ファーストリーフ

 二度目の観劇は、案の定、物語の内容がまるで頭に入ってこないまま終わった。終演後、会場の外では物販ブースに列ができていた。この日は一日限定の特別なグッズが販売されるようだ。
「並ばねえの?」
「え?」
 隣で葉一が首を傾けておれの顔を覗き込んでいた。丸めたパンフレットの先で列を指す。
「グッズ。並ぶならいっしょに……」
「あ、ううん。今日は……」
 即座に遮ったが、ぎこちない口調になってしまった。慌てて口を噤む。しゃべっても黙っても気まずい。駅で待ち合わせてから今までずっとこの状態だ。観劇中は当然言葉を交わすことも視線を合わせることもなかったが、葉一の意識がこちらを向いているのはなんとなくわかっていた。葉一の秘密を知ることになった日から、会うのははじめてだった。おれとおなじように、葉一も落ち着かない気持ちでいるのかもしれない。
「そういえば」
 パンフレットを握った拳を口もとにあてて咳払いをしながら、葉一がいった。
「この前、ビーフシチューありがとな」
「あ、うん」
 葉一と凪砂とのやりとりを思い出し、無意識に視線を逸らした。
「めちゃくちゃ旨かった」
「よかった」
 すくなくともふだんどおりの会話にすこし安堵して、いった。
「凪砂は2杯も食べてたよ」
 劇場を出て駅に向かって歩きはじめながら、葉一がいう。
「……凪砂、なんかいってた?」
 おれが敏感にとらえすぎているせいか、声に緊張が籠もっているように思えた。できる限り自然な態度を意識して、答えた。
「べつになにもいってなかったよ」
「……そっか」
 凪砂の反応が気になるのだろう。おれが秘密を守りきれるかどうか不安なのかもしれない。
「おれもなにもいってないから」
 いいわけがましく聞こえるのではないかとも思ったが、葉一は気にしていないようだった。いつもどおりの柔和な笑顔を浮かべ、頷いた。
「わかってるよ」
 ふだんならほっとするはずの笑顔を見ても、不安を拭い去ることはできなかった。
 舞台初日の日、おなじ道のりを歩いて駅に向かいながら、葉一はおれに同性愛者をどう思うか尋ねた。今思えば、直前の凪砂の話を聞いて傷ついていたのかもしれない。突然の質問に戸惑い、即答できなかったことを後悔していた。偏見など持っていないと、もっとつよく否定すべきだった。
 男性同士の恋愛を差別するつもりはなかった。もともと偏見はない。もし葉一と凪砂が付き合うことになったとしても、一抹の寂しさは感じるだろうが、それでも心から祝福できるという自信があった。
 こうして葉一と並んで歩いていて、改めて思う。今、隣にいるのがおれでなく凪砂だったら、ふたりの姿をすこし離れたところから見つめたとしたら。同性だという事実に関係なく、きっと似合いのカップルに見えるだろう。
「そんな顔すんなって」
 伸ばされた手を無意識に避けるように身を引いてしまった。嫌悪感ではなく罪悪感からの動作だったが、葉一の表情が強ばるのを見てはっとした。
「あ……」
 猛烈な後悔に襲われ、顔から血の気が引いた。急激に体温が下がり、目の前が白くなった。
「悪い」
 一瞬表情を変えた葉一だったが、すぐにまた微笑を浮かべた。自然な笑顔だった。無理をしているようには見えない。
「ほんとごめん。気持ち悪かったよな」
「そんなことない!」
 ほとんど叫び声になっていた。葉一が虚を衝かれたように目を見開く。
「気持ち悪いとか全然思ってないから」
 息がくるしかった。動揺を隠せなかった。まくし立てるようにいった。
「おれ、べつに男同士の恋愛に偏見なんてないし、一方的に感情を圧しつけるようなひとは、男女関係なくどうかと思うけど、葉一くんはそんなことするひとじゃないってわかってるし、もし偏見持ってたとしても、葉一くんのことは嫌とかは思わない」
 一気にいって、乱れた呼吸を整えるために大きく息をついた。葉一は呆気にとられたように黙っておれを見ていたが、やがて静かにいった。
「おれのことは嫌じゃないの?」
 何度も頷く。葉一はわずかに眉間に皺を寄せ、いった。
「友達だから?」
「それもそうだけど……」
 どう答えるべきかはかりかねて、俯いた。独白のようにいった。
「葉一くんは特別っていうか……」
「おれは特別?」
 葉一の口調が変化する。顔を上げると、葉一の顔が目の前にあった。切ないような、戸惑っているような、正体不明ではあるが、とにかく今まで見たことがないような表情をしていた。
「初芽にとって、おれの存在ってなに?」
「え……」
 いよいよわけがわからない。どう答えるべきなのか、正解を見つけ出すことができず、おれは聞き返した。
「……なんでそんなこと聞くの?」
 葉一は答えなかった。どちらも無言のまま、重い沈黙が場を支配した。
「葉一くん……」
 いいかけたところで、スマホが震えた。ディスプレイにはLINEの文字。凪砂だった。『どこにいる?』の短い文の直後、『彼女紹介するから楽屋こいよ』とつづいた。
 予想していなかったわけではない。しかし、胸が騒いだ。最悪のタイミング。凪砂と彼女を葉一に会わせるわけにはいかない。
 逡巡していると、再びスマホが震えはじめた。今度は長く継続している。凪砂は気が短い。返信がなければすぐに電話をかけてくる。
「出ねえの?」
「うん……」
「凪砂じゃねえの?」
 答えられなかった。しばらく無視しているとスマホの振動は消えたが、安堵する間もなく、今度は葉一のスマホが鳴りはじめた。
「ちょ、ちょっと待って、葉一くん……」
 おれの制止を待たず、即座に電話に出る。
「凪砂?」
 ため息を飲み込む。おれを横目に見ながら、葉一はスマホに向かって話しはじめた。
「今近くだけど、なに?」
 視線が合う。気まずさに耐えられず、俯いた。
「初芽もいっしょにいるよ。おれと話してたから、電話、気づかなかったんじゃない?」
 スマホを通して凪砂の声がかすかに聞こえてきたが、なにを話しているのかまでは判別できない。何度か言葉を交わした後、葉一は電話を切った。
「もどろうか」
 スマホをポケットに圧しこんで、いった。
「凪砂が、なんか紹介したいひといるって」
 葉一が踵を返したが、おれは動けなかった。
「初芽?」
 怪訝な顔で葉一が振り返る。
「行かねえの?」
 ふだんなら、凪砂に呼ばれれば飼い犬のように即座に会いに行く。葉一が不審に思うのも当然だった。
「初芽……」
 紹介されるのが彼女だとは、葉一は想像もしていないだろう。どう説明していいか迷い、おれはその場に立ち尽くしていた。
「凪砂に会いたくない?」
 俯いているおれを見てなにかを察したのか、葉一は声を低めていった。
「わかった。じゃ先帰ってろよ。おれ行ってくるから」
「ちょっと待って!」
 数すくない大切な友人が傷つくのを見たくなかったが、傷つくと知っていてなにもせず放置することもできなかった。咄嗟に葉一の腕をつかむ。葉一が弾かれたようにおれを見た。
「……どした?」
 わずかに掠れたやさしい声。答えられなかった。顔を上げることもできず、おれはただ黙って葉一の腕を両手でつかんでいた。
「初芽?」
 葉一が空いたほうの手をおれの指に添える。皮膚は熱く、すこし湿っていた。汗ばんでいるのは凪砂に会う緊張と興奮のためだろうか。おれの行為は葉一にとっては鬱陶しいものなのかもしれない。
「……なんかあんの?」
 おれの手首の表面を熱い指先が滑る。遠慮がちな動作だったが、やはり嫌悪感はなかった。葉一を傷つけたくないという思いが募るばかりだった。
「凪砂に会いたくないんだったら……」
「ちがう!」
 無意識に、葉一の腕を握る手に力が籠もった。
「そうじゃなくて、おれ……」
 顔を上げると、葉一がおれを見つめていた。またあの眼をしている。切ない、熱を帯びた眼差し。
「おれ、凪砂に会いたくないんじゃなくて……」
 目の前で、葉一の喉仏が上下する。
「初芽」
 葉一がおれの手を取り、指を集めて握りしめた。拒絶がないのを確認してか、つよく握りこむ。
「おれと凪砂を会わせたくないの?」
 さすがに葉一は敏感だ。しかし、その理由にまでは考えが行き着いていないようだった。
「なんで?」
「それは……」
 再び視線を逸らす。沈黙。スーツを纏った数人のグループがおれたちの脇を通り過ぎていった。訝しげな視線に気づき、咄嗟に手を離した。
「初芽」
 葉一が口をひらきかけるのを遮るように、またスマホが鳴った。
「だめ」
 おれの言葉に葉一がポケットに突っ込んだ手をそのまま引き出した。
「……行かないで」
 かろうじて、それだけを口にした。葉一が息を飲む気配がした。いつの間にか、スマホの通知音は聞こえなくなっていた。
「行かないよ」
 葉一の声は掠れ、上擦っていた。小さく咳をしてから、もう一度はっきりいった。
「おまえが行かないでほしいんなら行かない」
 とりあえず、安堵した。葉一の表情の変化に気づかなかった。