ナイフの刃が壁に横一文字の傷をつける。大きな壁は一面傷で埋め尽くされていた。数は五千と百二十五。つまり、あれから十五年ちかくたったわけだ。
ナイフの向きを変え、手にしていた缶詰の蓋を開ける。トウモロコシを噛み砕きながら、残りの食糧で何日もつか計算する。結果は楽観的になれるようなものではなかった。舌打ちとともに、空になった缶を放り投げた。
町は閑散としていた。錆びてなかば崩れかけたビルが建ち並び、放置された車には蜘蛛の巣が張っている。通りには人間はもちろん、猫一匹姿を見せることがなかった。
ニューヨークやロサンゼルスといった大都会とは比較にならないものの、かつてはそれなりに賑わい、せわしなく仕事に向かうビジネスマンや腕を組んで歩くカップルが行き来していた道。ノアとはじめて映画を観に行ったときも、この道を通った。田舎町で、いつか必ず出たいと口癖のようにいっていたが、心底嫌いだったわけではない。
十五年前、原因不明の伝染病が蔓延した。各地で閉鎖、隔離がおこなわれたが、そのときにはすでに遅かった。いまだかつて出現したことのない未知のウイルスはあっという間にアメリカ全土に拡がり、世界中がおなじ症状を持つ患者で溢れ返った。
病気はすぐに第二段階に達した。これが悪夢のはじまりだった。
ショッピングモールの前でオートバイを停めた。リアシートに積んでいたボウガンを肩に抱え、周囲を見渡す。しんと静まり返り、生物の気配すら感じられない。
足早にショッピングモールのなかに入る。缶詰やパスタ、小麦といったものが並んだ棚に向かい、もう片方の腕に提げていた袋に詰めこんだ。盗難を咎めるものはなく、罪悪感をおぼえる必要もない。
袋がいっぱいになると、急いで出口に向かう。長居は無用だ。
ドアを押そうとしたところで、おれは足を止めた。ゆっくりと振り返る。まさか。気のせいだ。そんなことあるはずがない。
苦笑いが固まった。幻聴ではない。たしかに、子どもの泣き声が聞こえたのだ。
おれは袋を床に起き、ボウガンを構えた。音を立てないように注意しながら店の奥へとすすむ。
地下駐車場に下りる非常階段のドアが開いていた。声はその奥から聞こえているようだった。
「だれかいるのか?」
恐る恐る声をかけてみたが、返事はない。ドアの前で、おれは躊躇った。店内には太陽の光が差しこんでいたが、ドアの向こう側はほとんど真っ暗闇だった。
しかし、退くことはできなかった。呼吸を整え、思い切ってドアを押した。
茶色い毛をした子犬が飛び出してきて、おれは声を上げた。あやうくボウガンの引き金を引くところだった。全身で息をつき、子犬の前にしゃがみこむ。
「なにやってんだ、おまえ。よく生きて……」
おれが伸ばした手が届くよりも一瞬先に、子犬の体がふたつに裂けた。おれは反射的に飛びのき、非常階段に向かってボウガンを向けた。
ドアの隙間で黒い影が首を擡げる。空気を振るわせるような叫び声。おれは迷わず引き金を引いた。
ボウガンの矢が影を突き抜け、悲鳴が上がる。どすんと大きな音がして、相手の上半身がドアのこちら側に倒れてきた。
てらてらと濡れた頭が、太陽の光に溶けて煙を上げる。ひどい匂いに顔をしかめ、矢を抜き取った。
「やれやれ」
汗を拭いながら、ブーツの爪先で“クランケ”の体を引っくり返す。自分の体の何倍もある“クランケ”に潰されて、子犬はほとんど毛と肉の塊になっていた。
「友達になれたかもしれなかったのにな」
ここ五年ほどは犬や猫といった小動物ともほとんど出会えていない。食糧としてよりも、話し相手として、その存在を欲していた。かすかな鳴き声を子どもの声と勘違いしてしまうほど、おれは自分以外の生物に渇望していたのだ。
子犬のために祈ってから、その場をあとにした。オートバイに跨り、空を仰ぐ。
最近になって、日中時間が著しく短くなった。冬だからというだけではない。年々夜が長くなっている。時間を計っているわけではないが、確かだった。
灯油や酒、洗剤といった日用品も仕入れ、家にもどった。家といっても、山の途中に建てた手づくりの木造小屋だ。周囲にはいたるところに罠を張りめぐらせてあり、記憶を頼りに避けて歩かなければならない。これだって完璧というわけではないが、気休め程度にはなる。
奴らは昼間行動することができない。それでも念のため尾行されていないか何度も確認して、家のなかに入った。
袋のなかから日用品やいくつかのレトルト食品を取り出し、キッチンに並べる。残った食糧は袋に入れたままかついで部屋の奥へ。
棚の隙間から手を入れ、ドアを操作する。隠し部屋のなかには階段があり、地下シェルターへとつづいている。もともとは戦時中につかわれていたらしい洞窟のようなもので、偶然見つけ、改造した。
棚を元にもどしてから、ドアをしっかりと閉める。ドアは厚く、ランプを点しても光が外に漏れることはない。
パイプベッドに寝そべり、聖書をひらく。説教を読みたいわけではない。神の存在など、こうなるずっと前から信じてはいないのだ。目的は本に挟んである写真だった。
古びて色あせた写真のなかで、ノアがはにかみながらこちらを見ている。ふたりで香港に旅行したとき、レストランでおれが撮った。
ノアの死を見届けてから、おれは森のなかをさまよい歩いた。この洞窟を見つけ、身を潜めた。明け方に這い出て、木の実や魚、兎などを漁って飢えを凌ぎ、昼と夜は洞窟にこもって、じっと待ちつづけた。
やがてヘリコプターや戦車の音が聞こえなくなり、外に出ると、世界のすべてが変わっていた。
ナイフの向きを変え、手にしていた缶詰の蓋を開ける。トウモロコシを噛み砕きながら、残りの食糧で何日もつか計算する。結果は楽観的になれるようなものではなかった。舌打ちとともに、空になった缶を放り投げた。
町は閑散としていた。錆びてなかば崩れかけたビルが建ち並び、放置された車には蜘蛛の巣が張っている。通りには人間はもちろん、猫一匹姿を見せることがなかった。
ニューヨークやロサンゼルスといった大都会とは比較にならないものの、かつてはそれなりに賑わい、せわしなく仕事に向かうビジネスマンや腕を組んで歩くカップルが行き来していた道。ノアとはじめて映画を観に行ったときも、この道を通った。田舎町で、いつか必ず出たいと口癖のようにいっていたが、心底嫌いだったわけではない。
十五年前、原因不明の伝染病が蔓延した。各地で閉鎖、隔離がおこなわれたが、そのときにはすでに遅かった。いまだかつて出現したことのない未知のウイルスはあっという間にアメリカ全土に拡がり、世界中がおなじ症状を持つ患者で溢れ返った。
病気はすぐに第二段階に達した。これが悪夢のはじまりだった。
ショッピングモールの前でオートバイを停めた。リアシートに積んでいたボウガンを肩に抱え、周囲を見渡す。しんと静まり返り、生物の気配すら感じられない。
足早にショッピングモールのなかに入る。缶詰やパスタ、小麦といったものが並んだ棚に向かい、もう片方の腕に提げていた袋に詰めこんだ。盗難を咎めるものはなく、罪悪感をおぼえる必要もない。
袋がいっぱいになると、急いで出口に向かう。長居は無用だ。
ドアを押そうとしたところで、おれは足を止めた。ゆっくりと振り返る。まさか。気のせいだ。そんなことあるはずがない。
苦笑いが固まった。幻聴ではない。たしかに、子どもの泣き声が聞こえたのだ。
おれは袋を床に起き、ボウガンを構えた。音を立てないように注意しながら店の奥へとすすむ。
地下駐車場に下りる非常階段のドアが開いていた。声はその奥から聞こえているようだった。
「だれかいるのか?」
恐る恐る声をかけてみたが、返事はない。ドアの前で、おれは躊躇った。店内には太陽の光が差しこんでいたが、ドアの向こう側はほとんど真っ暗闇だった。
しかし、退くことはできなかった。呼吸を整え、思い切ってドアを押した。
茶色い毛をした子犬が飛び出してきて、おれは声を上げた。あやうくボウガンの引き金を引くところだった。全身で息をつき、子犬の前にしゃがみこむ。
「なにやってんだ、おまえ。よく生きて……」
おれが伸ばした手が届くよりも一瞬先に、子犬の体がふたつに裂けた。おれは反射的に飛びのき、非常階段に向かってボウガンを向けた。
ドアの隙間で黒い影が首を擡げる。空気を振るわせるような叫び声。おれは迷わず引き金を引いた。
ボウガンの矢が影を突き抜け、悲鳴が上がる。どすんと大きな音がして、相手の上半身がドアのこちら側に倒れてきた。
てらてらと濡れた頭が、太陽の光に溶けて煙を上げる。ひどい匂いに顔をしかめ、矢を抜き取った。
「やれやれ」
汗を拭いながら、ブーツの爪先で“クランケ”の体を引っくり返す。自分の体の何倍もある“クランケ”に潰されて、子犬はほとんど毛と肉の塊になっていた。
「友達になれたかもしれなかったのにな」
ここ五年ほどは犬や猫といった小動物ともほとんど出会えていない。食糧としてよりも、話し相手として、その存在を欲していた。かすかな鳴き声を子どもの声と勘違いしてしまうほど、おれは自分以外の生物に渇望していたのだ。
子犬のために祈ってから、その場をあとにした。オートバイに跨り、空を仰ぐ。
最近になって、日中時間が著しく短くなった。冬だからというだけではない。年々夜が長くなっている。時間を計っているわけではないが、確かだった。
灯油や酒、洗剤といった日用品も仕入れ、家にもどった。家といっても、山の途中に建てた手づくりの木造小屋だ。周囲にはいたるところに罠を張りめぐらせてあり、記憶を頼りに避けて歩かなければならない。これだって完璧というわけではないが、気休め程度にはなる。
奴らは昼間行動することができない。それでも念のため尾行されていないか何度も確認して、家のなかに入った。
袋のなかから日用品やいくつかのレトルト食品を取り出し、キッチンに並べる。残った食糧は袋に入れたままかついで部屋の奥へ。
棚の隙間から手を入れ、ドアを操作する。隠し部屋のなかには階段があり、地下シェルターへとつづいている。もともとは戦時中につかわれていたらしい洞窟のようなもので、偶然見つけ、改造した。
棚を元にもどしてから、ドアをしっかりと閉める。ドアは厚く、ランプを点しても光が外に漏れることはない。
パイプベッドに寝そべり、聖書をひらく。説教を読みたいわけではない。神の存在など、こうなるずっと前から信じてはいないのだ。目的は本に挟んである写真だった。
古びて色あせた写真のなかで、ノアがはにかみながらこちらを見ている。ふたりで香港に旅行したとき、レストランでおれが撮った。
ノアの死を見届けてから、おれは森のなかをさまよい歩いた。この洞窟を見つけ、身を潜めた。明け方に這い出て、木の実や魚、兎などを漁って飢えを凌ぎ、昼と夜は洞窟にこもって、じっと待ちつづけた。
やがてヘリコプターや戦車の音が聞こえなくなり、外に出ると、世界のすべてが変わっていた。



