もし葉一なら。相手が葉一だったら、凪砂が傷つくこともないのではないか。葉一なら、凪砂のすべてを受け容れ、無償の愛を注いでくれるのではないか。漠然と考えていた。
根拠がないわけではない。おれは高校時代の記憶を手繰り寄せていた。
その日、おれは葉一とふたりで学校を出て帰宅する途中だった。ふだんは凪砂を含めた3人で帰ることが多かったが、凪砂は映画のオーディションと演技のワークショップを受けるため東京に出かけていた。
帰宅途中でおれのスマホが鳴った。父親からで、入院中の母親の容態が急変したことを報せる電話だった。葉一は取り乱すおれを落ち着かせ、タクシーを拾って病院まで付き添ってくれた。病院へ向かうタクシーの車内でおれの手を握ってくれ、だいじょうぶだからと励ましてくれた。けっきょく、母親は意識を取りもどすことのないまま息を引き取ったが、葉一の素早い対応のおかげもあり、最後の瞬間は病室で母の手を握り、ぬくもりを感じることができた。
母が亡くなった後も葉一は病院に残っていた。号泣するおれの背中を擦り、ただ黙ってそばにいてくれた。凪砂に連絡するかと聞かれたが、邪魔はしたくなかったし、伝えたところで、できることはない。凪砂が知ったのはオーディションとワークショップを終えて帰ってきた翌日だった。どうして報せなかったのかと激怒したが、憔悴しきっているおれを見かねたのか、通夜のときには葉一とともに黙ってついていてくれた。ただその場にいてくれただけで、心づよく感じたものだ。
「彼女できたこと、おれのほかにだれかにいった?」
「だれにもいってねえよ。すぐ別れるし」
抑揚を欠いた声でもう一度繰り返す。今度はなにも返さなかった。そんなことはないといったところで、気休めとしか受け取られない。
凪砂に彼女ができたことを葉一が知ったらショックを受けるだろう。葉一には知られたくないと思った。凪砂ほど長い付き合いでないとはいえ、おれにとっても葉一は大切な友達で、傷つけたくなかった。もちろん、凪砂の気持ちも無視はできないから、無邪気に応援するともいえないが、たとえ思いが成就しなかったとしても、これまでの関係が崩れることにならなければいいと思った。
いや、関係を壊したくないと望むのはおれの身勝手なエゴかもしれない。もし凪砂が葉一の思いを受け容れ、ふたりが付き合うことになったとしたら、その場合もやはり、今までのようには過ごせなくなるだろう。葉一にとってみれば、凪砂とおなじマンションに住み、小判鮫のように常について回るおれは疎ましい存在なのかもしれない。そう考えると落ち着かない気持ちになった。
「なに神妙な顔してんだよ」
凪砂の声で我に返った。いつの間にかシチューはきれいに食べ尽くされ、まるで洗い立てのような皿が目の前に突き出されていた。
「ごちそうさん。うまかった」
空腹を満たすと、凪砂は大きく体を伸ばして欠伸をした。細く白い腹がシャツの隙間から覗ける。まったく、この体のどこに大量の食物が入っているのかと不思議に思う。
「今日は彼女んちに泊まるから、晩メシはいいわ」
「わかった」
「次くんの木曜だよな?」
「うん」
彼女を紹介してほしいとはいわなかった。遠慮したわけではない。その日も葉一と観劇に行くことになっていたからだ。いつかは知られるにしても、その場に同席するのは気まずかった。
「凪砂」
店を出て行こうとする凪砂を呼び止め、いった。
「彼女のこと、好きなの?」
「は?」
凪砂が再び顔をしかめる。
「変なこと聞くなよ」
「ごめん。ちょっと気になったから」
凪砂は怪訝そうな顔をしていたが、おれが真剣だと気づいたのか、雑に頷いた。
「まあ、嫌いだったら付き合わねえし、好きだよ」
そこまでいってから、すこし迷って付け加える。
「好きになれたらいいとは思ってる」
「……そっか」
凪砂の正直さを好ましく誇らしく思った。おれが間違っていた。凪砂はなにもあきらめない。口では期待していないといいながらも、心の奥では、きっといつかだれかと本気で心を繋いで互いに大切に思い合えると信じているのだ。その相手が今の彼女でないとも限らない。性別を理由に除外してはいるが、葉一が凪砂にとっての運命の相手かもしれないのだ。
「おまえは?」
「え?」
「好きな奴とかいねえの」
唐突に聞かれ、戸惑って言葉に詰まった。
「中学でも高校でも彼女いなかっただろ」
「まあ……」
「それか、おれに隠れて付き合ってたとか」
「まさか!」
思わず目を見開いた。
「ま、おまえがおれに隠しごととかありえねえか」
多少胸が痛んだが、だれにもいわないと葉一に約束した以上、勝手に打ち明けることはできない。けっきょく、曖昧にその場を濁して別れた。
劇場に向かう凪砂を見送りながら、おれはまたこっそりとため息をついた。あれほど楽しみにしていた次回の観劇が、今では憂鬱なものになっていた。できれば急病かなにか適当な理由をつけて逃げ出したいと思ったが、空席をつくるのは憚られる。凪砂も不審に思うだろう。凪砂ほどではないが、おれも嘘が苦手だ。とくに凪砂にはいつも本心を見破られる。今日のやりとりだけでも疑念を与えてしまったのではないかと不安だった。
そういえば……
食器を洗う手を止め、ふと考えた。
凪砂はどうしてきたのだろう。中途半端な時間に昼食を取るためか。本番前にわざわざ足をはこぶのにはなにか理由があったのではないか。
不自然に手を浮かせたまま、おれは確かな予兆とわずかな不安とを感じていた。
凪砂は嫌悪感を露にしているが、もし葉一と付き合うことになれば、すくなくともこれまでのだれよりも幸せにしてくれるだろうし、凪砂にとって悪いことにはならないはずだ。しかし、そうなった場合、今のようにおれと同居するわけにはいかなくなるだろう。信頼されているとはいえ、ほかの男といっしょに住んでいるという状況が葉一にとって好ましいもののはずがない。
反対に、凪砂が葉一の気持ちを受け容れなかった場合もやはり、これまでの関係は崩れてしまうだろう。凪砂の性格から考えても、友人のまま曖昧に関係を継続することにはならないはずだ。
どちらに転んだとしても、おれの望む「現状維持」はありえない。もっとも現実的なのは、このまま葉一が自分の感情を抑えてなにもせずにいてくれることだったが、それは葉一ひとりが苦痛に耐えることになる。
深いため息を吐く。なにも知らないままでいられたらと願ったが、今さら記憶を消去するわけにもいかない。
おれはどうすればいいんだろう……
沈んだ気持ちの行き場を求め、おれは手のなかのスポンジを握りしめた。洗剤の泡が跳ね上がり、おれの頬にへばりついた。
根拠がないわけではない。おれは高校時代の記憶を手繰り寄せていた。
その日、おれは葉一とふたりで学校を出て帰宅する途中だった。ふだんは凪砂を含めた3人で帰ることが多かったが、凪砂は映画のオーディションと演技のワークショップを受けるため東京に出かけていた。
帰宅途中でおれのスマホが鳴った。父親からで、入院中の母親の容態が急変したことを報せる電話だった。葉一は取り乱すおれを落ち着かせ、タクシーを拾って病院まで付き添ってくれた。病院へ向かうタクシーの車内でおれの手を握ってくれ、だいじょうぶだからと励ましてくれた。けっきょく、母親は意識を取りもどすことのないまま息を引き取ったが、葉一の素早い対応のおかげもあり、最後の瞬間は病室で母の手を握り、ぬくもりを感じることができた。
母が亡くなった後も葉一は病院に残っていた。号泣するおれの背中を擦り、ただ黙ってそばにいてくれた。凪砂に連絡するかと聞かれたが、邪魔はしたくなかったし、伝えたところで、できることはない。凪砂が知ったのはオーディションとワークショップを終えて帰ってきた翌日だった。どうして報せなかったのかと激怒したが、憔悴しきっているおれを見かねたのか、通夜のときには葉一とともに黙ってついていてくれた。ただその場にいてくれただけで、心づよく感じたものだ。
「彼女できたこと、おれのほかにだれかにいった?」
「だれにもいってねえよ。すぐ別れるし」
抑揚を欠いた声でもう一度繰り返す。今度はなにも返さなかった。そんなことはないといったところで、気休めとしか受け取られない。
凪砂に彼女ができたことを葉一が知ったらショックを受けるだろう。葉一には知られたくないと思った。凪砂ほど長い付き合いでないとはいえ、おれにとっても葉一は大切な友達で、傷つけたくなかった。もちろん、凪砂の気持ちも無視はできないから、無邪気に応援するともいえないが、たとえ思いが成就しなかったとしても、これまでの関係が崩れることにならなければいいと思った。
いや、関係を壊したくないと望むのはおれの身勝手なエゴかもしれない。もし凪砂が葉一の思いを受け容れ、ふたりが付き合うことになったとしたら、その場合もやはり、今までのようには過ごせなくなるだろう。葉一にとってみれば、凪砂とおなじマンションに住み、小判鮫のように常について回るおれは疎ましい存在なのかもしれない。そう考えると落ち着かない気持ちになった。
「なに神妙な顔してんだよ」
凪砂の声で我に返った。いつの間にかシチューはきれいに食べ尽くされ、まるで洗い立てのような皿が目の前に突き出されていた。
「ごちそうさん。うまかった」
空腹を満たすと、凪砂は大きく体を伸ばして欠伸をした。細く白い腹がシャツの隙間から覗ける。まったく、この体のどこに大量の食物が入っているのかと不思議に思う。
「今日は彼女んちに泊まるから、晩メシはいいわ」
「わかった」
「次くんの木曜だよな?」
「うん」
彼女を紹介してほしいとはいわなかった。遠慮したわけではない。その日も葉一と観劇に行くことになっていたからだ。いつかは知られるにしても、その場に同席するのは気まずかった。
「凪砂」
店を出て行こうとする凪砂を呼び止め、いった。
「彼女のこと、好きなの?」
「は?」
凪砂が再び顔をしかめる。
「変なこと聞くなよ」
「ごめん。ちょっと気になったから」
凪砂は怪訝そうな顔をしていたが、おれが真剣だと気づいたのか、雑に頷いた。
「まあ、嫌いだったら付き合わねえし、好きだよ」
そこまでいってから、すこし迷って付け加える。
「好きになれたらいいとは思ってる」
「……そっか」
凪砂の正直さを好ましく誇らしく思った。おれが間違っていた。凪砂はなにもあきらめない。口では期待していないといいながらも、心の奥では、きっといつかだれかと本気で心を繋いで互いに大切に思い合えると信じているのだ。その相手が今の彼女でないとも限らない。性別を理由に除外してはいるが、葉一が凪砂にとっての運命の相手かもしれないのだ。
「おまえは?」
「え?」
「好きな奴とかいねえの」
唐突に聞かれ、戸惑って言葉に詰まった。
「中学でも高校でも彼女いなかっただろ」
「まあ……」
「それか、おれに隠れて付き合ってたとか」
「まさか!」
思わず目を見開いた。
「ま、おまえがおれに隠しごととかありえねえか」
多少胸が痛んだが、だれにもいわないと葉一に約束した以上、勝手に打ち明けることはできない。けっきょく、曖昧にその場を濁して別れた。
劇場に向かう凪砂を見送りながら、おれはまたこっそりとため息をついた。あれほど楽しみにしていた次回の観劇が、今では憂鬱なものになっていた。できれば急病かなにか適当な理由をつけて逃げ出したいと思ったが、空席をつくるのは憚られる。凪砂も不審に思うだろう。凪砂ほどではないが、おれも嘘が苦手だ。とくに凪砂にはいつも本心を見破られる。今日のやりとりだけでも疑念を与えてしまったのではないかと不安だった。
そういえば……
食器を洗う手を止め、ふと考えた。
凪砂はどうしてきたのだろう。中途半端な時間に昼食を取るためか。本番前にわざわざ足をはこぶのにはなにか理由があったのではないか。
不自然に手を浮かせたまま、おれは確かな予兆とわずかな不安とを感じていた。
凪砂は嫌悪感を露にしているが、もし葉一と付き合うことになれば、すくなくともこれまでのだれよりも幸せにしてくれるだろうし、凪砂にとって悪いことにはならないはずだ。しかし、そうなった場合、今のようにおれと同居するわけにはいかなくなるだろう。信頼されているとはいえ、ほかの男といっしょに住んでいるという状況が葉一にとって好ましいもののはずがない。
反対に、凪砂が葉一の気持ちを受け容れなかった場合もやはり、これまでの関係は崩れてしまうだろう。凪砂の性格から考えても、友人のまま曖昧に関係を継続することにはならないはずだ。
どちらに転んだとしても、おれの望む「現状維持」はありえない。もっとも現実的なのは、このまま葉一が自分の感情を抑えてなにもせずにいてくれることだったが、それは葉一ひとりが苦痛に耐えることになる。
深いため息を吐く。なにも知らないままでいられたらと願ったが、今さら記憶を消去するわけにもいかない。
おれはどうすればいいんだろう……
沈んだ気持ちの行き場を求め、おれは手のなかのスポンジを握りしめた。洗剤の泡が跳ね上がり、おれの頬にへばりついた。



