを抑えられず、立てつづけに質問した。
「答えてくれ。いったいどうやって生き延びたんだ。おれは十五年間、生き残った人間を探してきたけど、だれにも出会えなかった。ほかにも仲間がいるのか? どうなんだ?」
 おれの問いに男はしばらく黙っていたが、ライフルを下げ、いった。
「フランクだ」
 伸ばされた手を握り返す。フランクという男も、無愛想ではあるが、ウイルスに侵されているようには見えなかった。
「悪かったな。奴らの仲間なんじゃないかと思ったんだ」
「そんなことはいい。それより、おれの質問に答えてくれ」
 周囲に神経を向けながら、フランクはおれの肩に腕を回した。
「残念ながら、仲間はいない。おれもずっとひとりで奴らと闘ってきた。生身の人間と会ったのは、おまえがはじめてだよ」
 おれは脱力し、しかし、ようやく会えた生き残りに親愛をこめていった。
「怪我してるのか?」
「たいしたことはない」
「手当てしてやるよ。こっちへ」
 おれはフランクに向かって顎をしゃくり、先に立って歩き出した。フランクも躊躇しながらもついてきた。左足を引き摺り、顔色もよくない。見た目より重傷かもしれなかった。
「安全な場所か?」
「十五年隠れてるんだ。すくなくとも、森のなかで夜になるのを待ってるよりましさ」
「ひとりで住んでるのか?」
「ああ……いや、ひとりじゃない」
 フランクに手を貸しながら、いった。
「実は、昨日、親友と再会したんだ」
「……感染者か?」
「ちがう。感染はしたけど、今はワクチンで元の姿にもどってる。ふつうの人間とおなじだ」
「ワクチンだって?」
「ああ。おれも知らなかったんだけど、すこし前に開発されたらしい。大量生産されれば、昔の世界にもどるのも夢じゃないかもな」
 フランクは笑顔ひとつ見せなかった。強張った表情で尋ねてくる。
「おまえ、家族はいないのか?」
「ああ。両親はいないし、結婚もしてない」
「それじゃ、その親友が一番親しい人物ってわけか」
「そういうことになるな」
 実際にはそれ以上の存在だが、初対面のフランクにそこまで説明することもない。
「ノアは収容施設から脱走してきたんだ。奴らに襲われずにここまでこられたのは奇跡だよ。十五年間だれにも会えなかったのに、二日つづけて会えるってのもな。信仰なんて持っちゃいなかったけど、あんがい神さまも棄てたもんじゃないらしい」
 おれの言葉にも、フランクは無言だった。思いつめた表情で、黙々と歩く。フランクの様子が気になりはしたが、緊迫した状況では無理もない。おれにだって、まだ完全に心をゆるしたわけではないだろう。
「あんたはどうなんだ?」
「なんだ」
「家族だよ」
 フランクは左手を顔の高さに持ち上げ、包帯の隙間から突き出た指を見せた。薬指に銀色のリングが嵌っている。
「結婚してるのか」
「妻がいた。感染して、死んじまったがな」
「悪い。よけいなことを……」
「いいさ。気にするな」
 抑揚を欠いた声で、フランクはいった。木々の間に見える屋根を、首を伸ばして眺めた。
「あそこか?」
「ああ。もうすこしだから、頑張れ」
 足を引き摺るフランクを助けながら山道を上った。フランクはそれ以上口をきかなかった。どこからきたのか、どうやって奴らの手を逃れたのか、聞きたいことはたくさんあったが、フランクの態度には質問をゆるさない頑なさがあった。妻と死別し、十五年もひとりで暮らしていれば、当然だろう。おれは無言で歩きつづけた。